ことばのくさむら

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朝日新聞一面2025年4月22日・23日 折々のことば:鷲田清一(引用文掲載)島尾伸三著『魚は泳ぐ〈愛は悪〉』より 

朝日新聞一面の連載コラム、鷲田清一さんによる「折々のことば」に、島尾伸三著『魚は泳ぐ〈愛は悪〉』からのことばが、二日つづけて掲載されました。

以下、朝日新聞デジタル内でも一部閲覧ができます(全文確認は有料記事)。どうぞご覧ください。

 

 

 

(続きは有料記事になります)

 

図書新聞 対談:島園進×山本剛史(全文掲載) 山本剛史編著『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学』(言叢社)をめぐって

図書新聞の対談企画として、2024年7月14日、『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学』を巡る、著者山本さんと宗教学者の島園進さんとの対談が行なわれ、以下号に掲載されました。

図書新聞 2024年3654号9月7日 「リスク社会に生きる」対談 島薗進×山本剛史

御厚意により、以下に全文掲載させていただきます。どうぞお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

toshoshimbun.com

 

 

(2024年7月14日 新宿にて)

 

 

 

 

 『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発苛酷事故の経験から』山本剛史 【編・著】

ISBN: 978-4-86209-090-4
C0036 ¥3364E
[A五判並装]520頁
(2024-04-10出版)
定価=本体3,364円+税【3,700 円(税10%込)】

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【既刊】

〈全村避難〉を生きる─生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故

菅野 哲【著】

ISBN: 978-4-86209-075-1
[A五判]並装 本文384頁
(2020-02-10出版)
定価=本体2400円+税

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フクシマ―放射能汚染に如何に対処して生きるか

島 亨 【著】/菅野 哲 【談話】

ISBN: 9784862090416
[四六判並装]372p
(2012-08-25出版)
定価=本体1714円+税 

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新年明けましておめでとうございます

 

 

 

 

新年明けましておめでとうございます。

 

本年の元旦は、穏やかな年明けの有り難みを、見に沁みてかんじられました。

度重なる被害を受けられた能登半島では、復興とは程遠い状況のなかで、変わらぬご心労が今も続いてる事に、おもいを巡らせます。

 

身に迫りくる気候変動と緊張を増す国際情勢の過渡のさなか、出版をはじめメディアを取り巻く状況も激しくうごき、さらに文章から発話音声、画像や映像までもがAIによる生成物に置き換えられつつある日常が、驚くべき速さで見慣れたものとなってきました。

 

わたしたちは引き続き、たしかな言葉を手繰るように、書籍を編む仕事を一歩一歩進めてゆきたいとおもいます。

 

言叢社にとってまた一つ、大きな仕事の準備に奔走する一年となります。

 

本年も、どうぞ宜しくお願いします。



 

私たちをめぐるふたつの言葉 ──『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発苛酷事故の経験から』刊行に寄せて──  山本剛史(編著者)

 東日本大震災福島原発事故から13年がたちます。9月から開始された、炉内の核燃料デブリ880トンにおよぶ処理の、そのうち数グラムといわれる最初の試験的な取り出しにようやく先月成功し、「廃炉が新たな段階に入った」と報じられました。

 同時に、先月は被災原発として初となる女川原発2号機の再稼働があり、元旦から新たな災害に次々とみまわれた本年、人々の関心が薄れゆくなか、原発事故を知らない世代も増え、被災当事者の経験の継承の難しさに、年々感じ入ります。

 

 言叢社2024年の新刊である、被災当事者のいのちをめぐる思想と環境倫理学による応答の書籍、『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発苛酷事故の経験から』の刊行によせて、編著者である山本剛史(やまもとたかし)さんより、以下ご寄稿をいただきました。新たな年を迎えるこの折に、どうぞお読みください。

 

 

 

 

はじめに

(以下で、『被災当事者の思想と環境倫理学』は「本書」と記し、「本書」からの引用及び参照は頁数のみを示す。)

 

 2024年3月に刊行した『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発苛酷事故の経験から』は、編著者である山本にとって、はじめて筆頭著者を務め、第2部に至っては単独で書き下ろした書物であり、主著と言ってよい本となった。本書は科学研究費基盤研究C「環境倫理学と民衆に根差す思想の応答」の助成を受けて執筆されたのだが、当初その研究期間が2019年から2021年までの3年間であった。要は、コロナウィルス禍等の影響もあって3年間で書き終えることができなかったので、研究期間を都合2回も延長せざるを得なかった。そうしてみると難産の末に刊行された書物ということになり、今こうして振り返る私の感慨もひとしおである。

 執筆が長引いた理由はコロナウィルス禍以外にも様々あるが、フクシマ原発労働者相談センターいわき放射能市民測定室たらちね希望の牧場・よしざわ(元 希望の牧場・ふくしま)双葉町町長 井戸川克隆さんの4組の証言を、つまるところ独りでどう引き受けて、どう倫理学研究を前へ進める書物にしたらいいのか、構想がなかなかまとまらなかったのが大きな要因であった。事故時、あるいは現在、事故を起こした第一原発からどのくらい離れた場所で生きていた/いるのか、つまり、立地自治体の双葉町に住み、事故当時は町民避難の陣頭指揮を執っていて実際に爆発した第一原発から飛散した「死の灰」に値する物質を浴びた井戸川さん、浪江町の牧場から一歩も退かず、2011年の3月17日に第一原発の真上から放水する自衛隊のヘリコプターを目視していた吉澤さん、いわき市放射線のリスクについて納得のいく理解を得ることができず、生活に根差した形の放射線の測定を始めた「たらちね」を創設したメンバーの方々、原発事故以前から反原発運動や原発構内労働者の被ばくの問題と戦ってきた石丸小四郎さんや事故後に除染や廃炉作業に伴って数多く発生した労働問題の最後の砦として奮闘なさった秋葉さんや鈴木さん、それぞれ皆さん原発から被った影響や向き合い方が全く違っており、それが各々方の考え方にも反映されている。こうした各自の考え方や被害実態の違いを超えた中に、哲学倫理学的に剔抉し考察するに値するいかなる本質がはらまれているのだろうか。

 筆者は当初から、第1部にインタビューをなるべく元の形のままに収めるようにすると決めていた(科研費メンバー間の了解事項であり、インタビュイー各位の同意も得ている)。これによって、当事者本人の証言を確保することはできる。もちろん、さらに多くの証言を収め、原発事故被災実態をより複眼的に構成することができれば、それに越したことはないが、筆者の考察の素材としてはさしあたり多すぎるくらいであった。

 本書第一部は上に挙げた4組のインタビューから成る。本書における筆者の目的は、一つは筆者自身が原発事故がいまだ収束していない状況を前提として環境倫理学を刷新して読者の皆さんに問うことと、もう1つはなるべく多くの読者の方々にとりわけ本書の第一部を読んで頂き、読者の皆さんそれぞれに福島原発事故に関して大いに考えを深めて頂くことであった。今回、このブログを書く機会を言叢社から頂き、2つの目的のうちの後者に鑑みて、読者の皆さんが4つの証言を読み進めて自分なりに考えて行くことの一助となるように、適宜本書等から引用しながら書いていきたい。極めて乱雑な文章であるが、お読みいただければ幸いである。

 

 

<リスク社会と専門家の言葉>

 2011年以降の環境倫理学を振り返ると、被災当事者個々において異なる被害の実態の記述に拘泥するばかりに、日本国内外に広がる核兵器・核発電推進勢力によって規定されてきた、個々人の生のあり方を拘束する構造への目配りが決定的に欠けていた論考があったことに気が付く。これは研究者の怠慢というべきである。

 一方、古くは中川保雄『放射線被曝の歴史』にはじまり、原発事故後に中川保雄の仕事を引き継ぐ形で書き下ろされた島薗進の『つくられた放射線「安全」論』『原発放射線被ばくの科学と倫理』の2冊に至る一連の著作の中で、日米両国を舞台として、さらにチェルノブイリ原発事故後はベラルーシやロシアなども舞台にして、核兵器核発電を推進したい政府やICRP(国際放射線防護委員会)をはじめとする各種委員会に参加する多くの人士たちが低線量被ばくの危険性を少しでも低く表現しようと画策するあり様が描き出されている。これらの業績を参照しさえすれば、原発事故の直接の被災者のみならず、全国民がリスクを定義する権力の支配下、影響下にあることがつまびらかになる。国や福島県がはっぱをかけるほどには帰還する住民の割合が高まらない中で、「復興」の掛け声はとりわけ県外者にとって耳になじむものである。ICRP刊行物103(2007年勧告)において、緊急時被ばく状況と現存被ばく状況との境界線である20m㏜/年という被ばく基準は、避難指示解除の基準値として、例えば首都圏人にはほとんど疑問も持たずに受け入れられているようにしか見えない。こうした形で、首都圏その他の被災地以外の住民もまた、被ばくリスクを定義する権力の影響下にあり、日常生活のありようを見えないところで規定されているというわけである。

 ところで、2011年3月12日から3月14日にかけて、福島第一原発1号機と3号機が相次いで爆発した際、当時の枝野幸弘官房長官が、明らかに原発が爆発している動画が報道されているにもかかわらず、これらを「爆発的事象」と呼称したことを覚えている方々もおられるのではないか。安富歩は名著『原発危機と「東大話法」』(明石書店、2012年)の中で、こうした枝野官房長官をはじめとする政府並びに関係者の一種独特の「いいかえ」を、「原子力安全欺瞞言語」と称し、この欺瞞言語を自由自在に操る語り口を「東大話法」として整理して洞察した。

 だが、実はこの「爆発的事象」という言葉は枝野官房長官が国民をコントロールしようとしてその場でとっさに思い付いた言葉ではない。セジン・トプシュ『核エネルギー大国フランス 「統治」の視座から』(エディション・エフ、2019年)によると、1989年に定められたIAEA国際原子力機関)の原発事故の評価尺度は事故を重大性に鑑みて7つに区分するが、それら7つは事故ではなく事象としてまとめられる。この尺度をつくるときに、IAEAの担当者は「原発に関しては徹底して異変と呼びならわすフランスの専門機関」を参考にしたのだという(セジン・トプシュ、172頁)。枝野官房長官の言葉遣いでさえ、チェルノブイリ事故後のリスク管理核兵器核発電推進者にとって都合よく進めようとする国際的な動向において定められたものである。

