台湾にふれて(8)〜台湾季語「年々有魚」
【年々有魚(ネンネンヨオイイ(中))】年々有余(ネンネンヨオイイ(中))・有魚(ヨオイイ(中))・年々有魚(ニイニイウヒイ)
年末年初に限って甦る吉祥語。物でも事でもないが歴(れっき)とした季語となろ
う。吉祥語の濫觴は中国では後漢の代にはじまったらしいとされるが(吉祥の語を刻んだ幾多の佩玉印が残されている)、魚(ヒイ)の音は余(イイ)(餘)に通じ、魚があるとは余(あま)りがあることに外ならなかった。人は余りがあれば残り、残れば絶えない。折りを見て芽吹きもしよう。希望の拠りどころでもある。台湾料理では最後の一皿に魚を出すのが普通で、客はそれに箸をつけず、残しておくのが礼であり、嗜みでもあった。そのような魚だ。台湾の商家が好んで熱帯魚の水槽を設(しつら)えたがるのも、水が財の源であり魚が吉祥のものだからだろう。況んや年末とか年始とかは関所に外ならなかったから、ただでは通れない。「年々有魚」の語は年賀状に乗り、冬籠る猫にまで届く。
年々有魚湯気を吹き食む朝の粥 …金露花
去年の魚残れる卓に初明り …周月坡
父慈子孝三代同堂年々有魚 …李錦上
父の書の年々有余正庁に …何秀慧
年々有魚画廊に魚の絵の売れて …陳錫枢
年々有余よき友達に恵まれて …張継昭
床の間に年々有余魚飾る …篠原利秋
有魚と名乗る妓のゐる浦小宿 …黄霊芝
最後に、堂々たる台湾季語をあげて終わりにしたいとおもいます。「年々有魚湯気を吹き食む朝の粥」。年が明けた朝の食卓の粥を家族が一同に会して食する晴れやかで生活感にあふれる光景がおもい浮かぶ、じつに直截な句です。「年々有魚」という不思議な言葉が家の正庁に家長の手で大書され、吉祥魚の絵が貼られる。はじめてこの言葉が記されているのを見て、その意味がわかる日本人は少ないでしょう。「魚」の漢音が「イイ」(台湾語は「ヒイ」)で、「余」も「イイ」であり、二つは音で通じている。だから「魚」は「余」に通じる、という論法だ。「有余」とはどういう意味かというと、手もとに「余り」のあるさまをいう。したがって、「年々有余」とは、家の営みが年々に余りのあるさまであり、そうでありますようにという願いをこめた吉祥語。それを「年々有余」と言わずに、「年々有魚」というのだと解説は記しているのです。
「有余」はこの国で知っている言葉でいえば、「現世利益(げんせりやく)」「子孫繁盛」「来世極楽」などのすべてをふくむ言葉でしょうが、ちょっと違うようでもあります。なにしろ「有余」というのが魅力的です。言葉のままに捉えて、現在の暮らしに「余りの力」がある様態とみたらどうでしょうか。たとえば前々項にあげた季語「蛙釣る」のような遊びとなりわいが一つになり、ゆったりとした暮らしの感覚がある様態もまた、「有余」の大切な一つであるとみて、さらにこれを魚のイメージに転換させた「年々有魚」というふくらみのある言葉は、とてもゆったりとして好ましいものであることに気づきます。
しかし、それにしても「有魚」が「有余」であると聞かされても、なぜそういう説明が生まれたかというのは、よく理解できません。漢語の換喩的な用法として同音韻の語が互換性があるというのは、中国の古文献解釈の際にしばしば使われる論法のようですが、日本人にはその論がよくわからないのです。
たとえば、高名な中国の神話学者・何新の『諸神的起源―中國遠古神話與歴史』(民国76年[1987年]、台湾木鐸出版社)をみますと、嬴(エイ、yíg)、蠃(ラ、yíg)、贏(エイ、yíg)の三字の本字は蠃であるけれども、その音は黽(バゥ、ビン、ベン・メン。バゥと読んで漢和辞典ではアオガエルの意とある。mĭan, mĭn )に通ずる。黽は古代にあっては浅水生物の共名であり、多くのばあい蛙黽を指す。蛙黽とはすなわち蟾蜍(センジョ、ヒキガエル)のこと。ところで、黄帝は有熊氏と称するが、この「熊xióng」字と「嬴」とは古くから「通用」しており、「有熊」は「有嬴」であり、すると、「有黽」でもある。黄帝はまた姫姓(正確には正字を使用)であるとするが、姫(jī)姓と姒(sì)姓とは同姓をなし、姒は嬴の一声の転である。それゆえに姫姓はすなわち嬴姓であると記されています。
これによれば、黄帝の母系の姓が姫姓=嬴姓=黽姓=蛙黽姓であり、それはさらに「有熊氏」にも通ずるという説が説かれているのです。ちなみに、括弧の中のカタカナは日本の漢和辞典の発音、ローマ字表記は中日辞典の発音です。音韻の「通用」がどのようかもよくわからないし、なんとも融通無碍、わかったようなわからないような。しかし、こういう論法をさまざまな本で読んでいますと、なんとはなくそのようなことがあるのだと思ってしまうから不思議です。おそらく、このような音韻通用的解釈説が正しさの可能性をふくむためには、「通用の構造」の類型化をおこない、この類型のあいだに一定の展開のありようが見出された時なのではないでしょうか。
