ことばのくさむら

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2023年 新刊 『小森孝一が語る 佐原の山車祭りとまちおこしの35年』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3年目にはいったコロナ禍、5類感染症に移行して、世間がうごきだしてきました。

 この禍の2年、ひとびとの心の様子が、確かにかわってきたように思います。

 時が穏やかにめぐりくることの有難さは、ことのほか、身に沁みます。

 こうした時期にふさわしい新刊が、できあがりました。

 

 

 

 

2023年 新刊 『小森孝一が語る 佐原の山車祭りとまちおこしの35年』

2023年2月15日刊行

『小森孝一が語る 佐原山車祭りとまちおこしの35年』

語り=小森孝一

本文=[構成・編著]佐原アカデミア理事長・大矢野 修

寄稿=椎名喜予・酒井右二・関谷昇

語らい=永野美知子・椎名喜予・関谷昇

A5判320頁並製

定価2500円

 

 

 千葉県香取市佐原、夏・秋の二つの山車祭りにむかって、一年を通して、さまざまな仕度をととのえる。めぐり来る風景の力に出会うまちです。

                                                                  佐原の宝、小野川と伝統的町並み

 

 話者・小森孝一さんにのべ7年をかけて、佐原アカデミア・大矢野修一氏がインタビューして、書き表された。

 下総(千葉県)佐原は江戸時代、利根川の水運を利用し東北や関西と江戸をつなぐ流通の拠点として、多くの商人が出入りする都市的な要素をもった「まち」(在方町)として栄えた。

 

 江戸の末期、利根川の中・下流の名所・旧跡、名品、風土などを紹介した赤松宗旦(あかまつそうたん)の『利根川図誌』(安政二年)には、「佐原は下利根川附第一繁昌の地なり。村の中程に川有りて、新宿・本宿の間に橋を架す(大橋といふ)。米穀諸荷物の揚(あげ)下げ、旅人の船、川口より此処まで、先をあらそひ両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来の群衆、昼夜止む時なし」と記されている。

 

 佐原の山車祭りは、小野川(『利根川図誌』では佐原川)を挟んで右岸・東側の本宿惣(そう)町(ちょう)の夏祭(八坂神社祇園祭)と左岸・西側の新宿惣町の秋祭り(佐原の大祭・諏訪神社の祭礼)の二つから成っているが、二つの祭りは微妙に性格のちがう歴史を有している。対抗しつつ競い合いの中からまち全体の活力を引き出そうとする佐原の気風は、この異なる特徴をもつ二つの祭りに端的に表れている。

 

・全国各地から人の出入りの多い佐原にとって、まちを治めるにはコミュニティの結束は欠かせなかった。度重なる利根川や小野川の氾濫に対処するため、日ごろからコミュニティの自治を築いておくことは極めて重要であった。

 

 佐原のまちは、つねに外に向かって開きつつ、外部のエネルギーを積極的に取り込む一方で、幕府の権力をふくめ外部からの圧力に抗する力を町衆の自治として築いてきた。そうした佐原の町立ての骨格をつくってきたのが、伊能三家及び伊能忠敬であった。伊能忠敬が江戸に隠居した後も、佐原のまちには、有力旦那衆を中心に自治の気風がみなぎり、お互い競い合い、そのエネルギーを佐原のまち全体の活力に転換させるダイナミズムが息づいていた。その中核にはつねに山車祭りの存在があった。(本文p.1~p.2より)

 

●伊能家と佐原

 伊能家の古文書などを読みますと、佐原の祭りの原形は、享保六(一七二一)年までさかのぼることができますが、その中心にいたのが伊能家でした。伊能家は伊能七家といわれますが、中核を担ったのは伊能三郎右衛門(本家)と分家の茂左衛門、権之丞の三家です。そして、この伊能三家がお互い連携し合うことで、佐原のまち全体を町衆の力で治める「自治のまち佐原」の気風が育ってきます。そのツール、道具立てとして山車祭りがあったんですね。

 祭りになれば、町内同士で競い合います。しかし、利根川の氾濫や飢饉などの災害でまち全体が危機に陥ると、伊能家を中心に、佐原の町衆みんなが一致団結してまちを守ったんです。佐原は城下町ではなく天領ですので、武士に頼るわけにはいきませんから、自分たちのまちは自分たちで守るほかなかった。そのために、さまざまな工夫や知恵を働かせてきたのが佐原のまちの原点なんです。(本文p.53~p.54)