 このことは、本書で言えばウルリヒ・ベックによるリスクの「定義」の問題と対応している。(ウルリヒ・ベック『危険社会』、法政大学出版局、1998年)ベックによると、近代化によって人々は生まれによる差別を乗り越え、社会の中で自分の場所を自分で見出すことができるようになったのだが、近代化の進展に伴って生じた新しい問題によって、社会そのものが「リスク社会」へと移行した。原子力発電は、そのエネルギー生産力において近代化の頂点に位置付けられる。原子力発電所本体が不可逆的なダメージを負うような事故が生じたなら、大量の放射性物質が放出される。その放出は、東京電力が言うところの処理水の放出という形でも継続中である。放出された先で放射性物質は自然界に取り込まれる。つまり、自然界は私たちの科学技術による生産と排出のサイクルの中へと巻き込まれる。これをベックは「第二の自然」と名付ける。「第二の自然」の構成物質には、他にもPFAS(有機フッ素化合物)をはじめとする人工化学物質も含まれる。その「リスク社会」においては、生まれ育ちの経歴や環境を問わず、人々はだれでも押しなべて放射線や人工化学物質のリスクにさらされる。リスクを回避する逃げ場がなくなるのが「リスク社会」の大きな特徴とされる。

 しかし、放射性物質もPFASも五感で直接感知できないことから、その存在と危険性を科学を通して知るよりほかはない。そこで、先に述べたリスクの「定義」が重要になる。すなわち、放射性物質はそこにあるのか、無いのか、あるとしたらどの程度あるのか、そこにある放射性物質は危険な量なのか、危険ではない量なのかを、科学的知識を通してしか知るすべがない、ということなのだ。そして、その科学的知識に通暁しているのはその分野の専門家である。ここでの科学は自然科学を指す。自然科学の研究は大抵、非常に費用がかかるので、非営利の独立した組織においてこれを継続することは通常あまり考えられない。したがって、行政府や企業の一員として、自らが属す組織の方向性に従って研究する専門家が多くなることが考えられる。

 そうした専門家は、どのような言葉を話すのだろうか。政府が定めた基準値に沿って、危険ではない、と言うのだろうか。その基準値は、どのような基準なのだろうか。大きな事故に見えるが、あれは事故なのだろうか。事象とは事故とは違うのだろうか。私たちは、専門家や行政府が操る言葉を通してリスクを認知したり、しなかったりする。リスク社会とは、権力者に連なる専門家がさだめる言葉に基づいて、人が生きる社会である。

 前置きが大変長くなってしまったが、ここでは原発事故の影響の下にある社会で取り交わされる言葉、そこに生きる人々が口から発して、何かものを考える時の言葉というものが、専門家がさだめる言葉だけではなく、本書第一部の「証言」のようなそれと全く異なる言葉と常に緊張関係にあると考える。そこで以下、「証言」の勘所をご紹介する形で、リスク社会における言葉のせめぎ合いを可視化することを試みようと思う。

 

 

<リスクを定義する言葉と抑圧される言葉>

 本書の中で私たち科研費メンバーがインタビューした方たちはリスクを定義する権力を有する者たちとは異なる言葉を話している。過去の環境保護・公害反対運動に携わったうちの少なからぬ人々も同様である。いや、表立って運動したり活動したりしていなくても、多くの人はその内に自分自身の言葉を秘めているのではなかろうか。

 本書第1部の証言の中から、その「異なる言葉」をいくつか取り上げてみよう。

「それから、福島県内の開業医の先生なんかも牧場に来てやっぱり言うには、『いやあ、子どもたちの甲状腺がんの問題は、おかしいと思うけど、医者は言えないんだ』と。公的な立場の、例えば学校の先生、役場関係職員、医者、言えないんですよ、これは。」(140頁)

 本書第1部第3章、浪江町福島第一原発から約14㎞の地点にある「希望の牧場・よしざわ」を営む吉澤正己さんのインタビューの一節である。吉澤さんは事故発生当初から今でもなお、自分の牧場や他の畜産家が営んでいた牧場で被ばくした牛たちを殺処分せずに死ぬまで世話をし続ける「希望の牧場」を営んでいる。ここを訪れる医療者や公務員は甲状腺がんの患者の人数の多さに対して違和感を公に表明することができない。つまり、リスクを定義する権力が、現実を見て自分で考える人の言葉を直接抑圧している事態が、ここにつまびらかにされている。

 

 

<検出下限値をめぐる言葉と体の緊張~内部被ばくのリスクの問題>

 事故を起こした原発から、どのくらい離れたところまでが被災地といえるのだろうか。例えば原発避難者特例法においては、指定市町村が告示されている。この指定市町村から住民票を移さずに避難している住民は、当該市町村並びに福島県の代わりに、避難先自治体から定められた行政サービスを受けることができる。指定市町村にはいわき市も含まれていることから、いわき市で生活する人々は被災地に生きる人々と行政的には言えそうである。

 国が定める放射性セシウムの基準値は100㏃/㎏である。この値を上回る食品は、少なくとも流通することはない。福島県のウェブサイトの中に、「福島県農林水産物・加工食品モニタリング情報https://www.new-fukushima.jp/result 」という頁があるが、そこからいわき市を選んで情報を表示すると、測定の際の検出下限値(これよりも低い放射線量は測定できませんでした、という値)が、セシウム134と137に分けられて表示されている。2024年6月6日から9月6日までの3か月間の一覧表を読む限り、2種類のセシウムの検出下限値を合算すると、概ね15~19㏃/㎏付近となることが多い。中には、合算して7.8㏃/㎏というピーマンの下限値もあるが、これはかなり低いほうである。さすがに、どの市町村も下限値を100㏃/㎏には設定しておらず、事故後13年以上が経過した現在でもそれなりに丁寧に測定していると見受けられる。

 ところが、本書第1部第2章の「いわき放射能市民測定室たらちね」が毎月公開している、持ち込まれた検体に関するセシウムの検出下限値https://tarachineiwaki.org/radiation/result は、これを書いている時点で最新の2024年7月版によれば、セシウム134と137の合算で概ね2~7㏃/㎏、検出性能の高いゲルマニウム半導体測定器を使う場合は合算しても0.1を下回る場合もある。先の「モニタリング情報」でも、「たらちね」でも食品の検体はそのほとんどがガンマ線の検出下限値未満で、測定できなかったという結果である。検出下限値未満という測定結果は、パッと見るとセシウムが無いんだ!と思ってしまいそうになるが、あくまでも検出できなかった、という意味である。「モニタリング情報」の中から2024年6月6日から9月6日までの富岡町の検出結果を見てみると、ピーマンの一つの検体から、セシウム137が6.32㏃/㎏検出された。このピーマンの検体がいわき市で測定されていたなら、検出下限値未満と扱われた可能性が高いと考えられる。一方で、「たらちね」の測定は、こうした低線量被ばくのもととなる食品中のセシウムの存在をできる限り明らかにしたい、という方向性で行われていると捉えていいだろう。(ちなみに、「たらちね」では食品だけではなく子どもの遊び場であるいわき市内の公園の土壌の測定も行っている。土壌は食品とは全く異なり、今なお2桁から3桁の数字で1キログラム当たりのセシウムが検出され、原発事故の猛威が見せつけられる。)

 しかし、事故から13年以上が経ち、「たらちね」の測定においてさえも食品の場合そのほとんどが検出下限値未満ということであれば、2019年のインタビューで語られている内容は古びてきているのではないか。公園で遊ぶときは注意して、食べるものには(放射性物質を吸着しやすいキノコ類を除いて)それほどもう神経質にならなくてもよいのではないか?

 ところで、なぜセシウムを測定するのかと言えば、国の説明によると「東京電力福島第一原子力発電所の事故により放出された核種のうち、物理学的半減期が1年以上の放射性核種(セシウム134、セシウム137、ストロンチウム90、プルトニウムルテニウム106)の影響を計算に含めた上で、食品から受ける放射線量への寄与率が最も高く、測定が容易なセシウム」を測定するのだ、という[1]。つまり、測定においてセシウムは指標であって、β線γ線を出すセシウムから発するγ線が100㏃/kg以上検出されるようであれば、他の福島原発に由来する半減期1年以上の放射性物質も食品中に含まれているだろうという考え方である。

 この中でもプルトニウムはα核種と呼ばれ、α線を出すことで知られる。ストロンチウム90はβ線を出し、カルシウムと似た化学的性質を有するために骨組織に集積すると言われる[2]。それ以外の3核種はいずれもβ線γ線を放出する。特に、射程の短いα線β線において問題となるのは、経口摂取や経鼻摂取などによる内部被ばくである。これに関連して「たらちね」の医師の藤田操さんの証言を見てみたい。

「今、『〔たらちね〕クリニック』でおしっこのセシウム量というのを測定したりするんですけど、結構2リットルくらいためてやって、検査自体は大変なんですけど、それだと割と数値として出てくるんですね。…その数値というのは、原発事故前の平均7~8倍くらいでしたかね。この8年経った今で。…事故直後なんて、もっとでしょう、当然。何10倍もあったんでしょうけど。でも、出てる人たちというのは、子どもたちもそうですけど、そういう検出下限値以下のものをほとんど食べてるんですね。ということは下限値以下とはいっても、やはり微量含まれているのをずっと食べてるということになると思うんですよね。」(100頁)

 日本政府は、2011年12月に公表した「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」報告書5~6頁で、外部被ばくと内部被ばくの健康影響は同等と評価すると記している。しかしこれには異論もある。例えば市川定夫は自然界に存在する放射性核種カリウム40なら、他のカリウムと同様に体内から素早く代謝されるのに対し、セシウム137やヨウ素131のような自然界に元来存在しなかった人工放射性核種に関して地球上の生命体は代謝する仕組みをもっておらず、かえって生体内で濃縮されるのだと言う[3]甲状腺がんの原因と言われるヨウ素131は、半減期は短いものの、甲状腺に集中して生体濃縮される良い例であろう。だとすれば、外部環境からγ線を発する放射性物質に関する防護策と、内部被ばくの対策とは全く違うものとなるはずだ。

