

黄霊芝著 台湾俳句歳時記
異国の日本語俳句
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与那国島から100キロほどの海のかなたに、台湾はある。北回帰線が横切る台湾は亜熱帯性気候の土地。夏は長く冬は短い。夏はねっとりとした熱気が肌にまとわりつくような気候だ。それは四季をもつ日本本土の季節感覚とはことなった世界といえる。
その台湾が日本語に包まれた時代があった。日清戦争の戦後処理として、清朝との下関条約のよる割譲にもとづき日本の統治下にはいった1895年から、太平洋戦争が終結する1945年までの50年間、台湾では日本語化教育が強制され、人々は母国語をうしなった。
それは文字どおり「母親の舌を切られる」ようなおもいであったろう。ことばを強制的に変更させられるという悲劇はわたしたちの想像を超えているが、その時代に生を受け、育った人たちは日本語を母国語とせざるを得なかった。父母は台湾語を話していたのにその子供は日本語をつかう、といった奇妙な言葉の乖離があったはずだろう。それでもこの期間に生まれ育った若者たちにとって、日本語が母語となっていった。言葉は思考そのものの規準となる道具である。じぶんや世界をとらえ客観的に整理していくツールとしての言語は、ものをかんがえ、理解し咀嚼しようとするとき、もっとも基本的な手段となる。50年間にわたって日本語を話し、書きつづけさせられれば、しぜんと日本語で世界を見つめ、かんがえていくようになる。その時代にそだち日本語の音と文字に慣れ親しんだ人々にとって1945年(民国34年)になって中国語を母国語とさせられたあとでも、日本語は変えることなく言語習慣としてつかわれ、公的に日本語の使用が差し止められた台湾において、日本語で考え、世界を見つめ続けたひとびとがいたのである。
この歳時記の著者、黄霊芝もそのひとりであった。

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かれがえらんだのは、俳句というきわめて日本的な表現方法であった。そこに至る道のりは平坦なものではなかった。
1945年以降、日本語を禁じられたかれは、文盲であり唖となったという。若き日に小説家を志していたかれにとって、言葉が喉につかえ発話できないようなもどかしさ、書き言葉をうしなう体験は、表現手段の喪失であると同時に、アイデンティティーの危機でもあった。禁じられた言葉を携えてたどり着いたのは、日本語による新聞『軍民導報』の文芸欄であり、そこへの投稿に希望の灯を見いだし、台湾において日本語で書き、考える道をえらんだ。
時を経た1970年、第三回アジアペンクラブの会議が台北でおこなわれた折、団長として来台した川端康成らから「台湾にも俳句の会が欲しい」といわれたことを機に、「俳句会」が結成された。この日本語俳句の会が発足された1970年代の台湾では、国民党による戒厳令が施行され続けており、その発足自体が身の危険さえ賭しての事業であった。そのような困難のなかで日本語をもちいて文芸をつくりあげ、みずからのことばを探し求め、俳句にたどりつき、それを台湾の風土において成長させていく。かれの後半生は日本語との格闘にあった。その成果がこの歳時記にまとめ上げられている。
俳句では5・7・5、17音の、みじかい一文のなかに意味をあつめ凝縮していく、俳句という、石庭のような凝縮された抽象性にも似た表現を、とおい台湾でつくるひとびとがいる。日本らしさであり、日本という国に固有な詩の形式であると考えがちな俳句が、海のかなたの異郷で活きている。この歳時記を手に取るとき、その驚きに満ちた発見をすることとなる。
俳句には季語を使うというルールがある。現代風に言えば、ことばによる「縛り」を設けることで、その制約をゲームのように操るのが俳句である。季語というお題があって、その単語の意味と響きに耳を傾け、おもいを巡らしながら17音にまとめあげていく。西洋の韻を踏む詩もまたそうであるように、それは詩であると同時に、17音のメロディでもある。いや、詩はそもそも音楽であったのだ。西洋のそれほど厳格ではないものの、俳句もまた聲になってひろがるときは音楽に近いようにおもう。この歳時記を開くたびに、わたしは、海の向こうから日本語による俳句という音楽が聴こえてくるような、不思議な感覚になる。
季節の移ろいを言葉によって示す季語というしくみは、ほんらい日本の四季と密接にかかわっている。四季のたおやかな流れのなかにある日本列島の、多彩な景色や習慣を込めた季語自体が、この国の自然のなかで暮らす人の生きざまをもしめしている。季語が四季でわけられているのをみてもそれとわかる。
しかし台湾は亜熱帯で日本の四季とは異なる世界だ。この歳時記で季語は、暖かい・暑い・涼しい・寒い、の四つの「頃」によって分類されている。おそらくはその変化も日本のそれとはちがっているのだろう。使われる季語も日本のそれとは異なる。台湾の人々にとってなじみ深い行事や神々、祭祀がつぎつぎと取り入れられている。それらはどれも、はじめて聞くものばかり。草木の名前にしても、聞いたことのないものが多い。