・このことを象徴しているのが、伊能堀の開削であった。佐原の立地は、利根川の水運を生かして商業を発展させることができた反面、つねに利根川の氾濫、さらにまちなかにおける水不足や小野川の増水との闘いを余儀なくされた。それゆえ、伊能家が主導した水の管理は、まちの生命線を守ることを意味したのであった。そうした伊能家によるまちづくりの過程において、伊能忠敬はその力量を発揮していくことになったのである。(本文p.296)

 

まちおこしに関わっていると、必ず忠敬先生に突き当たる

伊能忠敬(1745~1818年)

 

延享2(1745)年  上総国山辺郡小関村(九十九里町)小関家に出生。宝暦12(1762)年18歳、佐原村豪家伊能三郎右衛門家の達ミチの後配として入婿。当主として、名主や村方後見に在任し、幕藩体制の解体が進む近世社会に地域指導者として生きていきました。50歳で家督を長男に譲り、翌年江戸深川黒江町へ移住幕府天文方の高橋至時へ入門。56歳のとき、蝦夷地測量に着手。以後15年年間にわたり全国測量、伊能図を作成。

・忠敬の考え方において興味深いことは、佐原のまち全体が繁栄しない限り、伊能家も繁栄はしないということを自覚していた点である。そのことは、河岸営業からの徴税を目的として営業権を独占する河岸問屋を許容した幕府に反対したことに象徴されている。商業において一部の者が免許を独占してしまうと、河岸の管理は勘定奉行に支配されることになってしまい、自由な商売が阻害されてしまう。それゆえ、河岸の営業権は全員に認め、伊能家が徴税を請け負うということを幕府に認めさせた。驚くべきことに伊能忠敬は、村全体で享受できる自由な競争こそが、地域の経済と自治を守るという発想を明確に持ち合わせていたのである。

 

 こうした自治の思想は、さらに天明の飢饉における忠敬の対応にも見出された。彼は、大坂から三年分の米を先買し、それを佐原の人たちに与えたのであった。それは、無償の施しではなく、佐原の人たちが火山灰の除去作業に携わった日当によって安く分け与えたものであって、まさに「経世済民」を体現したものであった。こうしたエピソードに象徴されるように、佐原の商いというものは、幕府に依存するのではなく、また一部の豪商が利権を独占するのでもなく、あくまでも地域の人々が自分なりに努力して生計を立てることができるようにする気風を持っていた。地域の牽引役は、私益にとらわれることなく、コミュニティ全体を配慮できる資質とリーダーシップを兼ね備えていたのであった。(本文p.296)

 

●小森孝一さんが、佐原のまちおこしを決意した時期

 佐原の祭りは、船と汽車が主要な交通機関であった明治、大正時代から昭和初期まで、近郷周辺から四、五万人を超える人が集まるほどの賑わいをもっていたという記録がある。しかし昭和二〇年、日本が戦争に負けたことを契機に、佐原のまちは一変する。……

 戦後復興期を経て高度経済成長期に至り、交通機関が鉄道から自動車に移行する過程で、佐原のまちはいちだんと衰退の道をたどっていく。同時に山車祭りも「金食い虫で、荒っぽいだけの祭り」といわれるまでになり、佐原の祭りを支えていた人たちの熱い想いも次第に遠い過去のものになっていく。特に一九八〇年代ともなれば、佐原の祭りは、ドブ川と化した小野川、また小野川沿いに建つ古い町並みとともに、「佐原の三悪」といわれるまでに酷評される。

  小森孝一さんがこのままではダメだと危機感を抱き、山車祭りを通して佐原のまちおこしを決意したのはこの時期である。(本文p.3)

 

●佐原の「三悪」 

 当時佐原では、「佐原の三悪」といって、なんとか変えなければだめだと地元の人たちも思っていたものが三つあった。一つがお祭りのやり方がこのままでいいのかどうか。それから小野川と小野川沿いに建っている古い町並み。古い町並みですから、町全体が薄暗くて流行のファッションの店なんかもう売れないわけです。ですから、古い土蔵造りを全部取り壊して、新しい店に付け替えて、建て直そうという意見が大半でした。

 次は小野川ですが、これがまた巨大排水路みたいなあり様でした。みんなゴミは捨てる、水は濁る、メタンガスがブクブク湧き出しますから臭い。そういったことで、「埋めて駐車場にしよう」という議論をやっていた時代なんです。かくいう私自身、祭りのことを深く考えるまえは、同じ意見だったんです。しかし、まちの歴史的な成り立ちがわかってくるにつれて、「小野川は、佐原の昔からの命綱だから、絶対埋めてはいけない」と、逆のことを言いはじめたんです。そうしたらみんなきょとんとして、「お前、この間まで埋めろ、埋めろ、って言ってたじゃないか、先頭に立ってたのに何だ」ということになった。私は、君子は豹変するんだとか、勝手なことを言いながら、「埋め立てなんてとんでもない」と説得して回りました。