 控えめに言って、低線量ワーキンググループのメンバーやそれに与する科学者たちと、市川定夫のような科学者の見解が分かれているのであれば、国策に沿った科学者の発言ないし国の公式見解と異なる受け止めをすることも考えられる。そうしたときに、指標物質であるセシウムガンマ線が検出限界未満だったとしても、健康影響がない、と異論を排して言い切ることができるのか?「たらちね」ではそのような疑問、懸念から測定活動を行い、実際にその懸念が杞憂であるとは言えないような測定結果が出ている。

 

 

<リスクを規定する言葉の影響のひろがりは深くて大きい>

 例えば、今これを書いている筆者も含め、首都圏に生きる人の多くは内部被ばくと外部被ばくの影響とを分けて考える必要はないという政府公式見解によって、計測された値から導出される年間追加被ばく線量が20m㏜未満であれば放射線が健康に与える影響はない、もしくは仮にあったとしても因果関係が分からないので気にしても仕方がないという認識を持たされ、福島県の被災地もすでに復興したか、直に完全に復興するものとして、原発事故はもはや自分達には全く関係のないことと気にも留めずにいるのではなかろうか。本書に収められた証言は、そのような原発避難者特例法に定められた指定市町村の住民以外、とりわけ原発事故被災を意識したことのない人々の世界認識と相反する世界からの証言なのである。

 さらに、双葉町町長の井戸川克隆さんは、本書170頁で「皆さんもきっと、私たちのように騙されるでしょう。」と予言する。国会事故調査委員会の報告書に掲載されている、福島県浜通り地方を中心とした地図の上に、SPEEDIによって試算された内部被ばく臓器等価線量の分布図では、確かに2011年3月12日から24日の12日間、福島第一原発付近は10000m㏜、その周りに5000m㏜、さらにその外側が1000m㏜、もっとも外側は100m㏜のラインである。これはあくまで試算値であるというが、井戸川さんは当時双葉町上羽鳥地区のモニタリングポストが毎時4613μ㏜を記録したという。これは約40㏜/年に相当する線量である。12日から24日までの12日間で考えれば、約1.3㏜に相当する。図らずもこれは、2011年3月12日当時、1号機爆発前のベントのせいで双葉町民がSPEEDIの試算値における1000m㏜から5000m㏜のエリア内にいたという井戸川さんの証言と符合する。(本書168頁参照。)

 

本書 p.169    SPEEDIによる臓器等価線量の積算線量試算値(2011.3.12〜3.24)

 

 

 井戸川さんの証言はこう続いている。

「爆発の時の線量は私には分かりません。原発立地町であれば役場で持っているんですが、その線量計で測れませんでした。針が振り切れました。そういうところに私たちは居たんですが、福島の事故の記録には、双葉町民の被ばく記録は入ってません。だから、〔福島県、国、一部の学者、UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)から〕100m㏜の放射線を浴びた者がいないという風に言われているんですね。」(168-169頁)

 日本政府は、SPEEDIの計算結果が福島第一原発からリアルタイムで原子炉内部のデータの送信があるはずが、事故のせいで故障して止まったがゆえの試算値でしかない、ということを根拠として、それと実測値との比較も特にせぬまま公式見解を出して今日に至っている。そのために私たち国民の多くが、原発事故で100m㏜以上の被ばくをした人はいないと思い込んで生活してきている[4]。「騙されるでしょう」というのは、次に事故を起こす原発立地及び周辺自治体住民だけでなく、全ての日本国民を対象とした言葉であって、私たちはすでに騙されているのである。

 言いかえれば、私たちがいま生きている「リスク社会(ウルリヒ・ベック)」においては、リスクを定義する者、定義する側が定義される側の一般庶民の生に対して大きな権力を行使している。むしろ、被災地住民以外の人々に対して、自分たちは原発事故とは無縁であり、原発事故は収束しつつあり被災地も順調に復興していると思わせるような権力がスムースに作用しているのである。

 被災地でもこの権力はもちろん作用している。だが、被災当事者に対してはその働き方は被災地以外の人々とは異なっている。「たらちね」の藤田さんに、地元の人たちは自分たちを‘被災者’としてアイデンティファイしているんですか、と筆者が尋ねたところ、「不信感って言うのだけは、やけに残ってるんです。」(111頁)と答えた。その不信感は、東電や行政とかだけでなく、社会全体にであるとか、さらには家族仲良く暮らしていたとしても、放射能に対する考え方で分かり合えない所が出てくるといった、心の垣根のようなものにもなるのだという。(112頁参照)「リスク社会」において、放射性物質に代表されるリスクをもたらすものは五感で知覚できない。五感で知覚できず、科学を通してしかそれの有無や大小を知り得ないということになると、科学が提示する放射性物質の量や濃度と言った数値をどう評価するかによって、人によってリスクの大きさや内容が変わってくるのだが、藤田さんの言葉からは、リスクを定義する言葉のはたらきが家族内部にまで深く浸透して悪影響を多様な仕方で与えることが分かるのである。

 

 

<何が証言を証言足らしめるのか>

 ここまで紹介しながら検討してきた原発事故被災者の「証言」は、リスク社会における権力のはたらきに抗う言葉である。このような言葉の出どころはどこだろうか。「証言」を証言たらしめるものは、どこにあるのだろうか。本書では、生命の活動と放射線とが本質的な対立関係にある点に着目して、核兵器の開発並びに核発電の実用化によって、生きとし生けるものが生きること自体に倫理的な意味が生じたというところに、証言にベックが言う「合理性」の根拠があると見る。

 本書の内容を、リスクを定義する者たちの言葉と、定義を押し付けられる側の言葉とのせめぎ合いとしてみた場合、また違ったものが見えてくると筆者は考える。例えば井戸川さんの行動と思想の根底には、古くからの井戸川家の歴史が存在している。井戸川さんが原告の「福島被ばく訴訟」第16回口頭弁論の際に提出されたご本人の陳述書から引用する。

「井戸川家の歴史から、今日あるのは幾多の困難、戦乱に耐えながら続いてきたことが分かる。私はこの流れを繋いでいく運命にある。」

 陳述書の中で、原発事故がどれほどの損害をもたらしたかを記述する損害論の「井戸川家」の章はこうして始まる。続けて、井戸川家の3代前の議隆さんが銀行を創設したり、大地主として小作料収入を多く得たり、さらに町長となって県立双葉高校の前身の旧制双葉中学校を創立(ただしこれに多額の資金が必要となり、町の財政を破綻させてしまったとのこと)したりと、地域の名士として生きたことがつづられる。その次の盛隆さんは自費で東京通いをして郡山部落や町のために無報酬で働いたのだという。そのために、井戸川家は貧しく、井戸川さん本人はお金のかかる選挙には出ないと誓って実業に専念してきた。しかし、時が流れて町の財政状況が破綻状態にあることを知ると、町長選挙に立候補して町長となった。このような、自身が生まれる前からの一族の歴史が今なお井戸川さんを奮い立たせて国と東京電力と戦わしめている。

「町と町民の安寧を願い仮の町をつくるために邁進してきたが、これが果たせずに辞任に至ったことは慚愧の想いだ。」「原発行政のウソがわが町、わが家族、人生のよりどころの中心の我が家を壊してしまった。」

 こうした、リスクを定義する側の言葉と対極にある言葉は、吉澤さんにもある。

「安倍政治のルーツなんて、岸信介でしょうよ。あれが日本を戦争に引っ張り込んだ張本人だよ。だから、安倍は絶対戦争の反省なんかありはしないだろうし、国策の根幹として、あの当時の戦争は行われ、うちのおやじなんか満州開拓に行ったんだ。結局戦争で敗けて、シベリア抑留3年。おやじは運良く生きて日本に帰れた。仲間が大勢シベリアで死んでるんです。最終的に国策が敗北すれば、大量の棄民は生まれる。」(144頁)

 また、『原発一揆警戒区域で戦い続ける“ベコ屋”の記録』(サイゾー、2012年)を読むと、希望の牧場の土地が吉澤さんの父親が苦労して開墾した土地であることが分かる。(『原発一揆』36-39頁参照)そして本書では、被ばく牛を飼い続ける原動力について、次のように語っている。

「やっぱり自分のたどった人生よ。おやじの後、この牧場を引き継いで、ここが最後の場所だと思ったから、ここからどっかに行くなんて俺は考えないし、ここで被ばくをしながら、ここで放射能を浴びながら、この300頭の牛を背負いながらさ。」(154頁)

 井戸川さんと吉澤さんがリスクを定義してくる権力に抗い続ける根底には、ひとつには家族、家系の歴史がある。自分の人生が自分独りのものではなく、親から、さらにそれ以前の代から受け継がれてきた重みにおいてはじめて人生となっていると、絞り出すように証言している。

 

 

<私の証言は私だけの証言にあらず>

 双葉地方原発反対同盟石丸小四郎さんの場合は、本書第2部第1章で検討しているように、1960年代、福島第一原発が落成し運転開始する頃からの労組の運動にルーツがあった。郵便局員だった石丸さんは当時の郵便配達用のオートバイの仕様のせいで局員が白蝋病や頚肩腕症候群に悩んでいたことを突き止め、局員の労災認定を勝ち取っていったのだという。原発反対運動は、労働運動の延長線上での取り組みであったのだという。218頁参照。)石丸さんは旧社会党、現社民党とつながりがあるが、反原発運動はイデオロギーに支えられたものではない。

「私が運動を継続できたのは原発労働者に接してきたからです。原発の問題点を勉強する必要がありますが、勉強だけでなく、原発労働者と接触を続けるなかで、原発の内部がいかにでたらめで、東京電力原発を運転する資格はないということが分かってきました。…怒りが根底にあります。…根底にある怒りと、原発はどういうものかという勉強を車の両輪にしてきたことが今まで続けられた理由だと思います。」(220頁)

