〜ことばのくさむら〜

言叢社の公式ブログです

みちの会 第11回研究会のお知らせ

●第11回研究会

講演者:橋本 彩(東京造形大学)


タイトル:「ラオス競漕祭における伝統とスポーツの関係
  ――ヴィエンチャン競漕祭の歴史的変遷から」



日時:2019年6月29日(土)13:00開講。3時間から4時間ほど。質問・討議を含めて。
会場 :東方学会本館2F会議室(千代田区西神田2-4-1、東方学会本館)
会費:500円



 

概要ラオスメコン川流域では、毎年雨季明けを告げる出安居祭の翌日に競漕祭が行われている。水の神にかかわる、この民俗宗教的年中行事である競漕祭の研究は、主に19世紀後半から20世紀にかけて民俗学者文化人類学者によって、祭礼の由来や機能的意味、神話・伝説との連続性、宗教性、象徴性などを明らかにする個別研究が行なわれてきた。しかしながら、21世紀に入ると当該地域では行事が継続されているにも関わらず、競漕祭は本来の儀礼的文脈を失ってスポーツ化したものとみなされ、文化人類学者の研究対象から外される傾向にあった。一方、スポーツ人類学研究の分野では伝統的スポーツとしての競漕祭に対する関心が高まり、「伝統」と「スポーツ」を対立軸に据えた歴史的変容を論じる研究がなされるようになっていった。しかしそこでは、当該地域の人々が「伝統」と「スポーツ」を自文化において主体的にどう規定していくのかについては論じられることなく、競漕祭をはじめ、伝統的スポーツ研究の多くは、西洋で成立した近代スポーツに照らし合わせて伝統的スポーツを解釈するコロニアルな二項対立的視点を脱せず、当該地域の人々の文化問題として論じる視点が欠けていた。
 博士論文では、ラオスの首都ヴィエンチャン競漕祭を事例に、その歴史(1893年~2008年)を文献と現地フィールドワークで得た調査結果を総合して再構成し、その歴史の延長上に生じた競漕祭をめぐる伝統論争(2000年の前後)について当該地域の人々の視点から分析し、「伝統」の取り扱いをラオスの近代化に伴う文化問題として論じている。

新刊案内:青木啓将著『現代日本刀の生成』物質性をめぐる人類学的研究

●「文化人類学」の新刊がでました。
明治・大正から昭和戦前へ、「日本刀」は「軍刀」として造られた歴史をもち、戦後は伝統工芸文化の一つとして、制作の伝統が続いてきました。本書は、近現代の日本刀の制作が、いかに時代の政治・文化情況に影響されながら生成・展開したか、その価値とは何かを文化人類学の視点から精細に描いた力作です。

 

現代日本刀の生成
―物質性をめぐる人類学的研究

青木啓将 アオキヒロユキ著

 

・ISBNコード 978-4-86209-073-7 C3039
・A五判上製・456p 
・定価=本体6400円+税

 

●著者略歴 
1979年岐阜県に生まれる。中京大学大学院社会学研究科社会学専攻修士課程を経て、名古屋大学大学院文学研究科人文学専攻博士課程後期課程満期退学。名古屋大学大学院文学研究科博士研究員、早稲田大学人間科学学術院助手。本書論文により、名古屋大学から博士(文学)の学位を取得。2017年1月 逝去(享年38歳)。
●本書は、その早世を惜しむ指導教授、先輩、同僚、友人の支援によって本となりました。著者に代わって謝意を表します。

 

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www.kinokuniya.co.jp

『赤ちゃんはできる! 幸せの排泄コミュニケーション 「おむつに頼りすぎない育児」という選択』

★生活と保育シリーズ・4冊目
・赤ちゃんの生命のきまり(品切れ改定中)
・赤ちゃんからはじまる便秘問題 
・生殖へのカレンダー
・赤ちゃんはできる! 幸せの排泄コミュニケーション

新刊・好評発売中
●和田智代 わだ ともよ著  おむつなし育児研究所所長
『赤ちゃんはできる! 幸せの排泄コミュニケーション
「おむつに頼り過ぎない育児」という選択』
★推薦・汐見稔幸氏、寄稿・三砂ちづる
ISBN 978-4-86209-071-3 C2047
定価=本体1600円+税