 実は、私が埋め立て派から保存派に変わったのには理由があったんです。私事で恐縮なんですが、私の長男の嫁さんが飛騨高山の出でして、それを機に、飛騨高山のまちづくりについては関心をもっていました。そこで一度、飛騨高山の関係者の方たちを招いて佐原の実状を見てもらったことがあったんです。その時、蛇行している小野川の光景を見て、「これこそが佐原の宝物ではないですか」と言われたんです。それを聞いて、ハッとしたんですね。曲がりくねって蛇行して流れる小野川、また小野川に抱かれるように建っている古い町並みの価値を、観光まちづくりの大先輩である飛騨高山から教えてもらったんです。それから俄然、私は埋め立て派から保存派に転向したんです。(本文p.31~p.32)

 

●歩道橋の撤去

・小野川は佐原の大動脈だったんだ。これを汚しておいたままでは、佐原の宝をつぶすことになる」とか何とか理屈を言って、「やるんだ、やるんだ」とみんなを説得する日々が続きました。(本文p.34,p.40)

 

●小野川のドブさらいと舟運の復活

 この小野川のゴミをどうしようかということになって、「とにかくやってみよう。一週間ほどゴミ拾いをすれば、ある程度きれいになるだろう」ということで、みんなバカ長靴を履(は)いて小野川に下りました。浮いている物は簡単に取れるんですが、歩くとね、足にいろんな物がぶつかるんですよ。引き上げてみたら自転車なんです。自転車が半分くらい顔を出して埋まってるんです。とにかく手で引っこ抜きながら、ロープに結わえて軽自動車で引き上げる。自転車だけで四〇〇台から五〇〇台上がりましたかね、四トンのダンプに三台分。自転車に乗ってきて小野川へポンと投げていたんですね。それとあと、護岸を直した時の古い石がそのまま川底にゴロゴロ残っていました。それから、いろんな物……犬の死骸なんかもありましたよ。

 一週間ほどかかって何とか川さらいをして、これで舟が通れるだろうということで、北佐原地区の船頭さんに「ちょっと走ってみてくれ」と頼んだら、「これ通ってもいいけど、臭くて」と言うから、「臭いのは我慢してくれ」と頼み込んだ。ところが走れないんですね。護岸工事でそのままになっていた石に舟がドカンドカンぶつかって、どうしようもない。そこで、すぐに建設省に頼み込んで、「申し訳ないけれども、小野川の水門を閉めてください。小野川の水位を上げれば舟が走れますから」ということで、水位を上げてもらって何とか舟を通したんです。こうして平成五(一九九三)年、祭りの日限定でしたが、戦後三〇年ほど途絶えていた小野川の舟運が、利根川河川敷の駐車場と祭りの会場を結ぶ便として復活しました。

・一番驚いたのは、小野川の中橋の所まで舟を入れたんですが、人を乗せて舟がのぼってきて、何回も往来すると両岸の人が手を振るんですね。はじめはみんな「ばかなことをはじめやがって」と言っていたんです。はじめて舟を走らせたときは、水門を閉めるのを妨害されたりしました。「何で水門を閉めるんだ」とか、「水が臭い」とか言われたんです。ところが不思議なもので、舟が走り出すと、今まで見向きもしなかった人が家の外に出てきて手を振るんです。舟に人を乗せて走るなんていうのは何十年ぶりなんですね。その光景をみんな見ていて、「やっぱり舟が走るといいな」「人が乗って走るというのはいいもんだ」という話をおばあちゃんなんかがしているので、しめたと思ったんです。そこで気をよくして、お祭りが終わった後、また川に下りて川さらいをはじめました。

 それで驚いたのは、それまで小野川へゴミを捨てていた近所の人が捨てなくなったんです。ぴたっと止まった。やっぱり小野川をきれいにしなきゃいけないと思ったんですね。それまでは、川の脇でドラム缶を置いてゴミを燃して、みんな小野川へその灰を捨てていたんです。ところがドラム缶がどんどんどん消えてなくなってきた。

 もう一つ驚いたのは、ゴミ捨てがなくなったとたんに小野川の水がきれいになり、泥臭さも消えてきたんです……。水質検査してもらったら水質は悪くないということで、とにかくお祭りの三日間だけシャトル舟が走るようになりました。(本文p.40~p.43)

 

●通年運行のための舟造りに奔走 

 そしたら、また難題が出てきた。「通年で運行するって言っただろ」と。通年で舟を走らせようとしたら、一年中水門を閉めなければいけない。でも、そういうわけにはいきません。小野川は水量が少ないですから、何としても人が乗っても沈まない舟が欲しい。