 これは、2011年に行われた一橋大学フェアレイバー研究教育センターによるインタビューからの重引である。原発労働者に接していくうちに湧いてきた怒りというのは、イデオロギーという型から生じるものではない。もっと根源的な、生命のはたらきと人生に対する侵害への共苦から生じているのではないか。

 石丸さんは、上記インタビューの中で大熊町で農業を営みつつ歌を詠んだ農民歌人佐藤祐禎さんの歌を引いている。まず石丸さんが引いた歌から重引しよう。

 

              原発に勤める人にまた逝きぬ病名今度も不明なるまま

 

 本書で重引した歌とは別の歌である。石丸さんは佐藤さんについて次のように語っている。

「佐藤さんの近くで被曝して亡くなっている人がいますので、この人の短歌は凄いですよ。地元で原発を歌に詠むものだから目の上のたんこぶだった。東電は原発内の短歌会の講師として来てくれと何回も佐藤さんを呼びますが、頑として行かなかった人です[5]

 さらに、佐藤さんの歌のキーワードとして、「生活感」「(原発立地自治体に生きる)リアリティ」を挙げている。

 筆者は詩歌の鑑賞や創作に関して全くの素人であるが、佐藤さんの短歌は石丸さんの活動の根本的なモチベーションと共鳴しているだけではなく、黙して語らぬ多くの地元の人たちの生活実感や原発に対して考えている事ともなにがしか共鳴しているのではなかろうか。原発事故後の歌からもはばかりながら一つ引用する。

 

              原発の言葉は元より信ぜねば三代に亘り戻る日なけむ   [6]

 

 これは2012年4月に詠まれた歌である。これに先立つこと1月から、当時の警戒区域計画的避難区域に属する11市町村で除染が本格的に始まっており、4月1日からは2つの区域が年間積算線量に鑑みて「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」へと再編された(2019年より、居住制限区域がなくなり、帰還困難区域と避難指示解除準備区域に再編)。被災者を帰還させて被災地を復興させるための具体的な施策が動き始めた時期に詠まれたと言っていいだろう。要するに、除染によって帰還を可能にし、復興を成し遂げるという掛け声が本格的に叫ばれ始めたころに詠まれた歌だが、自分たちを置き去りにして繰り返されるそういう掛け声に感じる深い絶望やむなしさがあらわれている。

 

 

〈証言の真理性の考察へ〉

 佐藤さんの歌に詠まれた心情が他の被災者の心に通じるものがあるとすれば、歌によって掬い取られた心情の証言、また本書に収められた証言、そうした言葉の真理性はどのように担保されるのだろうか。「リスク社会」においてリスクを定義する権力を持たない者の言葉は、権力の言葉と同等には受け取られないのが常である。つまり、真理真実ではなく、あくまでも個人的な心情や意見に過ぎないとみなされてしまう。(もちろん、そうならないために、例えば「たらちね」では放射線の「測定」を活動の中核に置いているのであるが。)

 

 

<M.フーコーのパレーシア概念と被災当事者の証言>

 ミシェル・フーコーは『真理とディスクール パレーシア講義』(筑摩書房、2002年)の中で、古代ギリシャにおける「パレーシア」概念を分析していく。古代ギリシャにおける「パレーシア」は直接的には「すべてを語る」という意味であり、そのパレーシアを行う者を「パレーシアステース」と呼ぶ。すべてを語る「パレーシアステース」は、真理を語る者と考えられたフーコー、10頁)

 だが、その人が「パレーシアステース」であることを保証するものは何か。フーコーはそれを勇気であるという。

「〔古代〕ギリシャでは、ポリス〔=都市国家〕の大多数の人々の考えと違うことを語ることは、危険なことでした。そしてこの危険なことを引き受ける勇気があるということは、その人がパレーシアステースであることをはっきりと示すものだったのです。」フーコー、14-15頁)

 フーコーの論述に沿って例を挙げれば、友達に“君のしていることは間違っている”と忠告する場合、その友情にひびが入るリスクを負って発言している。つまり、発言する本人にとって何の利得もないのにあえて発言する人がパレーシアステースであり、その発言がパレーシアである。政治に関する議論で大多数の意見と衝突する内容を発言すれば支持者が減る危険がある。この人もパレーシアステースである。フーコー、16-17頁参照)

 ひるがえって原発の問題でいえば、本書で取り上げたような被災当事者によるパレーシアが、家族の関係を危うくしたり、地域での交際をギクシャクさせたり、仕事にネガティブな影響が及んだり、自らを多方面において危険にさらす可能性があることに、異論はないと思われる。

 フーコーに戻って付言すると、パレーシアには自分自身を不利にするような正直な告白は含まれない。あくまで、他者の行動や考えが間違っているという指摘や、自分を罰する権限を有する者に対して、自分を罰する可能性のある内容を告白することがパレーシアなのである。自分を罰する権限を有する者に対する告白がパレーシアなのだから、権力者の発言はパレーシアではない。フーコー、18-19頁参照)そして、発言者は黙っていることもできるにもかかわらず、発言するのはなぜか。それは、発言すること、パレーシアが義務であると感じられるからである。“これだけは言わなければならない”“これを言わずしてこの先どう生きよう”と感じ止むに止まれず発言する人が、「パレーシアステース」なのである。

 本書第一部に収められた4組の証言は、国や東京電力という権力の側に対して、「あなた方のやったことは私に見えて体験されているだけでもこれほどのことなんですよ。」とあえて告げる性質を有している。それゆえ、これらはみなさしずめ現代のパレーシアである。いや、個々の発言だけでなく、その生きざま全体が証言、パレーシアである。

 

 

利益相反の有無こそパレーシアの試金石である>

 加えて、4組の証言には、フーコーによる古代ギリシャのテキストの解釈から直接は導き出せない、環境倫理学のパレーシアの条件があらわれていると思われてならない。

 それは、その発言が何者かの利益のために行われているのではない、ということなのだが、さらに具体的に言えば、発言内容を左右するような特定の個人、団体からの支援を受けていないことが、パレーシアをパレーシア足らしめるということである。つまり、被災当事者の証言の真理性を保証するのは、発言者、証言者に利益相反がない、ということである。

 これは、日本の思想界を席巻して久しい「臨床哲学」研究や実践の一部、もしくはそれに近親性のある、社会学をベースにした一部の「記述」や「寄り添い」を鍵語とした研究に欠落した視点である。このような視点を持たない研究は、自身が直接利益相反を犯していなくても、他の利益相反を犯している研究者や団体との共感的なつながりを(その自覚の有り無しを問わず)持ってしまうことがある。

 石丸さんの言葉に帰れば、歌人佐藤祐禎さんは東電の歌会に何度招かれても参加しなかった。井戸川さんは、東京電力原発関係の役所との会合や会食について「ごちそうにならないように」気を付けていたと語っている[7]。(どうしてもお酒を飲まないといけない席は自分でそれなりの値段のお酒を買って参加し、「ごちそうになった」状況を作らないようにしていたという。)

 何のことはない、市井の生活者が自分の言葉に責任を持つために注意していることを、学の概念に取り入れればよいのである。これを取り入れて学問の語法で言い換えるなら、真理を語るパレーシアであることの条件、ということになる。市井の人々も、学問研究者も、ひとつのパレーシアがちゃんとパレーシアであるかどうか、権力の側からリスクを定義する言葉の網、壁を突き破って真理をつまびらかにするものかどうかをチェックして吟味することが求められている。

 

 本書第二部では、フーコーのパレーシアのような、語りの真理性に関する議論とは異なる形で、被災当事者の証言を引き受けた考察を行っている。

 ご興味の湧いた方はぜひそちらもお読みいただければ幸いです。

 

 

(やまもと・たかし)

 

__________________________________

[1] 農林水産省ホームページ「食品中の放射性物質について知りたい方へ(消費者向け情報)」(2024年9月10日閲覧)https://www.maff.go.jp/j/fs/radio_activity.html 

[2] これに関する環境省の見解は環境省ホームページ「第8章 食品中の放射性物質

QA8-2 ストロンチウムは骨に蓄積されるので、危険だと聞きました。食品中の放射性ストロンチウム量についての規制はないのですか。」を参照。(2024年9月10日閲覧)https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h29kisoshiryo/h29qa-08-02.html 

[3] 市川定夫『新・環境学Ⅲ』藤原書店、2008年、172-176頁参照。

[4] 日本政府が100m㏜以上被ばくした被災者がいることを把握していながら、その存在を国民に周知することなく握りつぶしたことを明らかにした著作として、榊原崇仁『福島が沈黙した日 原発事故と甲状腺被ばく』集英社新書、2021年を参照。

[5]一橋大学フェアレイバー研究教育センター(47) 福島原発震災と反原発運動の46年-石丸小四郎さん(双葉地方原発反対同盟代表)に聞く」『労働法律旬報』 (1754), 2011年10月、55-56参照。https://fair-labor.ws.hosei.ac.jp/rh-junpo/111025.pdf 

[6] 佐藤祐禎『歌集 再び還らず』いりの舎、2022年、147頁。

[7] 「インタビュー 井戸川克隆 福島第一原発と『仮の町』構想」『環境倫理』第1号、2017年、111-112頁参照。(当該頁までスクロールして頂ければ幸いです。)https://drive.google.com/file/d/1Yk8FctqQ4_CiCphNhSMKGLBYTNDc6CB8/view 

 

 

 

 

 

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 『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発苛酷事故の経験から』山本剛史 【編・著】

ISBN: 978-4-86209-090-4
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[A五判並装]520頁
(2024-04-10出版)
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〈全村避難〉を生きる─生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故

菅野 哲【著】

ISBN: 978-4-86209-075-1
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(2020-02-10出版)
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フクシマ―放射能汚染に如何に対処して生きるか

島 亨 【著】/菅野 哲 【談話】

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[四六判並装]372p
(2012-08-25出版)
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図書新聞 2024年3654号9月7日 「リスク社会に生きる」対談 島薗進×山本剛史

図書新聞 2024年3654号

リスク社会に生きる 対談  島薗進×山本剛史

山本剛史編著『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学』(言叢社)をめぐって

 