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一つ挙げてみよう。査某雨(ツァーボォフォ)とは女の雨の意。雨水から啓蟄のあいだの春雷ののち、ながく降り続く雨を指す、という。しとしとと降るそのさまが、婦人の泣くに似てそう呼ばれる。雨で屋外に出るのもためらわれ、慈雨のなか人々は家にいて止むのを待つ。強い湿気のなか萌えいでる草木にたまる雨粒や、霧のむこうにみえる山野がおもい描ける独特の季語であろうか。
月来香(グエライヒョン)、かつて李香蘭の歌にもあったメキシコ原産の球根植物。名のとおり、夕刻から花開き朝方しぼむ。その香りは人を陶酔させる。季語になるといよいよ艶めかしさを思い起こさせるようで、艶と情にまつわる俳句が多い。根を持たず植物に寄生して繁茂する、ねなしかづら。寄生根をのばして養分を吸い取り黄金色の幕のように育つ。南国の陽ざしの下自在に伸びてゆくさまは、台湾ならではの植物なのだろう。
行事や祭祀にまつわる季語も多い。送神(ソンシン)は年末に神を天に送る風習のことで、とくに竈神を天へと見送る。竈に司命壮君と書かれた紅い紙を貼り、お供えをする。摸春牛(モウツングウ)は泥塑の牛をもちいた迎春の儀式のこと。この牛をなでるとさまざまなご利益があるという。人々は無病息災・子孫繁栄を祈り、牛を撫でる。儒教思想が根付いている台湾らしいのが、孔子祭。季語ともなる華やかな祭りは9月28日に執り行われる。孔子廟は人々でにぎわう。仏教や道教、儒教など多様な宗教が信仰されている台湾では、民間信仰も盛んで、様々な行事が執り行われる。孔子祭も季語に取り入れられ、秋の訪れを告げる。
このような季語は、はじめて聞くものばかりだが、それを取り入れた俳句は、市井の人々の生活や信仰を浮かび上がらせていて興味深い。ここ台湾でも人は暮らし、生活しているのである。日々の営みのなかで、人は些事にも心動かされ、わらい、あるいは嘆息をもらす。小確幸を見いだし、それをうたった俳句のなんとおおいことか。時として苦難もあり、あるいは小さな幸せを実感する。そうして日々を生きていく。そんな台湾の人々の景色は日本人の心情ともなんら変わらず、わたしのこころを共振させてくれる。


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収録されている数百におよぶカラー図版を頼りに、台湾の一年に想いを馳せてみるのもいい。極彩色の祠や街のようす。祭りに登場するどこかユーモラスな民間の神々のすがた。お菓子や供物。みずみずしい果物や野菜、それらは南国らしい異国の風を感じさせて興味尽きない。それを俳句という、日本的な形式のなかにおとしこんだとき、無限のイメージが広がってくるのが感じられる。そこに違和感はなく海をへだてているかの国との距離もまた消えていくようである。
2025年、「台湾俳句会」は創立55周年を迎えた。戦後の奔流にも押し流されず、長い歳月を経てなお存続してこられたのは、そのともしびの中心にあった黄霊芝の暖かく剛いこころざしがあったからだろう。ひとりの意志が波紋のようにひろがり、俳句を人生の友とするひとびととふれあい共振していった物語も、この歳時記を支えている。
かつて日本語を公用語とした50年間、台湾では台湾語や中国語その他さまざまな言葉がきこえていたであろう。日本語教育を課された若者は日本語を、台湾語や中国語を話す年配者もいて、多言語的な様相を呈していたことと想像される。その背景には驟雨や雷、鳥や動物の鳴き声、市街を行く車の音といった「世界の音」が控えていた。そのような音の世界で成長した著者にとっては、日本語の音はなじみ深い言葉であると同時に、思考のよりどころとなる言語であった。
思惟を手繰り寄せ言葉にまとめあげる者にとって、日本古来の俳句という表現方法を選び、創作のよすがとしていったのも当然であったとおもう。17音のメロディのなかに人と世界の営みをとらえ、記し残していく行為は、ひとつの音楽をつくるのにも似ている。この歳時記を読むとき、日本語でつまびかれる台湾の人々のひそやかなささやきが、海を越えて聴こえてくるような、そんな感慨にとらわれるのである。
了


◎杜青春さんのブログにて「台湾俳句会創立55周年記念句会」の様子が報告されています。
台北俳句会創立55周年記念句会 – 杜青春川柳Blog (2025.7)

台湾俳句歳時記
黄 霊芝 コウ レイシ【著】
ISBN: 4905913888
[A5判並製]325p
(2003‐04‐15出版)
定価=本体2800円+税