・たまたま新聞に、島根県松江市がお城のお堀巡りをはじめたというんで、すぐ飛行機に乗って行ったんです。驚いたことに、その船が二〇人乗っても五センチしか沈まない。なぜだろうと思って聞いたら、「お堀もドロドロの状態で、ヘドロで水深が浅いもんだから、そういうところでも大丈夫な舟を開発した」という。……今小野川を走っている舟は松江市のこの図面をお借りしたものです。

・小野川で安定して浮かべられる舟にメドがたって、こりゃ良かったなって思ったんですが、今度は、小野川の川底には護岸を崩した時の石がたくさん残っていて、その石にスクリューが当たってみんな壊れちゃうんですね。この問題を解決しないことには、通年で舟を走らせることはできません。石を水から揚げると重くて持てないもんですから、水の中をずうっと移動して脇へポンと置く。……合間を見つけて、水が少ない時に川に下りて作業をしました。そうやっていたら、ないはずの自転車がまた出てくるんですね。歩いているとね、足へポンとぶつかるんですよ。すぐ軽自動車に来てもらって、ロープで縛って上から車でガーッと引き上げるんです。ずいぶん佐原には自転車泥棒が多かったんですね。よく騒がなかったですね。あんなに自転車が川に捨てられているのには本当にびっくりしました。そんなことをかれこれ三年ほどやりました。

 そのころ、手伝ってもらった連中は、私が鉄砲撃ちなどをやって遊んでいたころの仲間が多かったんですが、若い連中はみんな、「小森と目を合わせるなよ、目を合わせたら、呼ばれて手伝いをやらされるぞ」と言ってたらしい。川さらいがはじまったら、夏は七時すぎまで、暗くなるまでやってました。七、八人で横に一列に並んで歩いて、川底に障害物があったらそれを片付ける。もうないだろうと思っても、まだあるんですね。完全に人海戦術で繰り返しやりましたね。

・さて、実際に歩道橋がなくなって、忠敬橋が新宿と本宿双方の山車が相互に乗り入れのできる、文字通り二つのお祭りをつなぐ「交差点」になってきますと、不思議なもので、それまで小野川に沿ってくすんだように建ち並んでいた古い町並みの眺望が一気に開けてきました。

 小野川沿いの古い建築群は平成八(一九九六)年に、関東地区ではじめて「重要伝統的建造物群保存地区」(「重伝建保存地区」)に選定されましたが、保存の取り組みは忠敬橋の歩道橋撤去ではずみがつき活発になってきました。そうした動きはもちろん行政の力もあったんですが、市民の力も大きかった。その中心にいたのが、当時「正上」のご主人であった加瀨順一郎さんでしたね。

・何かが足りないと気がついたら、とにかくやってみて、ぶつかってはじめてわかるというのがまちおこしではないかと実感しています。(本文p.43~p.49)

 

● 3・11東日本大震災

・だが、佐原のまちおこしは、二〇一一年三月一一日の東日本大震災でまち全体が甚大な被害をうけたことで急停止を強いられてしまいました。小野川は液状化で川床がもりあがり、古い町並み、特に「重要伝統的建造物群保存地区」の建物の屋根瓦が崩れ落ちてしまいました。一瞬にして二十数年の努力が水の泡になったということです。

 

 

                         小野川の様子伝統建造物・屋根瓦が崩れ落ちた

 

・しかし、3・11の体験は、佐原の市民にとってまち再生の原点を見つめ直す大きな機会だった。震災から四日後、瓦礫の中から一条の光が射すように「このままではしょうがない」という女性たちの声が聞こえてくる。その声に励まされるように多くの市民が立ち上がっていく。椎名喜予さんの寄稿は、まちおこしの灯を絶やすまいと「復興観光」の名で動きはじめた市民群像を紹介している。一九八〇年代半ば、小森さんの決意からはじまった佐原のまちおこしは、自治のまち佐原の誇りを呼び覚ます苗床づくりでもあった。(本文p.14~p.20)

 3・11を経験して、私たちはこれから、どういうやり方でまちおこしを展開していくべきか、あらためて課題を突き付けられているように思います。

 実は、もともと佐原は、江戸と直結して栄えてきたまちですから、旦那衆は一年のうち八カ月ぐらい江戸にいて商人として仕事をしている。佐原には四カ月くらいしかいないんです。伊能忠敬先生もそうでした。その間、佐原をとり仕切っていたのは、実は女将(おかみ)さんたちなんです。佐原の女将さんというのは、旦那衆の内助の功というより、旦那衆が留守の間、お店を取り仕切る立派なマネージャーの役を担っていたんです。ですから、佐原の女性はもともと強いし、賢かったんです。(本文p.52)