本日発刊されました、週刊書評誌「図書新聞」3654号にて、被災当事者のいのちをめぐる思想と環境倫理学による応答の書籍の新刊『〈証言と考察〉被災当事者の思想と環境倫理学 福島原発苛酷事故の経験から』山本剛史 編著をめぐって、

帯の推薦文をお書きいただいた、宗教学者島薗進氏との対談が掲載されております。以下リンクの電子版や、コンビニ等のネットプリントでも購読ができます。どうぞお読みください。

 

 

 

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2024年 新刊 『〈証言と考察〉 被災当事者の思想と環境倫理学──福島原発苛酷事故の経験から』

東日本大震災から13年。福島原発事故は終わっていない。
被災当事者から学び、倫理学の知を再構成する。
市井の知と倫理思想の相互往復から形作られる環境倫理学

 

 

『〈証言と考察〉 被災当事者の思想と環境倫理学

──福島原発苛酷事故の経験から』山本剛史 【編・著】


[A五判並装]520頁
定価=本体3,364円+税【3,700 円(税10%込)】

ISBN: 978-4-86209-090-4 C0036 

(2024-04-10出版)

 

 

福島原発災害が私たちに問いかけているものは何か。
この問いを深めつつ、被災者の困難に応答し、記憶の風化に抗しようとしてきた人々の言葉と行動を踏まえ、人類が今新たに形づくろうとしている環境倫理の輪郭を描こうとする試み。
原発事故被災者の10 年余りの経験を通して育まれた洞察が、現代哲学・倫理学の奥深い問いと照らし合わされ、考察されている。
読者は本書のそこここから新たな視野の開けを感じとることだろう。

                   ──────島薗 進氏(宗教学者

 

 

 

福島第一原発の事故は、人間の日常生活そのものが、人間自身の力で、自らを滅亡させる力をもった科学技術に依存していることを如実に示す出来事であった。

 第一部は、原発被災経験の風化に抗して立ち上がった被災当事者たちの「いのちを支え合う」活動の証言を収録。
 第二部は、その証言の根底に流れる思想と交差させながら、科学的合理性と社会的合理性の葛藤から、新たに生まれ出る環境倫理学のあり方について、W・ベック「リスク社会論」とH・ヨナス「未来倫理」を参照し、考察する。原発事故後の環境倫理をになう主体は誰なのか。その主体となる者たちの行動を通し、今日のリスク社会を生きるうえで欠かせない行動規範を考える。

 

【主な目次】
巻頭カラー口絵 石丸小四郎 講演スライド

〔第一部 証言〕(聞き手:熊坂元大・小松原織香・吉永明弘・山本剛史)
1章 フクシマ原発労働者相談センター 苛酷事故にみまわれた――あれから八年、福島の過去・現在・未来
〈追補〉二〇一九年以降の福島第一原発の問題―汚染水とその処理を巡って 石丸小四郎

2章 いわき放射能市民測定室たらちね 広がり続ける被ばくへの対処――内部被ばく・食物汚染の測定からはじまった市民活動

3章 「希望の牧場・ふくしま」吉澤正巳 希望とは何か 実力とは何か──原発を乗り越えて生きるために

4章 井戸川克隆・セルフインタビュー 立地自治体は福島第一原発事故の教訓を生かせ! 

〔第二部 考察:福島第一原発事故環境倫理学山本剛史
1章 あらためて問う、環境倫理学は誰のためのものか
2章 原発事故被災状況下におけるICRPの生命・環境倫理
3章 ICRP「最適化」原則にかわる新しい環境倫理学の視座
4章 ハンス・ヨナスの「未来倫理」

 

 

【著者プロフィール】
山本剛史(やまもと・たかし)
一九七二年生まれ。慶應義塾大学教職課程センター他非常勤講師。

【第一部 聞き手】
熊坂元大(徳島大学大学院社会産業理工学研究部准教授)
小松原織香(東北大学大学院文学研究科准教授)
吉永明弘(法政大学人間環境学部教授)

2023年 新刊 『小森孝一が語る 佐原の山車祭りとまちおこしの35年』

 

 

 3年目にはいったコロナ禍、5類感染症に移行して、世間がうごきだしてきました。

 この禍の2年、ひとびとの心の様子が、確かにかわってきたように思います。

 時が穏やかにめぐりくることの有難さは、ことのほか、身に沁みます。

 こうした時期にふさわしい新刊が、できあがりました。

 

 

 

 

2023年 新刊 『小森孝一が語る 佐原の山車祭りとまちおこしの35年』

2023年2月15日刊行

『小森孝一が語る 佐原山車祭りとまちおこしの35年』

語り=小森孝一

本文=[構成・編著]佐原アカデミア理事長・大矢野 修

寄稿=椎名喜予・酒井右二・関谷昇

語らい=永野美知子・椎名喜予・関谷昇

A5判320頁並製

定価2500円

 

 

 千葉県香取市佐原、夏・秋の二つの山車祭りにむかって、一年を通して、さまざまな仕度をととのえる。めぐり来る風景の力に出会うまちです。

                                                                  佐原の宝、小野川と伝統的町並み

 

 話者・小森孝一さんにのべ7年をかけて、佐原アカデミア・大矢野修氏がインタビューして、書き表された。

 下総(千葉県)佐原は江戸時代、利根川の水運を利用し東北や関西と江戸をつなぐ流通の拠点として、多くの商人が出入りする都市的な要素をもった「まち」(在方町)として栄えた。

 

 江戸の末期、利根川の中・下流の名所・旧跡、名品、風土などを紹介した赤松宗旦(あかまつそうたん)の『利根川図誌』(安政二年)には、「佐原は下利根川附第一繁昌の地なり。村の中程に川有りて、新宿・本宿の間に橋を架す(大橋といふ)。米穀諸荷物の揚(あげ)下げ、旅人の船、川口より此処まで、先をあらそひ両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来の群衆、昼夜止む時なし」と記されている。

 

 佐原の山車祭りは、小野川(『利根川図誌』では佐原川)を挟んで右岸・東側の本宿惣(そう)町(ちょう)の夏祭(八坂神社祇園祭)と左岸・西側の新宿惣町の秋祭り(佐原の大祭・諏訪神社の祭礼)の二つから成っているが、二つの祭りは微妙に性格のちがう歴史を有している。対抗しつつ競い合いの中からまち全体の活力を引き出そうとする佐原の気風は、この異なる特徴をもつ二つの祭りに端的に表れている。

 

・全国各地から人の出入りの多い佐原にとって、まちを治めるにはコミュニティの結束は欠かせなかった。度重なる利根川や小野川の氾濫に対処するため、日ごろからコミュニティの自治を築いておくことは極めて重要であった。

 

 佐原のまちは、つねに外に向かって開きつつ、外部のエネルギーを積極的に取り込む一方で、幕府の権力をふくめ外部からの圧力に抗する力を町衆の自治として築いてきた。そうした佐原の町立ての骨格をつくってきたのが、伊能三家及び伊能忠敬であった。伊能忠敬が江戸に隠居した後も、佐原のまちには、有力旦那衆を中心に自治の気風がみなぎり、お互い競い合い、そのエネルギーを佐原のまち全体の活力に転換させるダイナミズムが息づいていた。その中核にはつねに山車祭りの存在があった。(本文p.1~p.2より)

 

●伊能家と佐原

 伊能家の古文書などを読みますと、佐原の祭りの原形は、享保六(一七二一)年までさかのぼることができますが、その中心にいたのが伊能家でした。伊能家は伊能七家といわれますが、中核を担ったのは伊能三郎右衛門(本家)と分家の茂左衛門、権之丞の三家です。そして、この伊能三家がお互い連携し合うことで、佐原のまち全体を町衆の力で治める「自治のまち佐原」の気風が育ってきます。そのツール、道具立てとして山車祭りがあったんですね。

 祭りになれば、町内同士で競い合います。しかし、利根川の氾濫や飢饉などの災害でまち全体が危機に陥ると、伊能家を中心に、佐原の町衆みんなが一致団結してまちを守ったんです。佐原は城下町ではなく天領ですので、武士に頼るわけにはいきませんから、自分たちのまちは自分たちで守るほかなかった。そのために、さまざまな工夫や知恵を働かせてきたのが佐原のまちの原点なんです。(本文p.53~p.54)

・このことを象徴しているのが、伊能堀の開削であった。佐原の立地は、利根川の水運を生かして商業を発展させることができた反面、つねに利根川の氾濫、さらにまちなかにおける水不足や小野川の増水との闘いを余儀なくされた。それゆえ、伊能家が主導した水の管理は、まちの生命線を守ることを意味したのであった。そうした伊能家によるまちづくりの過程において、伊能忠敬はその力量を発揮していくことになったのである。(本文p.296)

 

まちおこしに関わっていると、必ず忠敬先生に突き当たる

伊能忠敬(1745~1818年)

 

延享2(1745)年  上総国山辺郡小関村(九十九里町)小関家に出生。宝暦12(1762)年18歳、佐原村豪家伊能三郎右衛門家の達ミチの後配として入婿。当主として、名主や村方後見に在任し、幕藩体制の解体が進む近世社会に地域指導者として生きていきました。50歳で家督を長男に譲り、翌年江戸深川黒江町へ移住幕府天文方の高橋至時へ入門。56歳のとき、蝦夷地測量に着手。以後15年年間にわたり全国測量、伊能図を作成。

・忠敬の考え方において興味深いことは、佐原のまち全体が繁栄しない限り、伊能家も繁栄はしないということを自覚していた点である。そのことは、河岸営業からの徴税を目的として営業権を独占する河岸問屋を許容した幕府に反対したことに象徴されている。商業において一部の者が免許を独占してしまうと、河岸の管理は勘定奉行に支配されることになってしまい、自由な商売が阻害されてしまう。それゆえ、河岸の営業権は全員に認め、伊能家が徴税を請け負うということを幕府に認めさせた。驚くべきことに伊能忠敬は、村全体で享受できる自由な競争こそが、地域の経済と自治を守るという発想を明確に持ち合わせていたのである。

 

