ことばのくさむら

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台湾に触れて(1)〜台北の草木花

台湾での生活がその文学に大きな影を落としているとおもう作家に埴谷雄高がいます。
『虚空』はポーの『メールストロームの渦』を念頭においた小説だけれど、描写の背景にあるのは台湾の高山に登った少年時の記憶でしょう。埴谷さんのどこか開放的な感覚の奥にあるのも、台湾での生活がもたらした感性とおもっていました。もう一人、お会いした方で、台湾の感性を身につけた詩人・画家に、まど・みちおさんがいます。1934年の台湾時代の詩に「ランタナの籬(かき)」があります。
                     
               
ランタナの籬に 沿うてゆけば
ランタナは 目の高さ、
きらきらと 朝露も 目の高さ、
              
                
                   

鹿港(ルーガン)の街で見かけたランタナの生け垣
               

ランタナ(七変化)の花。(渥美・パナリ荘にて)

                   
内向した青年がランタナの籬に沿うて歩んでいる姿が彷彿として、しかもその抒情はとてもやわらかく、やさしい。後年の「ぞうさん」の童謡の前にこのようないくつもの美しい詩があり、そのことを故・阪田寛夫さんの『まどさん』(ちくま文庫。阪田さんのまどさんについての本には『まどさんのうた』[童話屋]もあります)で知り、とても惹かれました。
まど・みちお全詩集』(理論社)のこの詩には「注・ランタナクマツヅラ科の落葉小低木」とあります。台湾に何度か通った時に、いったいランタナという植物はどんな木でどんな花が咲くのだろうとおもい、台湾の人に聞いたのですが、ランタナ?と不思議な顔をし、ランタナの籬にはついぞ出会うことができませんでした。台湾名が別にあるのでしょう。何年前でしたか、知多半島からカーフェリーで渥美半島に渡り、大隣田寺氏にお会いした時、ランタナの木を知っていますかと聞いたら、自宅に花が咲いていますよと言われ、その後、メールで写真を送ってくれました。そこではじめてこんな木でこんな花が咲くのかとわかったのです。聞くところでは、東京近郊でも家の庭によく植えられているということですから、知る人ぞ知るだったのでしょう。
青年の頃、歩いている地面の実感がよくわからなくなり、身体と意識とが隔離されてしまったような時間が続きました。そんな時には、なんで花が美しいかもよくわからなくなりました。花が美しいなんておかしい、と理屈を人にしゃべったこともあります。そんなこともあって、植物名には全くの無知のまますごしてしまいました。ところがどうしたことか、年を経るにしたがって、草木花の美しさのようなものがすこしだけわかる時があり、ハッとして美しいなあとおもったりするようになったのです。
             

台北市仁愛路三段の路地にて
              

台北市、民家の窓辺の花

                 
台北の街、それも大通りから路地に入った道をあてどなく仲間と、あるいは時に一人で散策していると、東京の街中を歩いている時よりも、なんとはなしに心が落ち着き、なつかしい気分がしてきました。家々の窓辺に花々が咲いていたことと、ガジュマルの大樹が影を落とす小さな公園で、近所の子どもたちが遊び戯れているのを、ほおっと眺めているときに、やわらかく温かい気感のようなものがあたりを包んでいると感じたのです。この土地では、家々と街と人とが一体に包まれている気感がたしかにあると感じたのです。花や木を美しいと感じられるのは、それらの花や木を文化にしている気圏があってなりたつにちがいないのです。
                  

台北市植物園の蓮
           

台北園芸管理所
            

台北の花市
             

台北の花市にて
              

台北の花市にて

            

 台北ではまどさんが戦前にも植物園のことを書いていますが、国立歴史博物館の裏に水蓮の美しい植物園がありますし、士林夜市の繁華街の反対側に、広大な園芸管理所があって、たくさんの園芸植物が栽培されていました。ですが、それより楽しいのは建国大路の高速道路下で毎日曜日に開かれている「花市(假日花市)」です。建国大路はとても広い通りですが、大路の中央を高速路が走っていて、両側の街を分断しています。そこで確かに分断されているのですが、高速道路下の空間が優に100mほどは続く「花市」となっているのです。そして、花市と対面するようにもう一つ北側の道路下では「玉(ぎょく)市(假日玉市)」が開かれています。日曜日の「花市」は家族連れや若い男女でいっぱい。そこではありとあらゆる木や花が色彩もあざやかに売られています。「玉(ぎょく)市」は若い男女がほとんどですが、何百軒という小さな店が並び、どれも同じような「玉(ぎょく)飾り」の商品がぎっしりと並んでいます。花市と玉市のある建国大路より一つ西側の通りには戦前の建物が残された台北工専があり、そこではゆったりとした雰囲気で昼食が取れましたし、反対側は八徳路一段の有名な電気街とそれに骨董街、玉市街(こちらは、玄人向けの玉市店がまじっている)もあって、このあたりは台北でもなかなか楽しい場所です。
       

台北の玉市の様子

             