象形文字にはじまった漢字にはそもそもから字形に意味が含まれています。漢字が帝王の祭政にもちいる文字として通用した範囲では、その音と字形と意味の関係は比較的に一義性が高かったかもしれない。ところが、漢字が多くの氏族、さらには広大な地域の住民に流布されるようになると、「書記の文化」としての漢字文化は話し言葉がまるで異なる地域でも、字形が与える意味によって通用しはじめる。そうなると、同じ字形なのに意味からたどって異なる発音がその字形に与えられる事態が生ずるだけでなく、こんどは字形の意味をたどって、字形のすこしちがった自分たちの文化の意味の系に適合する漢字を創造するようにもなる。そして、創作された字形と元の字形とがほぼ同じく通用する音をもつといった事態が生じたとします。そういうことが起こったのなら、そして、そこに一定の構造的類型が見出されるなら、字形と音韻と意味の「通用」によって、古代漢字の系譜を解釈することもありうるのかもしれない。
日本の古典では、吉本隆明氏が『古代歌謡論』のなかで、枕言葉の起源が先住民の言葉と後来民の言葉との重ねによる喩語となったものという魅力的な理解をはじめて示しましたが、中国の漢字文化を受容した日本語がその字形と音韻と意味、あるいはその表出にどんな通用を与えたか、これを中国の通用構造と比較してみることは、これからの課題なのかもしれません。
「有魚」が吉祥の語や図像形象であることについては、靳之林(ジン・ツーリン)著『中国の生命の樹』(岡田陽一訳、言叢社)がとても興味深い指摘をしています。中国の新石器時代の仰韶文化はスウェーデンの地質学者アンデルソン(英語のアンダーソンのほうが有名)によって発見され、彩陶(彩色陶器)の文化として知られています(いわゆる「アンダーソン土器」)。この彩陶のうちに、魚を鉢(平皿)の内側に対または四方に配したり、壺の外側に対で配したりして描いているものがあります。また、魚紋と対になって一般に「魚網紋」と呼ばれる図像が配されている場合もあります。ところが同じような陶器(日本では釉薬のかけてないものを「土器」と呼びます。中国では「陶器」)が、ほぼ同じ時期か、それより古い中近東のスーサ遺跡などで発見されています。
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一般的に中国では彩陶文化が中国独自の起源をもつとしていますが、靳(ジン)氏は中近東との影響関係を認め、「魚紋」といわゆる「魚網紋」の表象は中近東先史文化と中国の仰韶文化の双方ともに同じ意義をもち「生命表象」にかかわるものだと指摘しています。靳(ジン)氏によれば、仰韶文化の生まれた黄河流域、黄土高原一帯では、魚は黄帝とされ、それゆえ食べないという習俗があると言います。彩陶文化で「魚網紋」とされるものは魚網ではない。これは生命表象であり、漁撈活動をしていた証拠ではないというのです。いわゆる「魚網紋」とされるものは、中国でのちに「如意」「盤長」などとよばれ組紐などにあらわれる「吉祥紋」の最も古い表象の一つであるというのです。
黄河では鯉類その他がいると聞きますが、黄土高原の一帯ではたしかに食べている風はあまりみられないようです。しかし、魚を食べることと魚が生命表象であることとは、けっして矛盾するものではないでしょう。いずれにせよ、魚と生命表象とを結びつける文化はとても古く、そうであれば、「有余」と「有魚」を結びつける言葉の文化の前に、さらに奥深い文化の重なりがありそうです。このあたりはまた、稿をあらためてほかの人に書いてもらう予定です。
話題をすこし転じて日本でもっともよくしられる台湾の映画監督・候孝賢(ホー・シャオシェン)の映画に、「恋恋(れんれん)風塵」「冬冬(トントン)の夏休み」「童年往事」といった名作があります。「れんれん」「トントン」あるいは、「童年」と「往事」もまた反復重ねによる漢語の韻律の特質を語っており、「年々有魚」という漢語の韻律もこれと同じであることに気づかされます。候孝賢映画にかぎりませんが、四文字の漢語による題名が多いことのうちにも、この種の音韻効果があるのではないか確かめてみたいと思っています。これらの映画をはじめて見た日本人は、わたしたちがかつて持っていて忘れかけてしまった、風景に埋め込まれた心情に出会い、おもわず涙する人が多かったのではないでしょうか。この映画を思い出しつつ、私は「童年」という言葉と「年々」という言葉が同じ言葉と思ってしまったりします。つまり、この二つが互換性をもつなら、「童年有余(魚)」「年々往事」というように。
