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歴史に開かれたジョイス 金井嘉彦

 

 拙著『ガラス越しに見るジョイス』の帯には「ジョイス研究の新しい地平を開く」とある。同書の広告チラシには「新しいジョイス論」とある。「ジョイス産業」と呼ばれるほどに、毎年毎年論文や本などが多数出される研究分野で、まだ「新しい」という言葉を用いることが可能な領域が残っているのか?答えはイエスである。

 

 私が「新しい」という言葉で考えているものは、二つある。その一つは、2016年2月にB&B書店で行なった『ジョイスの罠──「ダブリナーズ」に嵌る方法』出版記念イベント、および2022年6月11日付の『図書新聞』で使った言葉を用いるならば、「資料のビッグバン」と呼ぶべき現象により、使える資料が爆発的に増えたことである。もう一つは、それによりジョイス作品を読むときのコンテクストが飛躍的に拡大したことを指す。したがって、二つと言っても、一つの事柄の、別の現れ方を指してしているだけで、具体的には一つのことと言ってよい。

 

 「資料のビッグバン」と私が呼んでいるのは2000年代に入って顕著になってきた現象で、古い資料が次々とpdfの形で読めるようになったことを指す。インターネット上で公開された資料は、古い歴史を持つ大学図書館や、国会図書館規模か、あるいはそれをはるかに超える。

 

 たとえば、新聞資料は、昔であればマイクロフィルム等で調べなくてはならなかったものが、今では新聞社のアーカイヴによって簡単に見ることができるようになった。しかも検索可能な形で。マイクロフィルムの場合には、調べようと思っていた特定の記事、たとえば、○○年☐月△日に載ったことがわかっている記事を読むことはできても、調べようとしていることが、どこに、どれくらいの頻度で現われているかを見ることが、できなかった。調べることができたとしても、一つ一つ記事をあたるという、いかにも非効率的なやり方を取らざるを得なかった。トピックによっては、それらをまとめたインデックス資料で見つけることもできるが、そこにすべてのトピックが網羅されているとは言えない。くわえて、そのようにしてインデックス化された結果について、どれだけ正しいかという判断を、まったくの他人に委ねてしまうことになる。

 

 雑誌にしても同じだ。『ジョイスの挑戦──「ユリシーズ」に嵌る方法』のコラム「リトル・マガジンの時代」でも書いたことだが、たとえば、「モダニスト・ジャーナルズ・プロジェクト」(Modernist Journals Project) に行けば、ジョイスが生きた時代に出ていた、ジョイスが目にしていた、そしてジョイスの作品が掲載された雑誌を見ることができる。書籍のアーカイヴサイトに行けば、日本の図書館では閲覧することがほぼ絶望的な雑誌が嫌というほど読める。

 

 書籍にしても同じだ。こんな本があったのかと驚くようなものが、インターネット上にゴロゴロと転がっている。それに興奮を覚えない研究者は、いないはずだ。

 

 「資料のビッグバン」の功績は、なんといっても古い資料が容易に読めるようになった点にあるが、その意味は三つある。その一は、昔であれば、資料のある図書館に出向いて、資料にあたる必要があったが、その手間と煩わしさが不要になったことである。世界各地の図書館に、照会し、許可を得て、飛行機に乗って出かけていき、コピーも取れずにその場で読んでメモをするという、基本的とはいえ、前時代的な、労苦から解放されることのありがたみは言い知れぬものがある。その二は、どこかの図書館にあることがわかってもだからといって見られるかというとそれは別の問題であった。古い本であれば稀覯本扱いになり、借用はもちろん、読む際もクッション付きの書見台で読まなくてはならない。向こうの図書館では、おおむね100年を超えると扱いが難しくなるが、インターネット上では、100年はおろか400年前に出た本であっても余裕で見られる。長い歴史を持つ図書館での「儀式的な」閲覧も、個人的には嫌いではない部分もあるが、本や資料が所詮読むためにあるものを考えるならば、簡単に読めるに越したことはない。それができないと、要は研究の妨げになる。第三は、以上の二点と関連することになるが、「民主化」という言葉で表現すべき状態となる。つまり、莫大な資料が、インターネットを通じて、特権的な誰かにだけではなく、誰しもに開かれたことは、研究自体がすべての人に開かれたことを意味する。 

 