                 
仕事で川崎市の「草木花の文化」を取材したことがあります。川崎の園芸文化といっても東京の方はあまり知らないでしょうが、昭和初期に多摩川の東京側に「多摩川園芸村」があり、川崎側には馬絹(まぎぬ)、市の坪などに「露地切り花」「枝物」などの栽培があり、戦後は小田中花卉園芸組合などが有名で、いまも草木花の産地でもあるのです。小田急沿線には川崎市緑化センターやフルーツパークなどもありますから、歩いてみると草木花の文化にはなかなかのものがあるのですが、市民でもそのことを十分には知っていません。園芸栽培の文化と草木花を楽しむ文化とが接する場所が、もうすこしあってもよいのではなどと考えながら取材を進めました。川崎区の中心街を行きますと、高速道路が大きく街並みを分断しているようなところに出会います。もちろん東京にもそういうところがたくさんあります。そういう姿を見ながら、台湾の花市を思い浮かべました。分断している道路下を花市や玉市の盛り場にすることで、この分断の空間がちがう空間に変わって楽しいものになっていたのです。そういう工夫の仕方があったらいいなあと思いました。
東京の高架鉄道下の空間は、当時はまだ倉庫や事務所が多く、ガード下の飲食街があっても、高架の両側に開いた空間はまだほとんどなかったとおもいます。国鉄が民営化してしばらくして、はじめてあちこちの高架下が両側に開いた空間をつくるようになったのはうれしいことです。そこでおもうのは、台北の花市のように日曜日ごとに開かれる楽しい「市(いち)空間」といったものも、そこにつくったらよいのではないか。高速道路下の空間ももちろん生かすようにする。そのことで、分断された空間が開かれてくるとおもえました。
東京の前身である「江戸」の草木花文化は、当時の世界では驚くほど盛んなものだったことをイギリスの高名なプランター、ロバート・フォーチュンは、その著『江戸と北京』(三宅馨訳、広川書店、一九六九年。一八六〇年から一年近くに及ぶ日本訪問の記録をふくむ)の中で、次のように記しています。
                

染井村の項:交互の樹々や庭、恰好よく刈り込んだ生垣がつづいている。公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイルもつづいている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている。…(中略)…
鉢植えの植物は…(中略)…われわれが本国で行なっているような同じ方法で、栽培されたり、整理されている。…(中略)…そこでサボテンやアロエのような南米の植物に注目した。それらはまだシナでは知られていないのに、日本へは来ていたのである。実際それは有利な識見による日本人の進取の気質をあらわしている。かわいらしいフクシヤの種類があったが、まだ別の外来種も目についた。…(中略)…ある園で、新緑色の葉をつけたカシのいろいろな種類を検分した。それらは美しい方形の磁器の鉢に植えられ、おのおのの鉢には、メノウや水晶の小片や、別の珍しい石を敷いたりして、多くは富士山―日本の無比の山―をかたどっている。…(中略)…美しい南京製の磁器の角鉢に、深緑色の観賞用の葉が重なり、奇妙な形をした色とりどりの小石などは、日頃見なれないので斬新で、いちじるしく印象的であった。
            
向島の項:川岸に沿って行くと程なく、近くに家の見当たらぬ田舎に到達した。背後を眺めると、河の向うに寺院や物見櫓や木の茂った丘の起伏など、江戸の町が眼前に広がって、ひときわ美しい絵のようであった。その場所全体がまるで一大庭園であった。もっと正確に言えば、茶園と樹木でおおわれていた。季節は十一月も終わりに近かったのに、白や赤の短弁のツバキや、コウシンバラの花が満開であった。…(中略)…われわれは何軒も茶屋や花樹園を訪ねた。そしてそこの設備や企画から考えて、春や夏のシーズン中、遊楽や保養を楽しみにやって来る、無数の江戸人に愛顧されているに違いない。われわれは到る所で、丁重に迎えられ、園主からお茶をもてなされた。
        

               
当時の江戸が汚濁の都市だったパリにくらべてはるかに衛生的な都市だったことはよく知られています。下層住民が暮らした長屋をみても、長屋の路地には共同の井戸と便所があり、排泄物は肥桶車で近郊農村に運ばれ、肥料となっていました。長屋の店主(たなぬし)は肥の代金を自分のものにできたから、集住するアパートの階上から汚便が降るといったパリのような汚れはありえなかった。現代の都市住民は寄生虫感染を考えて汚いとみなしていますが、当時にあってはすぐれた汚物循環のシステムが都市の清潔を創りだしていました。その長屋の路地には鉢植えや植え込みの花々が季節を飾っていたのです。
春先や秋の歓楽の空間も江戸郊外にはあちこちにありました。フォーチュンが記している向島の風景のなかにそのことがよく語られています。向島からは、隅田川を越えて江戸の町並みが一幅の美しい絵のように見えた。そして、歓楽時には大勢の人々が茶屋や花樹園に集まっていたことを、そこにある施設からフォーチュンは目ざとく洞察しています。
染井村の記述をみますと、当時これほどの園芸の村は西洋のどこにもなかっただろうと記してもいます。また、ここには引用しませんでしたが、神奈川近郊の田園の記述では、小さな農家の庭がそれぞれに花や樹々の親しい空間を持っていることに着目しています。
フォーチュンのまなざしが、じつに率直に日本の風景を観察あるいは洞察しているのには驚かされます。柳田國男は『明治大正史世相篇』のなかで、江戸に朝顔が入ったころの町のすがたをあざやかに描いていますが、江戸町民がいかに花々を愛し、郊外の自然に愛着をもっていたかがこれらからわかります。
                 
多様で芳醇な草木花が生活文化のうちに一つとなっている場所―台北の路地を歩きながら、そのやわらかく温かい気感にあらためて気づかされたのでした。*1 (S記)
                   
                    

台湾俳句歳時記

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虚空 (1960年)

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まど・みちお全詩集<新訂版>

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まどさん (ちくま文庫)

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幕末日本探訪記 (講談社学術文庫)

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*1:まど・みちおさんも川崎市在住でした。この記事は、川崎市市民文化室刊行の『クォータリーかわさき』43号特集「かわさきの草木花」(1995年)および同50号特集「童謡への招待」(1997年)の取材を思い出しつつ書いたものです