 

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懐かしい未来の子育て」
・今の日本社会の中で生きづらさを抱える私たちが、もう少し希望と喜びを持って生きるための、大きなヒントがあるんだよという真実を、「おむつに頼りすぎない育児」を実践した母親・父親・赤ちゃんたちが教えてくれました。
・社会性は、社会生活の中で少しずつ育つ。「気持ち良くオシッコ・ウンチしたい」という快便(尿)の基本的な欲求を、察知して対応する保育者に出会うことで、成長してから他者の気持を察知できる力、豊かに想像できる力が、赤ちゃんの中に育っていくのです。
・私たちが失ってきた「いのちを自分の力で守り育てる」という知恵と技を取り戻しながら、必要な時には、高度に進化した「専門のヒトやモノに助けてもらう」という、バランスのとれた未来の子育てを目指したい。それはきっと、とても豊かで温かい、古いけれど新しい、「懐かしい未来の子育て」と呼べるもののような気がしてなりません。
(本文「はじめに」より)

  

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今井書店

 

 

1. 宮本浩子さん・助産
 生後間もない時期から、子どもの自然で気持ち良い排泄に、親がなるべく応えてあげるという、ただそれだけの、すごくシンプルなことの積み重ねなのです。なるべくおむつの外で気持ち良い排泄をさせてあげようとアンテナを立てていると、子どもの排泄行動の変化がすごくよくわかってきて、それによって、排泄行動だけじゃない、子どもの成長や心身の変化にも気づけるようになっていく。すると、大人が何かすごく頑張らなくても、必要な時にちょっとだけサポートすれば、子どもは自分で成長していってくれるのです。
(本文136p.より)

 

2. 石田友子さん・保健師
保健師として伝えたい大切なこと
 今の時代、子育てに関して色々な情報が溢れていて、自分の子のために何をしてあげたらよいのか迷うことも多々あると思います。そんな時にぜひ思い出してほしいのが、まずは、生きていく上で大切な「寝ること」「食べること」「出すこと」がちゃんとできているかということです。これらがしっかりできていてこそ、健康で過ごすことができ、健康であるからこそ、自分らしく充実した生活が送れます。特に小さなお子さんは、この基本ができていないと、体調やご機嫌、やる気などに表れてきます。そしてそれは、子育てのしやすさにまで影響してきます。
 ところが、「寝る・食べる・出す」は当たり前過ぎて、つい後回しになってしまう。特に「出す」つまり排泄は、生まれて間もない頃や離乳食の時期を過ぎると、徐々に意識されなくなっていきます。しかし、オシッコやウンチは「体からのお便り」「健康のバロメーター」で、体調や精神状態を知る手がかりになります。実際にウンチやオシッコを見ながら、体のことを話してあげられる機会は、乳幼児を過ぎるとなかなかない。オマルやトイレでしたウンチやオシッコを親子で見ると、子どもに対して身体のことや健康のことを話す機会が自然に生まれます。
 そういう経験をして育ったうちの子どもたちは、お陰さまで「自分の排泄物を見る」という習慣が自然にできて、「オシッコがいつもより黄色い!」「今日は“いいバナナウンチ”が出た」「硬い“コロコロウンチ”。お野菜が足りなかったかなあ?」など話してくれ、時に的を得たコメントに驚かされ、表現の豊かさに感心しています。子ども自身も、自分の排泄物から自分の身体の状態を理解できるようになっていくんですね。
 やがてそれは「早寝、早起き、朝ごはん、朝ウンチ」という良い習慣となって、毎日の生活を快適で楽しく過ごすための土台となったり、大人になってからの健康づくりにもつながっていく気がします。排泄に寄り添うということは、オムツをはずすということだけでなく、「生涯にわたる健康づくり」という意味でもとても意義深いです。
 だからこれから親になる人には、赤ちゃんが本来持って生まれてきている「おむつの外という開放空間で排泄する能力」の事実を伝えたい。実際にやるかどうかは別としても、おむつなし育児は知っているだけでも十分価値のあることです。
 最近では、「お母さんが楽にできるように」という「育児負担の軽減」が優先され、その結果、三歳児健診でおむつが外れていなくても問題視されることなく、それどころか、健診で紙おむつの試供品が渡されることすらあります。私は自分の子どもたちとの経験を通じて、本当にそれが、「お母さんの負担を軽く、楽にしていること」なのかなと、疑問に思うようになりました。
 今の「子育ての常識」みたいなものをちょっと脇に置いて、例えば「排泄」に寄り添って自分の子どもの育ちをよく見ることで、自分と子どもにとってのベストな「育児の方法」が見つかっていくのではないかと思います。(本文193p.より)