 

 「町衆の自治」「江戸優り」は、佐原を象徴する「宝」そのものなんだということがわかってきます。

 「自治のまち佐原」を築くために、内側を固めるだけではなく、外の風、つまり江戸の文化を積極的に取り入れています。山車の彫刻、人形の飾り物、佐原囃子の独特のメロディなどには、すべて江戸文化の最先端の技能・文化が取り込まれています。その受け手の一つに、女将さんたちに代表される、女性の力もあったということですね。そう考えてきますと、「江戸優り」というのは、単なる江戸のミニチュア(小江戸)ではない、独自の経済圏、文化圏をつくってきた佐原の人たちの心意気というか、自治の力のことをいうのではないか、と考えるようになりました。

 

● 椎名喜予さんの寄稿

 東日本大震災から一〇年余、地域の誇りを想い起こしつつ、復興に取り組んできた。被災時、誰しも茫然として、佐原のまちづくりは止まってしまうと、打ちひしがれたかにみえた。しかし実はそうではなく、数十年、地域が向かうべき道をひたすら歩いてきたことを、皆が確認したのだとあらためて思う。これまでまちづくりを進めてきた蓄積があったからこそ、迷うことなく地域は本物志向の生き方に立ち返ることができた。被災の中から真実を見つめ、何が大切なのかを、それぞれが問い直した。守り育んでいくべきものは佐原の人々の心であり、暮らしぶりであった。人々は、今自分たちができることとは何かを考え、ただ復旧するのではなく、より精度を高めていくことをめざしてきた。

 佐原は、香取の海を領する香取神宮の神郡であった古代、市(いち)が活発となった中世、さらに近世には、江戸のまちの繁栄とともに「江戸優りの気風」を培ってきた。

 かつて利根川を介して花開いた河港商業都市として佐原は、佐原河岸を基軸に独特の地域経営の思想を確立させた。また、佐原商人が育んだ生活文化は、地域の人々を慮(おもんばか)るリーダーシップと郷土愛に満ちた自治のまちを創りだしてきた。

 佐原の豊かな文化資源は、自治のまち佐原が培ってきた多様な営みの結晶である。3・11後の復興期に戴いたユネスコ無形民俗文化遺産や日本遺産等への登録という冠は、被災した地域が復興へ取り組む活動をひときわ大きく後押しした。

 

 

 

────佐原には素晴らしい祭りと山車とお囃子がある。美しい川が流れている。見事な自治の歴史もある。わたしたちがそれを知っているのは、小森さんを中心にした町の人々がそれらを発掘し、形にし、川や道を美しく整え、日本国中に見せてくれたからだ、と知った。ここにまちおこし」のほんらいがある。経済(経世済民)のほんらいがある。それが本書ではっきり分かった。これからは日本じゅうがそれを学ばねばならない。

                                                                                                  ────田中優子氏 推薦

 

●関谷 昇(佐原アカデミア理事・千葉大学大学院社会科学研究院教授)さんの寄稿

 近代日本を代表する政治家、台湾総督府民政長官や満洲鉄道初代総裁、さらに東京市長などを務めた後藤新平を引用して、

  「……「人間には自治の本能がある」(『自治精神の新生活』藤原書店、74頁)

のであって、自治生活とは、生物学的原理を基礎に置いた自然の営みである(同、90頁)。それは、……生きるために必要な営みのすべてに及ぶものであり、人類生活から自然に生まれた「生活様式の総体」を意味している。それゆえ、この相互のつながりを豊かに維持することが決定的に重要となる。」(同、107–108頁)……。

 自治とは、自己と他者がともに生き、経済活動を営み、相互に助け合い、社会を形成・維持していく総体を意味するものであって、その地域の人々が、その地域に相応しいあり方を模索し、実践する地域の力にほかならない。したがって、近年のまちづくりにおいて頻繁に提唱されている地域の自立、市民の主導、地産地消地域資源の循環、地域の個性化などといったことも、それらを生きたものにしていくには、自治の営みを回復させていくことが必要不可欠なのである。

 その意味では、当該地域の履歴を徹底的に自覚していくところから、自治の営みを再構築する糸口を見つけていくしかないのである。

 佐原のまちづくりは、まさにこの原点探求を地道に実践している稀有な例であり、その牽引役の一人が小森孝一氏である。氏によって導かれてきたまちづくりとは、自分たちのまちに残っているものに眼を向けるところから始まったのであり、その原点に徹底してこだわることによって、まちづくりに必要な力を引き出してきたのであった。