 こうした自治の思想は、さらに天明の飢饉における忠敬の対応にも見出された。彼は、大坂から三年分の米を先買し、それを佐原の人たちに与えたのであった。それは、無償の施しではなく、佐原の人たちが火山灰の除去作業に携わった日当によって安く分け与えたものであって、まさに「経世済民」を体現したものであった。こうしたエピソードに象徴されるように、佐原の商いというものは、幕府に依存するのではなく、また一部の豪商が利権を独占するのでもなく、あくまでも地域の人々が自分なりに努力して生計を立てることができるようにする気風を持っていた。地域の牽引役は、私益にとらわれることなく、コミュニティ全体を配慮できる資質とリーダーシップを兼ね備えていたのであった。(本文p.296)

 

●小森孝一さんが、佐原のまちおこしを決意した時期

 佐原の祭りは、船と汽車が主要な交通機関であった明治、大正時代から昭和初期まで、近郷周辺から四、五万人を超える人が集まるほどの賑わいをもっていたという記録がある。しかし昭和二〇年、日本が戦争に負けたことを契機に、佐原のまちは一変する。……

 戦後復興期を経て高度経済成長期に至り、交通機関が鉄道から自動車に移行する過程で、佐原のまちはいちだんと衰退の道をたどっていく。同時に山車祭りも「金食い虫で、荒っぽいだけの祭り」といわれるまでになり、佐原の祭りを支えていた人たちの熱い想いも次第に遠い過去のものになっていく。特に一九八〇年代ともなれば、佐原の祭りは、ドブ川と化した小野川、また小野川沿いに建つ古い町並みとともに、「佐原の三悪」といわれるまでに酷評される。

  小森孝一さんがこのままではダメだと危機感を抱き、山車祭りを通して佐原のまちおこしを決意したのはこの時期である。(本文p.3)

 

●佐原の「三悪」 

 当時佐原では、「佐原の三悪」といって、なんとか変えなければだめだと地元の人たちも思っていたものが三つあった。一つがお祭りのやり方がこのままでいいのかどうか。それから小野川と小野川沿いに建っている古い町並み。古い町並みですから、町全体が薄暗くて流行のファッションの店なんかもう売れないわけです。ですから、古い土蔵造りを全部取り壊して、新しい店に付け替えて、建て直そうという意見が大半でした。

 次は小野川ですが、これがまた巨大排水路みたいなあり様でした。みんなゴミは捨てる、水は濁る、メタンガスがブクブク湧き出しますから臭い。そういったことで、「埋めて駐車場にしよう」という議論をやっていた時代なんです。かくいう私自身、祭りのことを深く考えるまえは、同じ意見だったんです。しかし、まちの歴史的な成り立ちがわかってくるにつれて、「小野川は、佐原の昔からの命綱だから、絶対埋めてはいけない」と、逆のことを言いはじめたんです。そうしたらみんなきょとんとして、「お前、この間まで埋めろ、埋めろ、って言ってたじゃないか、先頭に立ってたのに何だ」ということになった。私は、君子は豹変するんだとか、勝手なことを言いながら、「埋め立てなんてとんでもない」と説得して回りました。

 実は、私が埋め立て派から保存派に変わったのには理由があったんです。私事で恐縮なんですが、私の長男の嫁さんが飛騨高山の出でして、それを機に、飛騨高山のまちづくりについては関心をもっていました。そこで一度、飛騨高山の関係者の方たちを招いて佐原の実状を見てもらったことがあったんです。その時、蛇行している小野川の光景を見て、「これこそが佐原の宝物ではないですか」と言われたんです。それを聞いて、ハッとしたんですね。曲がりくねって蛇行して流れる小野川、また小野川に抱かれるように建っている古い町並みの価値を、観光まちづくりの大先輩である飛騨高山から教えてもらったんです。それから俄然、私は埋め立て派から保存派に転向したんです。(本文p.31~p.32)

 

●歩道橋の撤去

・小野川は佐原の大動脈だったんだ。これを汚しておいたままでは、佐原の宝をつぶすことになる」とか何とか理屈を言って、「やるんだ、やるんだ」とみんなを説得する日々が続きました。(本文p.34,p.40)

 

●小野川のドブさらいと舟運の復活

 この小野川のゴミをどうしようかということになって、「とにかくやってみよう。一週間ほどゴミ拾いをすれば、ある程度きれいになるだろう」ということで、みんなバカ長靴を履(は)いて小野川に下りました。浮いている物は簡単に取れるんですが、歩くとね、足にいろんな物がぶつかるんですよ。引き上げてみたら自転車なんです。自転車が半分くらい顔を出して埋まってるんです。とにかく手で引っこ抜きながら、ロープに結わえて軽自動車で引き上げる。自転車だけで四〇〇台から五〇〇台上がりましたかね、四トンのダンプに三台分。自転車に乗ってきて小野川へポンと投げていたんですね。それとあと、護岸を直した時の古い石がそのまま川底にゴロゴロ残っていました。それから、いろんな物……犬の死骸なんかもありましたよ。

 一週間ほどかかって何とか川さらいをして、これで舟が通れるだろうということで、北佐原地区の船頭さんに「ちょっと走ってみてくれ」と頼んだら、「これ通ってもいいけど、臭くて」と言うから、「臭いのは我慢してくれ」と頼み込んだ。ところが走れないんですね。護岸工事でそのままになっていた石に舟がドカンドカンぶつかって、どうしようもない。そこで、すぐに建設省に頼み込んで、「申し訳ないけれども、小野川の水門を閉めてください。小野川の水位を上げれば舟が走れますから」ということで、水位を上げてもらって何とか舟を通したんです。こうして平成五(一九九三)年、祭りの日限定でしたが、戦後三〇年ほど途絶えていた小野川の舟運が、利根川河川敷の駐車場と祭りの会場を結ぶ便として復活しました。

・一番驚いたのは、小野川の中橋の所まで舟を入れたんですが、人を乗せて舟がのぼってきて、何回も往来すると両岸の人が手を振るんですね。はじめはみんな「ばかなことをはじめやがって」と言っていたんです。はじめて舟を走らせたときは、水門を閉めるのを妨害されたりしました。「何で水門を閉めるんだ」とか、「水が臭い」とか言われたんです。ところが不思議なもので、舟が走り出すと、今まで見向きもしなかった人が家の外に出てきて手を振るんです。舟に人を乗せて走るなんていうのは何十年ぶりなんですね。その光景をみんな見ていて、「やっぱり舟が走るといいな」「人が乗って走るというのはいいもんだ」という話をおばあちゃんなんかがしているので、しめたと思ったんです。そこで気をよくして、お祭りが終わった後、また川に下りて川さらいをはじめました。

 それで驚いたのは、それまで小野川へゴミを捨てていた近所の人が捨てなくなったんです。ぴたっと止まった。やっぱり小野川をきれいにしなきゃいけないと思ったんですね。それまでは、川の脇でドラム缶を置いてゴミを燃して、みんな小野川へその灰を捨てていたんです。ところがドラム缶がどんどんどん消えてなくなってきた。

 もう一つ驚いたのは、ゴミ捨てがなくなったとたんに小野川の水がきれいになり、泥臭さも消えてきたんです……。水質検査してもらったら水質は悪くないということで、とにかくお祭りの三日間だけシャトル舟が走るようになりました。(本文p.40~p.43)

 

●通年運行のための舟造りに奔走 

 そしたら、また難題が出てきた。「通年で運行するって言っただろ」と。通年で舟を走らせようとしたら、一年中水門を閉めなければいけない。でも、そういうわけにはいきません。小野川は水量が少ないですから、何としても人が乗っても沈まない舟が欲しい。

・たまたま新聞に、島根県松江市がお城のお堀巡りをはじめたというんで、すぐ飛行機に乗って行ったんです。驚いたことに、その船が二〇人乗っても五センチしか沈まない。なぜだろうと思って聞いたら、「お堀もドロドロの状態で、ヘドロで水深が浅いもんだから、そういうところでも大丈夫な舟を開発した」という。……今小野川を走っている舟は松江市のこの図面をお借りしたものです。

・小野川で安定して浮かべられる舟にメドがたって、こりゃ良かったなって思ったんですが、今度は、小野川の川底には護岸を崩した時の石がたくさん残っていて、その石にスクリューが当たってみんな壊れちゃうんですね。この問題を解決しないことには、通年で舟を走らせることはできません。石を水から揚げると重くて持てないもんですから、水の中をずうっと移動して脇へポンと置く。……合間を見つけて、水が少ない時に川に下りて作業をしました。そうやっていたら、ないはずの自転車がまた出てくるんですね。歩いているとね、足へポンとぶつかるんですよ。すぐ軽自動車に来てもらって、ロープで縛って上から車でガーッと引き上げるんです。ずいぶん佐原には自転車泥棒が多かったんですね。よく騒がなかったですね。あんなに自転車が川に捨てられているのには本当にびっくりしました。そんなことをかれこれ三年ほどやりました。

 そのころ、手伝ってもらった連中は、私が鉄砲撃ちなどをやって遊んでいたころの仲間が多かったんですが、若い連中はみんな、「小森と目を合わせるなよ、目を合わせたら、呼ばれて手伝いをやらされるぞ」と言ってたらしい。川さらいがはじまったら、夏は七時すぎまで、暗くなるまでやってました。七、八人で横に一列に並んで歩いて、川底に障害物があったらそれを片付ける。もうないだろうと思っても、まだあるんですね。完全に人海戦術で繰り返しやりましたね。

・さて、実際に歩道橋がなくなって、忠敬橋が新宿と本宿双方の山車が相互に乗り入れのできる、文字通り二つのお祭りをつなぐ「交差点」になってきますと、不思議なもので、それまで小野川に沿ってくすんだように建ち並んでいた古い町並みの眺望が一気に開けてきました。

 小野川沿いの古い建築群は平成八(一九九六)年に、関東地区ではじめて「重要伝統的建造物群保存地区」(「重伝建保存地区」)に選定されましたが、保存の取り組みは忠敬橋の歩道橋撤去ではずみがつき活発になってきました。そうした動きはもちろん行政の力もあったんですが、市民の力も大きかった。その中心にいたのが、当時「正上」のご主人であった加瀨順一郎さんでしたね。