 

3. 堤恵子さん・元幼稚園教諭

●おむつなし育児を通じて学んだこと
 おむつなし育児を通じて娘の排泄に寄り添ったことで、赤ちゃんは大人の思いをよく理解していて、赤ちゃんの方にも「こうしたい」という意思がちゃんとあることを学びました。赤ちゃんの目線で気持ちを理解して対応していくと、お世話する大人の気持ちも楽になっていくのです。大切なことは赤ちゃんが教えてくれるんだとわかっていく。
 それから私は、おむつなし育児を通じて、「子どもの成長を待つ」という子育ての力を、すごく鍛えてもらった気がします。例えば、オマルに座るのを拒否されたり、夜の布団に漏らされたりが続くと、「この状況は、いつ終わるんだろうか?」という不安で一杯になりがちです。でも赤ちゃんを信じて、赤ちゃんの「本当はこうしたい」という気持ちに寄り添って対応して、そして「待つ」ことをしていれば、状況は成長と共に良い方向へと変わっていくんです。今では娘の成長や変化を楽しみに待てるようになりました。
 今の時代は、「なるべく手抜きをする育児」「なるべく楽にやる育児」が良いと言われます。そういう視点から見ると、「おむつなし育児」は手のかかる育児かもしれません。でも、子どもにすごく手をかけるというのは、生後二年間くらいのこの時期だけ。三歳ころになって幼稚園等に入ると、子どもは親から離れて自分の世界を作っていく。その前の最初の二年間くらいを丁寧に関わることで、その後の子育てって、実はすごくらくで楽しくなっていくことを実感しました。
 もう一つ、おむつなし育児に出会ってよかったことは、今もおむつをあまり使わないで子育てをしている、「カオハガン島」に出会えたことです。娘が満二歳なった良いタイミングで、私は娘と二人で島へ行くことができました。日本以外の国や地域の子育てを知る機会を得られて本当によかったです。私が日本でマンションの高層階に住んで子育てしていたころは、家の中に娘と二人でいるのがなんとなく息苦しかったのですが、カオハガン島へ行ってみて、その理由がわかりました。自分が本当にしたい子育てや生き方と、今の自分の状況がすごく違っていたからだったのです。島へ行って以来、「自分がしたい子育てや生き方を、素直に目指していけばいいんだ」と、さらっと思えるようになりました。カオハガン島の男性と結婚して島で暮らしている二人の日本人女性の、自分の気持ちに素直な自由な生き方からも、「自分がその生き方がいいと思えば、そのように生きていいんだ」という勇気をもらいました。
 まもなく四歳になる娘は、家に小さい赤ちゃんが遊びに来ると、頼まれなくてもオマルを持ってきてくれたり、同年代の友達が床でオシッコをしたときも、雑巾で拭いている私の横で「着替えようね~」とサッと着替えを手伝ってくれたりします。自分の排泄を大人に受け入れてもらう経験をした子どもは、ほかの人の排泄も受け入れてあげられるのだと実感しています。私自身も我が子の排泄に限らず、どの子どもの排泄も「すっきり出て気持ちよかったね!」と受け止められるようになりました。
 このおむつなし育児を通じて、育児で悩んだり困ったりしたら、周囲に素直に助けを求めていけばいいんだということも学びました。そして悩みごとを気軽に話せる仲間を作ろうと、子育てサークルを立ち上げました。おむつなし育児にしても、「やってみたけど、上手くできない」のような状態が続いてしまうと苦しくなっちゃうのですが、私は相談できる人が周囲にいてすごく助けられので。子育て中の親同士が、わが子以外の子どもの排泄を温かく受け止めてあげられる関係は本当に気持ちよくて、心から信頼できる仲間になっています。
 思えば、娘が生後間もないころにおむつなし育児と出会い、おむつに頼りすぎることをやめてから、自分の考え方や生き方がどんどん自由になって、どんどん世界が広がりました。(本文238p.より)