 そこでは、個々人が生きるという点において、個々の取り組みが相互の連携をおのずとつくり出しているのであり、さらに必要とあらば、新たな連携や協力を紡ぎ出していく。まちが生き続けていくために、この空間においてつくり出される発想と実践は欠くことができないものなのである。

 その地域に固有の履歴があり、自分たちはその延長線上に生きているという感覚。小森氏には、この「コミュニティ空間に生きる」という視点が、意識的にも無意識的にも刻み込まれている。その原点探求にこそ、三〇年以上にわたって繰り広げられてきた佐原のまちづくりの真髄があるように思われる。とりわけ、その固有性へのまなざしは、小森氏が佐原とともに生きてきたという実感から導かれている。佐原の栄枯盛衰をわが事のようにとらえる氏の考え方には、このまちで生きてきたという履歴の中で培われてきた場所感覚や身体経験で満ち溢れている。そこで感じられるもの、経験することの一つ一つが、佐原のまちづくりを考える源泉となっている。小森氏にとっての佐原とは、まさにそうした固有の空間であり、まちづくりとは、そこで生かされるものとして理解されているのである。

 今日のまちづくりの中には、自分たちの特殊性を払拭して、多くの人たちに受け入れられるような一般的価値、市場ニーズに適合するような消費的価値、……。量的拡大につながらなければならないという価値観がいまだに蔓延しているからである。しかし、固有のまちづくりにとって重要なのは、むしろ特殊性の方なのである。……。

 この点に注目してみれば、佐原は「小江戸」ではなく「江戸優り」であると考える気概が、実によく理解できるであろう。

 確かに、地域というものは、……中央集権化した秩序においては、地方という従属的なものとして認識されることが多い。まして、疲弊したまちがその置かれた特殊性にこだわり続けることは、実に勇気のいることであったかもしれない。しかし、地域にこだわるということは、むしろ、そうした限定された空間や従属的な位置づけというマイナス評価を一蹴することなのである。小森氏が「何もないところだからこそ、あるものを生かしていくしかない」と繰り返し説いてきたことは、まさにこうした決意を物語っている。「江戸優り」という言葉には、そうした決意とともに、国全体や東京志向からでは見えてこない、徹底したローカリズムの可能性が表されているのである。(本文p.288~p.295)

 

 興味深いことに、佐原のまちづくりには、コミュニティ空間に潜在するさまざまな可能性が、この場所に生きる自分たちの生き方として具現化されているのである。(本文p.294)

 まちづくりの目玉に観光を据える地域は少なくないが、佐原の特色は、コミュニティの時間と空間を共有する人たちによって、そこで生きようとする誇りと気概が育まれているところにある。自然・地域資源・コミュニティ自治のトリアーデが創出するダイナミズムを見事に体現しているということができるであろう。(本文p.304)

 

●佐原アカデミア

 あの大震災を経験して、よくぞここまで来たと私自身も思いますよ。地震のおかげというのは変ですが、東日本大震災以降、若い人たちが佐原を訪れるようになってきて、「何だか、佐原って変なところがあって、おもしろそうだよね」といったイメージがいつしか浸透してきたことは確かですね。まちなかの古民家を活用した宿泊施設ができ、駅前にホテルもできた。つねに何かをしていないとこうした動きも起きてこない。……まちおこしの焦点を歴史や文化に据えたことがうまくいったということですね。でも、率直にいってまだ何かが足りない。これまで努力してやってきたことを無駄にしないためにはもう一度、佐原の内、外のいろんな力を結集する必要があると思っています。結集する必要があるんだけれども、「じゃあ、おらたちにもできるんではないか、やってみようか」と意欲をうながすような流れをつくっていかないといけない。実をいうと、佐原でそういう流れをつくれるのは佐原アカデミアではないかと思っているんです。アカデミアにはぜひ、佐原のまちおこしをもう一段飛躍させる突破口の役を担ってほしいと思っているんです。

 

・佐原アカデミアをつくった趣旨は、大きくいいますと大学や役所、企業などが所有している知識や技術だけがすべてではないだろうというのが出発点ですね。大学、役所などが所有する知識は、どこでも共通するいわば一般的な知、ないしは専門的知だとすると、知識にはもう一つ、地域や人々の暮らしの中で蓄積されてきた経験知や暗黙知があるはずです。そこで双方の知、技術を結合させながら新しい知識や技術を生みだすシステムのようなものが見出せないかというのが基本的な狙いですね。具体的には、佐原のまち全体をキャンパスに見立てて、一つには、佐原の有形無形の歴史文化遺産、暮らしの知恵などを収集して、まちなかに図書館的な機能を埋め込みながら知的な「ひろば」をつくること。もう一つは、そのひろばを活用しながら大学や企業と連携して、人材交流やインターンシップ、さらには共同研究や技術開発のお手伝いをすること。……多様な主体が交差する「協働」の先進地になっていくことをめざしています。

