ことばのくさむら

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『愛という勇気』(1)

●10年ぶりに再刊した一冊の本
  
愛という勇気 -自己間関係理論による精神療法の原理と実践-』 
THE COURAGE TO LOVE(S・ギリガン著/崎尾英子訳)への招待(1)
   

   
   
   
この本は、訳者の崎尾英子(小児精神科医)さんが、アメリカでのギリガンさんのワークショップに、(著者によれば、少し時差ボケの)とても知性的な熱心な受講者として参加したことから始まりました。
ぜひ日本にきて講座をひらいてほしい、ということで始まった日本での初めてのワークショップも開かれ、その時からギリガン氏は数度にわたって来日されました。ある年は、秋田の古い寺をまるまるお借りして、4日間のプログラムがおこなわれました。20人ぐらいのワークで、感情においても観念においても親密で率直な、ワークでした。崎尾さんの本の編集者であった私もさそっていただいて、初めてこういうワークに参加し、その時の印象を深くおぼえています。
2002年理不尽にも、崎尾さんは亡くなり、それから10年、この本は品切れのまま、しばらくお休みしておりました。今回、ギリガンさんのアメリカでの夏季セミナーをずっと受けてこられ、国立子ども病院時代の同僚で友人だった埼玉市立病院小児外科の中野美和子先生の要請を受けて、そろそろと思っていたところでもありました。初版後、指摘していただいていた訳の訂正等一部に手をいれ、新装版の形で再刊いたしました。
 ギリガン著『愛という勇気――自己間関係理論による精神療法の原理と実践』の原題は、「The Courage to love : principles and practices of self-relations psychotherapy」。主タイトルの「The Courage to love」を「愛という勇気」とし、サブタイトルの「self-relations psychotherapy」を「自己間関係理論による精神療法」と訳した崎尾さんのセンスは今でもすばらしいものだとおもいます。ギリガンさんの精神療法の核心は、自分が自分を「後見」し、自己のうちにある「生命の河」「生命の中心」からやってくる存在感覚をいかに取り戻して生きられるか、その自己および他者へ向けての技術の原理と実践を明らかにすることであり、この技術とは外在的なものではなく、スキルskill(からだそのものの体験として積み上げていく技の力能)です。崎尾さんはこのスキルをあえて「技術」と訳しました。技術という言葉のもつ対象性と、スキルという言葉のもつ主体性を一体のものとして扱い、「生命の技術」こそが「愛」であり、この技術を身につけて自己と他者、この世界に向かって生きることが、「愛という勇気」なのだ、としたのだとおもいます。
 以下に、本書の「実践編」への前提となる思考をめぐっていくつかの文章を抄出し、紹介してみます。詳しくは本訳書をぜひご覧ください。(I)
    

 
本書の著者、スティーブン・ギリガン氏
    
 
訳者の崎尾英子さん(言叢社にて)
    

●生命という認識:生命がわれわれの内部を通過するという認識には二つの側面がある。一つはあらゆるものの内部を通って流れるエネルギーに満ちた存在を実感できる感覚である。(中略)筋緊張や解離によってこの流れの感覚がせきとめられる場合、抑うつ感が訪れ、自分にとっては見知らぬ外部の力に思える存在がどんどんと自分を圧倒する感じに襲われる。
 もう一つの側面は心理的な動きに関するものである。人間であることに関わるあらゆる経験を何度も何度も通過するだろう、ということだ。それを避けて通る術(すべ)はない。生きているからには、なにびとも幾度も悲しみや幸福感や怒りや失望などに晒されることを免れない。免れることができないため、われわれの各々が(そして各々の文化や家族や関係が)その経験をどう理解し、どう付きあうかの方法を見出すのである。それらの方法のうちには役立つばかりか成長を促すものもある:しかし一方で役に立つどころか、実りに至らない苦悩ばかりを増やすものもある。治療者に課せられているのは、生命のもたらす経験がどのようなものであれ、それを受け入れ、それと共存し、それから学ぶ方法を獲得できるように人々を援助することである。〈p.33〉
●生命のイメージ:生命がわれわれの内部を河をなして流れるという認識は、同時にわれわれを固定する特定の、単独のイメージなどはないことを示している。自己は「傷つけられたインナー・チャイルド」でも「賢い老女」でも意識を欠くスーパーコンピューターでもなければ、どのような隠喩でも「もの」でも表すことはできない。同時に複数の命題で記述されてはじめてその存在が少しだけ顔を出す。そしてその命題のいずれも詩的な意味あいをこめた隠喩である:どれ一つとして字義通りに受け取られるべきではないし、どれか一つが別の隠喩の可能性を排除するものでもない。自己を表現するために用いられたどれかの隠喩が字義通りに受け取られたり、または他の意味あいを排除するとすれば、直ちに困難が生じる。〈p.33〉
●二つの中心:「認知で経験される私」のほかに、「身体で経験される私」の中心にあって、実感される感覚としてわれわれが感じる場所は、身体の知恵をつかさどる部位であり、世界に対してもっと有効に対応していくうえで極めて大切だ。この中心とのつながりが失われると、問題が発生してくる。人がこの中心と再び関係を結べれば、新しい経験や新しい理解や新しい行動選択が出現する。〈p.31〉
●自己とは:自己とはわれわれの内部に含まれる「もの」ではない。芸術や催眠や瞑想などの伝統においては精神プロセスが起こるにつれて、ただそれが起こるに任せ、それとともに居、それを受け入れる方法を探すことの重要さが繰り返し述べられてきた。この意味で、精神はわれわれを通過して拍動しており、普遍的かつ個別的な成長の道程を示唆する。楽しい経験ばかりがあるわけではない。人間として成熟するためには不快な経験も数多く通過しなくてはならない。成熟をめざす決意をした後は、われわれの深部から聞こえる精神の「示唆」をどう読み取り、どうそれと協力するかを学ぶことになる。〈p.34〉
   

   
   

   

愛という勇気―自己間関係理論による精神療法の原理と実践

愛という勇気―自己間関係理論による精神療法の原理と実践

      
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