  

第1回目・読者の手紙

●y.a.さんより。
 子どもがいない年配の人も、若い人も、その人が、なんでこんなに生きることが大変でやりきれないのかなって困っている人に読んでほしい。
・213ページ 「自分の気持ちを親に想像してもらってそだてられた娘は、機嫌よくしていることが多い。ぐずったりすることが少ない。」
 ここを読んだとき、苦しくて、ぐずぐすぐずっている「わたし」がそうだよ、お母さんはわたしの気持ちにぜんぜん少しも関心を持ってくれなかった! 共感してくれたことなかった!と思った。機嫌よくしてないわたしを母は責めるだけでした。
 おまえは生まれつきおかしい!。
・269ページ 「私の中で眠っていた「内なる自然」にきづくようになると、自分の中に静寂がひろがっていくのを感じます。」
 トイレ問題で、また他のことでも、わが子に惨いことをしてしまって、そのことはわかって苦しんでいる人たちも読んでくださるといいな、とおもいます。「静寂がひろがっていく」のを感じるきっかけをつかめると思うから。
 こんな凄い本をつくってくださり、ありがとうございます!!

 

 

「渡辺公三さんをしのぶ会」のご報告

 

 
 
●「渡辺公三さんをしのぶ会」(東京)  2018年9月30日pm.2時~6時。於・東方学会本館会議室
 
 2017年12月15日の深夜から16日にかわるころ、文化人類学者・渡辺公三氏は68歳で亡くなられた。食道癌にはじまる転移癌が急速にからだを痛めつけ、死に至った。
 急逝だったため、12月8日のご親族での葬儀が、平安女学院の聖アグネス教会でおこなわれた。その同じ場所で、前年娘の舞さんが父の手に導かれ、婚姻の誓いをされたのだという。
 奉職されていた立命館大学の学園葬は、3月3日雛祭りの日に行われた。
 いずれも京都でおこなわれたので、東京でも渡辺氏をしのぶ機会がほしいとの声が少なからずありました。
 言叢社では、生前から約束していながら、はからずも遺著になってしまった論文集『身体・歴史・人類学III 批判的人類学のために』を本年9月初旬にようやく刊行。この刊行を終えたことで、「しのぶ会」を東京でも開く態勢が整いました。

 2018年9月30日、言叢社事務所のある西神田・東方学会本館2階の会議室で、ささやかな集いが開催された。当日は、夕刻から大型台風が東京を襲うとの予報が入るなか、午後2時から集いがおこなわれ、帰途、電車が止まるとの情報が報じられるなかで、参加者のほぼ全員の方々の言葉をいただく集いとなりました。
 この集いには、渡辺公三さんの仲立ちをえて2011年の秋、東日本大震災原発事故のあった福島に入り飯舘村の避難先・飯野町南相馬市を訪問して演奏をおこなった、シリアの盲目の演奏家ムスタファ・サイードさんとKyの仲野麻紀さんによる追悼演奏も加わりました。
 また、ご家族からの贈りものや、カフェ・バッハさんによるコーヒー、参加者の方々によるさまざまな協力をいただきました(ここにみなさまの支援を深く感謝いたします)。
 以下は、参加者のみなさまの発言(加筆をふくむ)、あるいは新たな書き直しをえた発言を、「しのぶ会」当日の進行に沿って、公開させていただきます(●第1部)。また渡辺さんが亡くなった15日前後を「公三さんの追悼月」として、台風のためやむなく参加できなかった方々や友人・知人の方々の追悼文を、掲載させていただきたいとおもいます。(●第2部)
 