関谷 地域と大学のこれからの関係を考えたとき、私もそういう多角的な関係を構築していく方向がすごく大事になるんじゃないかと思っています。こうした考えは、日本の大学のなかでは新しい試みですが、世界史における大学の成り立ちからみれば、一つの原点につながるものがあります。大学という制度ができたのは、11~12世紀のヨーロッパ中世です。そのときの大学というのは、もともとキャンパスがどこかにあったのではなくて、教師と学生が自治共同体を組んで、出資してくれる地域(都市)を見つけて、そこから学びがはじまったという歴史を持っています。ですから大学の成り立ちとまち(都市)の発展は一体的に融合していたというのが、大学という制度のもともとの出発点だったんです。それが時代を経るにしたがい、まちと大学が切り離されて、建物に囲われるキャンパスに変わっていって現在のような姿になってきたんです。そういう意味では、地域と大学の関係性を問うという方向は、地域に回帰するというか、地域と大学がキャンパスとして再び融合していくことの重要性を、大学の側から見ても実感しますね。これまでの大学の関わり方というのは、産官学連携のような技術開発が中心でした。行政や企業からいろいろ相談や研究依頼を受けて、学内の特に理科系中心の専門家がそこでプロジェクトをつくって技術開発をして、社会にそれを還元していくという、そのパターンがほとんどだったんですね。

 だけど、そうしたパターンの中で決定的に欠けていると思っているのは、地域全体をとらえようとする視

点です。どんな技術や制度も、その地域の履歴を無視して成り立つものではないんです。……地域というものは、実に多面的な特徴をもっているものですし、さまざまな分野や領域が結びついているのが現実だからです。そこに見出されるのは、当該地域に固有の経験知であり、暗黙知なんですよね。だからこそ、文科系を含めた多分野の知見でもって、解き明かされていくことが重要な課題になってくるんです。この経験知と専門知が結びつくところに、新しい知の可能性が見出されるのだと思います。

 佐原という地域において、佐原アカデミアが媒介役になりながら、複数の大学と連携したキャンパス形成がなされていくということは、実に新しい知を切り拓いていく先駆けになっているのかもしれません。学びから実践を生み出していく生きた拠点ですね。まちが生き延びていくために何が必要となるのか、それを多様な主体が立体的に考えていくなんて、かなりおもしろい試みだと思いますね。

椎名 忠敬先生の言葉「地域社会が豊かでなければ個人は決して豊かになれない」。

大矢野 私が発酵を佐原の産業の礎にと言いはじめたのは、実は『土と内臓―微生物がつくる世界』という本(築地書館)があって、これはアメリカの翻訳書なんですが、その本から触発されたんです。土壌の豊かさをつくっているのは微生物で、その微生物の働きによって植物が育ち、人間もその恩恵を受けているわけですが、微生物は人間の腸内にも一〇〇兆も生息しているといわれ、私たちの体内に入った食べ物を栄養物と廃棄物に分解してくれている。微生物の分解する働きが発酵ですね。ということは豊かな土壌を作っているプロセスと、私たちの生命を維持するプロセスは微生物の力でつながりながら循環している。それを媒介しているのが発酵という働きということになる。発酵食は少なくとも八千年の歴史があるといわれていますが、発酵という自然の働きは、人間の暮らしや文化の奥底まで浸透していることがわかります。江戸時代から佐原の基幹産業は酒造りや味醂、醤油だったわけですから、まさに発酵こそが佐原のものづくりの礎になるべきではないかと考えたんです。

椎名 もともと佐原は関東灘といわれ、酒造りをはじめ醤油・味醂・味噌・酢・柿渋・糀・納豆・漬物などが盛んだったまちですから、その歴史を含めて佐原を発酵のまちとして積極的にアピールすることは理にかなっています。最盛期には発酵を生業にしていた人たちは佐原の人口の半分以上だったそうです。

関谷 多角的な知の融合によって、地域における実践を拓いていくことなんです。そのためには地域にある経験知や暗黙知と、学術的な専門知とがもっと応答的に刺激し合うことがあっていいはずです。そうしたなかにこそ、価値づくりに生かしうる新しい知のためのヒントがたくさんあるんですよね。