 では、ジョイス研究がこの「資料のビッグバン」でどのような恩恵を受けるか。ジョイスの特徴として言えるのは、ジョイスが生きた、あるいはそれよりも前の時代のものを、ジョイスがふんだんに使っている点にある。そのような言及を正確にたどれないことには、ジョイス研究は始まらない。ドン・ギフォードをはじめとする注釈書が持つ意味はそこにある。サム・スロートの新しい注釈書がようやく今年出たのは、ようやくギフォードの注では不十分であるという認識に基づき、次のステージに入ったことを意味しよう。「資料のビッグバン」は、これらの基本的な研究書と同じか、それ以上の資料をわれわれに見せてくれる。

 

 たとえば、『ユリシーズ』第十八挿話に出てくる“Albion milk and sulphur soap” (18.1194) について、ドン・ギフォードは「意味不明」とするが、医学雑誌 Lancet をめくれば、のような広告を確認できる(1879年8月23日号)。つまり、商品名であったことがわかる。

 

 

 私が今しているのは、ギフォードの揚げ足取りではない。ギフォードの注には単に──インターネットの前という──時代的な制約があったというだけで、彼の注釈書の意義は誰も否定できないほど大きい。

 

 ポイントは、現在においては、誰であっても──研究者であるなしに限らず──、蝕知できる形でこのような細かい点まで調べられるという点にある。今年出たサム・スロートの注──ちなみに、私が今指摘した点はAlma Books版Ulyssesの注、およびオックスフォードから出た注で修正・補足されている──が注目されているが、「資料のビッグバン」時代を迎えていることからすれば、それでもまだ足りない。ジョイスは限りなく今歴史に開かれている。

 

 ここのところの私が書いているものは、ほかの人が誰も利用していないという意味で「新しい」資料を用いている。『ジョイスの罠──「ダブリナーズ」に嵌る方法』中の論文は、「司祭小説」と呼ばれるギナンやシーハンによる著作や、ジョイスと同時代に活躍したジョージ・ムアの著作、および『ユリシーズ』にも名前の出てくる、雑誌『ダーナ』を全巻読んだ経験の上に成り立っている。『ジョイスの迷宮──「若き日の芸術家の肖像」に嵌る方法』中の論文は、19世紀末から20世紀初頭のモダニズム──とは言っても、いわゆる芸術上のモダニズムではなく、宗教モダニズム──関連の文献を読んだことで書けた論文である。『ガラス越しに見るジョイス』に入れたいくつかの論文についても同様であるが、たとえば、第三章は19世紀に数多く出た「イエス伝」とそこから派生して出てきた「イエス小説」をたどることでできた論文である。

 

 ジョイスが──というより、どの国の文学のどの作家についても同じであるが──これまでになく歴史に開かれている今、その研究は新たな地平の中で、新たな広がりを待っている。

 

 

 

Dana: An Irish Magazine of Independent Thought. No.4 (August, 1904) 表紙



 

Dana: An Irish Magazine of Independent Thought. No.4 (August, 1904)に掲載されたジョイスの詩 (p.124)





 

 

ガラス越しに見るジョイス(2022年刊)

金井嘉彦(著)

            

ISBN: 978-4-86209-088-1 C1098
[四六判正規並装]
本文370p
天地188mm×左右128mm×束(厚さ)19mm
(2022-06-16出版)
定価=本体2727円+税【3000円(税込)】
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JJJS(ジャパニーズ・ジェイムズ・ジョイススタディー)シリーズ《既刊》

 

 

ジョイスの挑戦──『ユリシーズ』に嵌る方法』(2022年刊)

金井 嘉彦・吉川 信・横内一雄 編著 

ISBN: 978-4-86209-086-7
[四六判並装]本文352p 18.8cm
定価=本体2727円+税

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『ジョイスの迷宮(ラビリンス)──『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』(2016年刊)

金井嘉彦(著)・道木一弘(著)

【共同執筆者】南谷奉良・平繁佳織・田中恵理・小林広直・横内一雄・金井嘉彦・道木一弘・中山 徹・下楠昌哉・田村 章

ISBN: 978-4-86209-062-1
[四六判並装]本文340p 18.8cm
(2016-12-05出版)
定価=本体2600円+税

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『ジョイスの罠──『ダブリナーズ』に嵌る方法』(2016年刊)

金井嘉彦(著)・吉川 信(著)

【共同執筆者】小島基洋・桃尾美佳・奥原 宇・滝沢 玄・丹治竜郎・田多良俊樹・横内一雄・南谷奉良・坂井竜太郎・小林広直・戸田 勉・平繁佳織・木ノ内敏久・中嶋英樹・河原真也

f:id:ubuya:20220207153615j:plain

ISBN: 978-4-86209-058-4   C1098
[四六判並装]本文440p 18.8cm
定価=本体2800円+税

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