この稿の終わりに『台湾俳句歳時記』にかかげられた例句についてすこしだけ意見を記させてもらいます。季語の意味と暮らしの感覚がよく理解されてくると、これらの季語を用いた台湾俳句が依拠する生活文化の広がりについてはよく見えてくるようにおもえます。しかし、それは句が句として現実から飛翔する、あるいは現実と自己を撃つ内なる声の表出の底部をつくるにすぎないでしょう。では台湾俳句で、内なる声のたかまる表出の場所はどのあたりにあるのでしょうか。日本の俳句は、現代詩と等しく、しだいに隠喩法を中心にしたものになってきたのに対して、例句を読むかぎりでは、喩法の高度さは黄氏の句を除いてはそれほどあるとはおもえません。そこで日本の俳人が喩法の水位から見てしまうと、台湾俳句のうちにあるものについて、なにか間違えてしまうのではないでしょうか。これは俳句を知らぬものの言葉かもしれませんが、そんなふうにおもえるのです。
台湾の俳人にとっては、日本の俳人がはるかな以前から無意識に呼吸してきた音数律あるいはイントネーションが、禁圧によって失われた感性をふたたび見出したように、快く新鮮なのではないでしょうか。しかもなお、そこに台湾季語に示すような日常の台湾語の韻律、イントネーションが住まうことで、一句の意味は日本語の音数律・イントネーションと台湾語の韻律、イントネーションとのコラボレートと言ってもよいような響きをもつことになります。このコラボレーションは、日本語と台湾語との感性がひびきあうというだけで、すでに新たな感性の質と価値を用意するものなのではないでしょうか。それはちょうど二重の語彙の重ねが、枕言葉の、意味がなく意味があるような表出の価値感を付与するのに似ているかもしれません。ただ、この感覚はこの国の俳人の側からは了解しにくいものでしょう。この国の俳人と台湾の俳人とのあいだにあるものをどう了解できるかは、例句を読みつつ、とても大切な課題とおもえたのです。
日本語と台湾語との関係について、黄氏はしばしば閩南(ビンナン)語系である台湾語の発音は北京官話(中国標準語)よりも日本語漢字の発音(呉音とされるものでしょう)に近いものが多くみられることに留意するよう促しています。もう一つ書き加えておきますと、先に紹介した金関丈夫は戦後の琉球先島諸島調査で波照間島にゆき、島びとのイントネーションがかつて台湾で接触した先住民(当時は「高砂族」と呼んでいた)のインドネシア系(と呼んでいます)の言葉のイントネーションに近いことを指摘し(「波照間―波照間通信4」)、南方語文化が琉球弧の言語文化に与えた影響を論じました。琉球語は日本語の方言とする研究者(宮良当壮・服部四郎)とのあいだで論争さえおきました(詳しくは谷川健一編『叢書わが沖縄第三巻 起源論争』木耳社、1971参照)。台湾俳人がつくる台湾俳句の漢語(台湾語)はビンナン語系ですが、そのうちにも、このようなオーストロネシア系古層の近縁さえもが反響しているのかもしれません。
例句を自分の関心に応じて引き出し、季語を意識しながら、これをさらに並べ変えてみたりしてゆくと、台湾俳句の表現が内包する力についてもうすこし深くわかってくるのかもしれません。ちなみに、『台湾俳句歳時記』の帯うらにこの試みをしてみたのですが、あまりうまくは行きませんでした。がとにもかくにも、ここに引用してこの稿の終わりとします。ネンネンヨオイイ。(この稿、完)(S)
【送神(ソンシン)】神送りその静けさを掃きにけり
【大道公生(タイトオコンセェー)】大道公誕古き巷を暮れしめず
【摸春牛(モオツングウ)】春牛をくまなく撫でてゐる親子
【花季(かき、フェーキイ)】終バスを遅らせ山の花季収
【蛙釣る(かえるつる)】ふるさとの斜陽背にして蛙釣る
【中元節(ちゅうげんせつ)】祖霊来る中元節の大き卓
【重陽節(ちょうようせつ)】凧揚げに笠を傾げて父の立つ
【土いぢり(つちいぢり)】亡き母も在す気のして土いぢり
【小籠包(シャウロンパウ(中))】夜ふかしの子に温めをり小籠包
【火鍋(フェーコオ)】火鍋の卓にふと合ふ万葉の妓
【基隆雨(ケエランホオ)】埠頭の燈街の燈滲み基隆雨
【紅肉内李(アンバアライリイ)】阿里山の少女早熟紅肉李
【君子蘭(くんしらん)】病室に家風のごとき君子蘭
【相思樹の花(そうしじゅのはな)】喪の家に相思樹の花こぼれつぐ
【鳳凰木(ほうおうぼく)】鳳凰木余生しづかに炎ゆるべし
【桔仔(キッアー。四季橘)】桔仔の大鉢を置き店開く
【画眉(ホエビイ、画眉鳥)】画眉にふる里言葉かけ老兵
【鳥騒ぐ(とりさわぐ)】忘れゐし空の広さよ鳥の春
わが沖縄〈上〉 (1970年) (叢書わが沖縄〈第1巻〉)
わが沖縄〈〔下〕〉 (1970年) (叢書わが沖縄〈第2巻〉)
- 作者: 谷川健一
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