 現場のない知の集積というのは、やっぱり発展性がないんです。これは確かです。ですから現場に依拠した知や技術開発の意義というのはすごく大事なんです。

 これからのまちづくりが持続可能なものであるためには、自然の資源や自然の論理を無視することはできないんですよね。まちは生き物なのですから、「生きる」メカニズムを解明することが大事ですし、そこで人々が生きることを営んでいくわけですから、「食べる」「住む」「働く」「育てる」「支える」といったことをどのようにつくり出していくかが、基本になるんじゃないかと思います。そこに知を集積していくこと、それが地域と大学が連携する最大の意義なのではないでしょうか。

大矢野 「漁師、山に登る」という話があります。豊かな海をつくるには栄養素をたっぷり含んだ水を育んでくれる森林の存在が不可欠なんだという話ですが、地域に暮らす人々の経験に基づく知には森、川、海を別個の自然ととらえるのではなく、相互の関係のなかで起こる働きを総合的にとらえる目が隠されています。先ほどの関谷さんの言われた、縦割りに細分化された知の体系を再考するきっかけの一つがここにあると思いますが、発酵を新しいものづくりの礎にという考えは、実はこの問題と重なっていて、発酵という自然の働きを根底に据えてものづくりを考えるということは、いわば生命(いのち)の根源に遡及しながら、ものづくりの可能性、さらには社会システムの新しいあり方にチャレンジしようという話でもあるんだろうと思います。

 

 佐原アカデミアがなすべきことは、この原点探求を導いていくことであり、その学びを実践へと結びつけていくことである。そのためには、佐原というコミュニティ空間そのものを学びの場ととらえ、知の集積と実践の拠点をつくり出していくことが必要となる。しかも、このことは、地域と大学との新たな関係づくりという課題にもかかわってくる。地域や社会において役立てられる知識や技術というものは、本来、その地域や社会のあり方を無視して成り立つものではない。各種専門家がまちづくりにかかわるといっても、専門分化している現在においては、もっぱら専門分野別のかかわりに留まってしまうことが大半であり、まちをトータルにとらえようとする発想は実に希薄である。地域側からしても、専門分化した知識や技術は個別の課題解決には役立つであろうが、まち全体の持続可能性を高めていくためには不足する。地域に生きるということは、個別分野の単なる集積ではなく、生きたまちづくりの知恵が必要だからである。これから問われていくまちづくりの根本課題は、この専門分化した状況をリアルなコミュニティ空間を通じて結びつけ、生きたまちづくりを実践していくことである。それは、大学にとっても、地域にとっても、新たな協働の形となるであろう。

 佐原アカデミアは、これらを媒介していく組織である。佐原というコミュニティ空間から創出されるまちづくりを基軸に、大学・民間企業・行政を積極的につないでいくとともに、相互応答的な知の創造を試みていく。それは、佐原というコミュニティ空間が、学びの場であり、新たな知識や技術を生み出していく場になっていくということに他ならない。それは、小森氏の功績を後世につなぐことであり、新たな時代を切り拓く自治のまちづくりの本格的な挑戦なのである。

小森 そうすると佐原らしいものづくりとは何かが問題だね。佐原は農業が主産業ですから、そうした意味でも発酵はキーワードになる。とはいっても、いきなり起死回生になるようなものがすぐできるわけではない。ですから、すぐお金になるものが欲しいというより、潜在的に収益力のあるものを育てて,みんな恩恵を受けるようなもの、それがあれば佐原ももう一段、先に進むことができますよ。今は、みんながその気になるための環境を整えていく時期かなと思うんだよね。それまでは飛騨高山を見習って我慢、忍耐だね(笑)。みんながその気になって、発酵し出すには、やはり我慢して待つことも重要だと思う。

 人が育つには、それなりの時間が必要です。そのためには焦らず待たなければならない。それは私の会社経営の経験からもいえますね。しかし、待つためには信じなければならない。飛騨高山の人が森の力を信じたのと同じで、人間のもっている潜在的な力、能力をどこまで信じることができるか。ここがポイントだね。

小森 まちおこしに関わっていると、必ず忠敬先生に突き当たるんです。壁にぶつかって何が必要かいろいろ思い悩んでいるとき、忠敬先生はこういう風にやっていたよな、こういう風にやらないとまずいよな、と教えてくれるんです。もちろん、その全部を実現することはできませんが、少しでもそこに近づきたい。その想いはずっと変わっていません。(本文p.265~p.286)

 

 

 

 

 

小森孝一が語る 佐原の山車祭りとまちおこしの35年 (2023年刊)

 話者:小森孝一 編著:大矢野 修    (特定非営利活動法人 佐原アカデミア)

ISBN: 978-4-86209-089-8
[A5判並装]本文320p 21.0cm
定価=本体2273円+税

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