・何かが足りないと気がついたら、とにかくやってみて、ぶつかってはじめてわかるというのがまちおこしではないかと実感しています。(本文p.43~p.49)

 

● 3・11東日本大震災

・だが、佐原のまちおこしは、二〇一一年三月一一日の東日本大震災でまち全体が甚大な被害をうけたことで急停止を強いられてしまいました。小野川は液状化で川床がもりあがり、古い町並み、特に「重要伝統的建造物群保存地区」の建物の屋根瓦が崩れ落ちてしまいました。一瞬にして二十数年の努力が水の泡になったということです。

 

 

                         小野川の様子伝統建造物・屋根瓦が崩れ落ちた

 

・しかし、3・11の体験は、佐原の市民にとってまち再生の原点を見つめ直す大きな機会だった。震災から四日後、瓦礫の中から一条の光が射すように「このままではしょうがない」という女性たちの声が聞こえてくる。その声に励まされるように多くの市民が立ち上がっていく。椎名喜予さんの寄稿は、まちおこしの灯を絶やすまいと「復興観光」の名で動きはじめた市民群像を紹介している。一九八〇年代半ば、小森さんの決意からはじまった佐原のまちおこしは、自治のまち佐原の誇りを呼び覚ます苗床づくりでもあった。(本文p.14~p.20)

 3・11を経験して、私たちはこれから、どういうやり方でまちおこしを展開していくべきか、あらためて課題を突き付けられているように思います。

 実は、もともと佐原は、江戸と直結して栄えてきたまちですから、旦那衆は一年のうち八カ月ぐらい江戸にいて商人として仕事をしている。佐原には四カ月くらいしかいないんです。伊能忠敬先生もそうでした。その間、佐原をとり仕切っていたのは、実は女将(おかみ)さんたちなんです。佐原の女将さんというのは、旦那衆の内助の功というより、旦那衆が留守の間、お店を取り仕切る立派なマネージャーの役を担っていたんです。ですから、佐原の女性はもともと強いし、賢かったんです。(本文p.52)

 

 「町衆の自治」「江戸優り」は、佐原を象徴する「宝」そのものなんだということがわかってきます。

 「自治のまち佐原」を築くために、内側を固めるだけではなく、外の風、つまり江戸の文化を積極的に取り入れています。山車の彫刻、人形の飾り物、佐原囃子の独特のメロディなどには、すべて江戸文化の最先端の技能・文化が取り込まれています。その受け手の一つに、女将さんたちに代表される、女性の力もあったということですね。そう考えてきますと、「江戸優り」というのは、単なる江戸のミニチュア(小江戸)ではない、独自の経済圏、文化圏をつくってきた佐原の人たちの心意気というか、自治の力のことをいうのではないか、と考えるようになりました。

 

● 椎名喜予さんの寄稿

 東日本大震災から一〇年余、地域の誇りを想い起こしつつ、復興に取り組んできた。被災時、誰しも茫然として、佐原のまちづくりは止まってしまうと、打ちひしがれたかにみえた。しかし実はそうではなく、数十年、地域が向かうべき道をひたすら歩いてきたことを、皆が確認したのだとあらためて思う。これまでまちづくりを進めてきた蓄積があったからこそ、迷うことなく地域は本物志向の生き方に立ち返ることができた。被災の中から真実を見つめ、何が大切なのかを、それぞれが問い直した。守り育んでいくべきものは佐原の人々の心であり、暮らしぶりであった。人々は、今自分たちができることとは何かを考え、ただ復旧するのではなく、より精度を高めていくことをめざしてきた。

 佐原は、香取の海を領する香取神宮の神郡であった古代、市(いち)が活発となった中世、さらに近世には、江戸のまちの繁栄とともに「江戸優りの気風」を培ってきた。

 かつて利根川を介して花開いた河港商業都市として佐原は、佐原河岸を基軸に独特の地域経営の思想を確立させた。また、佐原商人が育んだ生活文化は、地域の人々を慮(おもんばか)るリーダーシップと郷土愛に満ちた自治のまちを創りだしてきた。

 佐原の豊かな文化資源は、自治のまち佐原が培ってきた多様な営みの結晶である。3・11後の復興期に戴いたユネスコ無形民俗文化遺産や日本遺産等への登録という冠は、被災した地域が復興へ取り組む活動をひときわ大きく後押しした。

 

 

 

────佐原には素晴らしい祭りと山車とお囃子がある。美しい川が流れている。見事な自治の歴史もある。わたしたちがそれを知っているのは、小森さんを中心にした町の人々がそれらを発掘し、形にし、川や道を美しく整え、日本国中に見せてくれたからだ、と知った。ここにまちおこし」のほんらいがある。経済(経世済民)のほんらいがある。それが本書ではっきり分かった。これからは日本じゅうがそれを学ばねばならない。

                                                                                                  ────田中優子氏 推薦

 

●関谷 昇(佐原アカデミア理事・千葉大学大学院社会科学研究院教授)さんの寄稿

 近代日本を代表する政治家、台湾総督府民政長官や満洲鉄道初代総裁、さらに東京市長などを務めた後藤新平を引用して、

  「……「人間には自治の本能がある」(『自治精神の新生活』藤原書店、74頁)

のであって、自治生活とは、生物学的原理を基礎に置いた自然の営みである(同、90頁)。それは、……生きるために必要な営みのすべてに及ぶものであり、人類生活から自然に生まれた「生活様式の総体」を意味している。それゆえ、この相互のつながりを豊かに維持することが決定的に重要となる。」(同、107–108頁)……。

 自治とは、自己と他者がともに生き、経済活動を営み、相互に助け合い、社会を形成・維持していく総体を意味するものであって、その地域の人々が、その地域に相応しいあり方を模索し、実践する地域の力にほかならない。したがって、近年のまちづくりにおいて頻繁に提唱されている地域の自立、市民の主導、地産地消地域資源の循環、地域の個性化などといったことも、それらを生きたものにしていくには、自治の営みを回復させていくことが必要不可欠なのである。

 その意味では、当該地域の履歴を徹底的に自覚していくところから、自治の営みを再構築する糸口を見つけていくしかないのである。

 佐原のまちづくりは、まさにこの原点探求を地道に実践している稀有な例であり、その牽引役の一人が小森孝一氏である。氏によって導かれてきたまちづくりとは、自分たちのまちに残っているものに眼を向けるところから始まったのであり、その原点に徹底してこだわることによって、まちづくりに必要な力を引き出してきたのであった。

 そこでは、個々人が生きるという点において、個々の取り組みが相互の連携をおのずとつくり出しているのであり、さらに必要とあらば、新たな連携や協力を紡ぎ出していく。まちが生き続けていくために、この空間においてつくり出される発想と実践は欠くことができないものなのである。

 その地域に固有の履歴があり、自分たちはその延長線上に生きているという感覚。小森氏には、この「コミュニティ空間に生きる」という視点が、意識的にも無意識的にも刻み込まれている。その原点探求にこそ、三〇年以上にわたって繰り広げられてきた佐原のまちづくりの真髄があるように思われる。とりわけ、その固有性へのまなざしは、小森氏が佐原とともに生きてきたという実感から導かれている。佐原の栄枯盛衰をわが事のようにとらえる氏の考え方には、このまちで生きてきたという履歴の中で培われてきた場所感覚や身体経験で満ち溢れている。そこで感じられるもの、経験することの一つ一つが、佐原のまちづくりを考える源泉となっている。小森氏にとっての佐原とは、まさにそうした固有の空間であり、まちづくりとは、そこで生かされるものとして理解されているのである。

 今日のまちづくりの中には、自分たちの特殊性を払拭して、多くの人たちに受け入れられるような一般的価値、市場ニーズに適合するような消費的価値、……。量的拡大につながらなければならないという価値観がいまだに蔓延しているからである。しかし、固有のまちづくりにとって重要なのは、むしろ特殊性の方なのである。……。

 この点に注目してみれば、佐原は「小江戸」ではなく「江戸優り」であると考える気概が、実によく理解できるであろう。

 確かに、地域というものは、……中央集権化した秩序においては、地方という従属的なものとして認識されることが多い。まして、疲弊したまちがその置かれた特殊性にこだわり続けることは、実に勇気のいることであったかもしれない。しかし、地域にこだわるということは、むしろ、そうした限定された空間や従属的な位置づけというマイナス評価を一蹴することなのである。小森氏が「何もないところだからこそ、あるものを生かしていくしかない」と繰り返し説いてきたことは、まさにこうした決意を物語っている。「江戸優り」という言葉には、そうした決意とともに、国全体や東京志向からでは見えてこない、徹底したローカリズムの可能性が表されているのである。(本文p.288~p.295)

 

 興味深いことに、佐原のまちづくりには、コミュニティ空間に潜在するさまざまな可能性が、この場所に生きる自分たちの生き方として具現化されているのである。(本文p.294)

 まちづくりの目玉に観光を据える地域は少なくないが、佐原の特色は、コミュニティの時間と空間を共有する人たちによって、そこで生きようとする誇りと気概が育まれているところにある。自然・地域資源・コミュニティ自治のトリアーデが創出するダイナミズムを見事に体現しているということができるであろう。(本文p.304)

 

●佐原アカデミア

 あの大震災を経験して、よくぞここまで来たと私自身も思いますよ。地震のおかげというのは変ですが、東日本大震災以降、若い人たちが佐原を訪れるようになってきて、「何だか、佐原って変なところがあって、おもしろそうだよね」といったイメージがいつしか浸透してきたことは確かですね。まちなかの古民家を活用した宿泊施設ができ、駅前にホテルもできた。つねに何かをしていないとこうした動きも起きてこない。……まちおこしの焦点を歴史や文化に据えたことがうまくいったということですね。でも、率直にいってまだ何かが足りない。これまで努力してやってきたことを無駄にしないためにはもう一度、佐原の内、外のいろんな力を結集する必要があると思っています。結集する必要があるんだけれども、「じゃあ、おらたちにもできるんではないか、やってみようか」と意欲をうながすような流れをつくっていかないといけない。実をいうと、佐原でそういう流れをつくれるのは佐原アカデミアではないかと思っているんです。アカデミアにはぜひ、佐原のまちおこしをもう一段飛躍させる突破口の役を担ってほしいと思っているんです。

 

・佐原アカデミアをつくった趣旨は、大きくいいますと大学や役所、企業などが所有している知識や技術だけがすべてではないだろうというのが出発点ですね。大学、役所などが所有する知識は、どこでも共通するいわば一般的な知、ないしは専門的知だとすると、知識にはもう一つ、地域や人々の暮らしの中で蓄積されてきた経験知や暗黙知があるはずです。そこで双方の知、技術を結合させながら新しい知識や技術を生みだすシステムのようなものが見出せないかというのが基本的な狙いですね。具体的には、佐原のまち全体をキャンパスに見立てて、一つには、佐原の有形無形の歴史文化遺産、暮らしの知恵などを収集して、まちなかに図書館的な機能を埋め込みながら知的な「ひろば」をつくること。もう一つは、そのひろばを活用しながら大学や企業と連携して、人材交流やインターンシップ、さらには共同研究や技術開発のお手伝いをすること。……多様な主体が交差する「協働」の先進地になっていくことをめざしています。

関谷 地域と大学のこれからの関係を考えたとき、私もそういう多角的な関係を構築していく方向がすごく大事になるんじゃないかと思っています。こうした考えは、日本の大学のなかでは新しい試みですが、世界史における大学の成り立ちからみれば、一つの原点につながるものがあります。大学という制度ができたのは、11~12世紀のヨーロッパ中世です。そのときの大学というのは、もともとキャンパスがどこかにあったのではなくて、教師と学生が自治共同体を組んで、出資してくれる地域(都市)を見つけて、そこから学びがはじまったという歴史を持っています。ですから大学の成り立ちとまち(都市)の発展は一体的に融合していたというのが、大学という制度のもともとの出発点だったんです。それが時代を経るにしたがい、まちと大学が切り離されて、建物に囲われるキャンパスに変わっていって現在のような姿になってきたんです。そういう意味では、地域と大学の関係性を問うという方向は、地域に回帰するというか、地域と大学がキャンパスとして再び融合していくことの重要性を、大学の側から見ても実感しますね。これまでの大学の関わり方というのは、産官学連携のような技術開発が中心でした。行政や企業からいろいろ相談や研究依頼を受けて、学内の特に理科系中心の専門家がそこでプロジェクトをつくって技術開発をして、社会にそれを還元していくという、そのパターンがほとんどだったんですね。

 だけど、そうしたパターンの中で決定的に欠けていると思っているのは、地域全体をとらえようとする視

点です。どんな技術や制度も、その地域の履歴を無視して成り立つものではないんです。……地域というものは、実に多面的な特徴をもっているものですし、さまざまな分野や領域が結びついているのが現実だからです。そこに見出されるのは、当該地域に固有の経験知であり、暗黙知なんですよね。だからこそ、文科系を含めた多分野の知見でもって、解き明かされていくことが重要な課題になってくるんです。この経験知と専門知が結びつくところに、新しい知の可能性が見出されるのだと思います。

 佐原という地域において、佐原アカデミアが媒介役になりながら、複数の大学と連携したキャンパス形成がなされていくということは、実に新しい知を切り拓いていく先駆けになっているのかもしれません。学びから実践を生み出していく生きた拠点ですね。まちが生き延びていくために何が必要となるのか、それを多様な主体が立体的に考えていくなんて、かなりおもしろい試みだと思いますね。

椎名 忠敬先生の言葉「地域社会が豊かでなければ個人は決して豊かになれない」。

大矢野 私が発酵を佐原の産業の礎にと言いはじめたのは、実は『土と内臓―微生物がつくる世界』という本(築地書館)があって、これはアメリカの翻訳書なんですが、その本から触発されたんです。土壌の豊かさをつくっているのは微生物で、その微生物の働きによって植物が育ち、人間もその恩恵を受けているわけですが、微生物は人間の腸内にも一〇〇兆も生息しているといわれ、私たちの体内に入った食べ物を栄養物と廃棄物に分解してくれている。微生物の分解する働きが発酵ですね。ということは豊かな土壌を作っているプロセスと、私たちの生命を維持するプロセスは微生物の力でつながりながら循環している。それを媒介しているのが発酵という働きということになる。発酵食は少なくとも八千年の歴史があるといわれていますが、発酵という自然の働きは、人間の暮らしや文化の奥底まで浸透していることがわかります。江戸時代から佐原の基幹産業は酒造りや味醂、醤油だったわけですから、まさに発酵こそが佐原のものづくりの礎になるべきではないかと考えたんです。

椎名 もともと佐原は関東灘といわれ、酒造りをはじめ醤油・味醂・味噌・酢・柿渋・糀・納豆・漬物などが盛んだったまちですから、その歴史を含めて佐原を発酵のまちとして積極的にアピールすることは理にかなっています。最盛期には発酵を生業にしていた人たちは佐原の人口の半分以上だったそうです。

関谷 多角的な知の融合によって、地域における実践を拓いていくことなんです。そのためには地域にある経験知や暗黙知と、学術的な専門知とがもっと応答的に刺激し合うことがあっていいはずです。そうしたなかにこそ、価値づくりに生かしうる新しい知のためのヒントがたくさんあるんですよね。

 現場のない知の集積というのは、やっぱり発展性がないんです。これは確かです。ですから現場に依拠した知や技術開発の意義というのはすごく大事なんです。

 これからのまちづくりが持続可能なものであるためには、自然の資源や自然の論理を無視することはできないんですよね。まちは生き物なのですから、「生きる」メカニズムを解明することが大事ですし、そこで人々が生きることを営んでいくわけですから、「食べる」「住む」「働く」「育てる」「支える」といったことをどのようにつくり出していくかが、基本になるんじゃないかと思います。そこに知を集積していくこと、それが地域と大学が連携する最大の意義なのではないでしょうか。

大矢野 「漁師、山に登る」という話があります。豊かな海をつくるには栄養素をたっぷり含んだ水を育んでくれる森林の存在が不可欠なんだという話ですが、地域に暮らす人々の経験に基づく知には森、川、海を別個の自然ととらえるのではなく、相互の関係のなかで起こる働きを総合的にとらえる目が隠されています。先ほどの関谷さんの言われた、縦割りに細分化された知の体系を再考するきっかけの一つがここにあると思いますが、発酵を新しいものづくりの礎にという考えは、実はこの問題と重なっていて、発酵という自然の働きを根底に据えてものづくりを考えるということは、いわば生命(いのち)の根源に遡及しながら、ものづくりの可能性、さらには社会システムの新しいあり方にチャレンジしようという話でもあるんだろうと思います。

 

 佐原アカデミアがなすべきことは、この原点探求を導いていくことであり、その学びを実践へと結びつけていくことである。そのためには、佐原というコミュニティ空間そのものを学びの場ととらえ、知の集積と実践の拠点をつくり出していくことが必要となる。しかも、このことは、地域と大学との新たな関係づくりという課題にもかかわってくる。地域や社会において役立てられる知識や技術というものは、本来、その地域や社会のあり方を無視して成り立つものではない。各種専門家がまちづくりにかかわるといっても、専門分化している現在においては、もっぱら専門分野別のかかわりに留まってしまうことが大半であり、まちをトータルにとらえようとする発想は実に希薄である。地域側からしても、専門分化した知識や技術は個別の課題解決には役立つであろうが、まち全体の持続可能性を高めていくためには不足する。地域に生きるということは、個別分野の単なる集積ではなく、生きたまちづくりの知恵が必要だからである。これから問われていくまちづくりの根本課題は、この専門分化した状況をリアルなコミュニティ空間を通じて結びつけ、生きたまちづくりを実践していくことである。それは、大学にとっても、地域にとっても、新たな協働の形となるであろう。

 佐原アカデミアは、これらを媒介していく組織である。佐原というコミュニティ空間から創出されるまちづくりを基軸に、大学・民間企業・行政を積極的につないでいくとともに、相互応答的な知の創造を試みていく。それは、佐原というコミュニティ空間が、学びの場であり、新たな知識や技術を生み出していく場になっていくということに他ならない。それは、小森氏の功績を後世につなぐことであり、新たな時代を切り拓く自治のまちづくりの本格的な挑戦なのである。

小森 そうすると佐原らしいものづくりとは何かが問題だね。佐原は農業が主産業ですから、そうした意味でも発酵はキーワードになる。とはいっても、いきなり起死回生になるようなものがすぐできるわけではない。ですから、すぐお金になるものが欲しいというより、潜在的に収益力のあるものを育てて,みんな恩恵を受けるようなもの、それがあれば佐原ももう一段、先に進むことができますよ。今は、みんながその気になるための環境を整えていく時期かなと思うんだよね。それまでは飛騨高山を見習って我慢、忍耐だね(笑)。みんながその気になって、発酵し出すには、やはり我慢して待つことも重要だと思う。

 人が育つには、それなりの時間が必要です。そのためには焦らず待たなければならない。それは私の会社経営の経験からもいえますね。しかし、待つためには信じなければならない。飛騨高山の人が森の力を信じたのと同じで、人間のもっている潜在的な力、能力をどこまで信じることができるか。ここがポイントだね。

小森 まちおこしに関わっていると、必ず忠敬先生に突き当たるんです。壁にぶつかって何が必要かいろいろ思い悩んでいるとき、忠敬先生はこういう風にやっていたよな、こういう風にやらないとまずいよな、と教えてくれるんです。もちろん、その全部を実現することはできませんが、少しでもそこに近づきたい。その想いはずっと変わっていません。(本文p.265~p.286)

 

 

 

 

 

小森孝一が語る 佐原の山車祭りとまちおこしの35年 (2023年刊)

 話者:小森孝一 編著:大矢野 修    (特定非営利活動法人 佐原アカデミア)

ISBN: 978-4-86209-089-8
[A5判並装]本文320p 21.0cm
定価=本体2273円+税

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