 
★参加された方々

渡辺憲二さん(渡辺公三さんのお兄さん)
石田智恵さん(渡辺先生の教え子、研究者、文化人類学早稲田大学専任講師)
大村敬一さん(研究者、文化人類学放送大学教授)
小沼直晴さん(画家)
加藤種男さん(もとアサヒビール、東大アフリカ研究会・同級生)
金澤幸雄さん(もと岩波ホール劇場支配人)
金子遊さん(映像作家、批評家、フォークロア研究)台風のため不参加
川崎瑞穂さん(研究者、民族音楽学神戸大学所属、日本学術振興会特別研究員PD)
木村秀雄さん(研究者、文化人類学東京大学名誉教授)
蔵持不三也さん(研究者、文化人類学早稲田大学名誉教授)
越川洋一さん(成城美術研究所主宰)
小林しおりさん(装丁家、遺著となった新刊の装丁をしていただいた)
小林康夫さん(研究者、哲学・表象文化論東京大学名誉教授)
近藤 宏さん(渡辺先生の教え子、研究者、文化人類学立命館大学生存学研究センター専門研究員)
塩澤珠江さん(ギャラリー・季の風ときのかぜ主宰)
嶋内博恵さん(研究者、文化人類学武蔵大学教授)
佐久間寛さん(研究者、文化人類学、アジア・アフリカ言語文化研究所/助教
鈴木泰代さん(精神科医
武 秀樹さん(編集者、週刊読書人せりか書房を経てフリー)
田中 基さん(縄文学・諏訪学研究者、もと『どるめん』主宰)
鶴岡真弓さん(ケルト美術研究者・多摩美術大学芸術人類学研究所長・教授)
中里俊生さん(東大アフリカ研究会・同級生、パリ時代の友人)
福田素子さん(翻訳者・『神話論理』の共訳者)
真島一郎さん(研究者、文化人類学東京外国語大学大学院教授)
三浦庸子さん(ヴィジュアルフォークロア・プロデューサー)
村山和之さん(研究者、文化人類学和光大学講師)
守田省吾さん(みすず書房社長)
森山 工さん(研究者、文化人類学東京大学大学院教授)台風のため不参加
柳田千尋さん(研究者、渡辺さんのお弟子さん)
佐藤=ロスベアグ・ナナさん(教え子)台風のため不参加

★京都から渡辺舞さん(渡辺公三さんの長女)
 エジプトからムスタファ・サイッドさん、
 フランスからKy(仲野麻紀さん、相棒のヤン・ピタールさんは病気のため緊急帰国)

★スタッフ
 進行役・世話人 松井 純(平凡社編集者)、
 世話人 島 亨(言叢社)、五十嵐芳子(言叢社)
 

 

 
おじちゃん・・・
  
 
●第一部


・この会を開いた理由
 
進行・松井純さん:メールで訃報に接したとき、まったく信じることができず、なにかの間違い、いや悪い冗談かと思いました。一月半くらい前に講談社三賞のパーティで顔を合わせたばかりでしたので(ご同僚の方の化学賞受賞祝いに出席されていました)。お聞きしたところでは、お亡くなりになる一週間前まで学校の仕事をこなしていらしたそうです。
 京都丸太町上がった平安女学院・聖アグネス教会で近親の方々の葬儀が執り行われ、また、今年の三月三日桃の節句に京都駅上のホテル・グランヴィアで「渡辺公三先生を偲ぶ会」が学校法人立命館主催でひらかれました。前者はお身内だけの家族葬でありましたし、後者は学園葬的なセレモニー色がつよいものでした。また、場所はいずれも京都でありました。そのせいもあってか、故人の(とくに東京圏在住の)友人・知人の方々から、まだお別れができていないといった声が多々寄せられ、このたび東京でささやかながら「しのぶ会」を開く運びとなりました。
台風が接近しており、夕刻には東京直撃の予報が出ているにもかかわらず、渡辺さんの公私にわたるさまざまな方面から二八人の方々にご出席いただいております。お互いに初対面という方々も少なくないかとは思いますが、公三さんがお引き合わせくだすった縁でありますので、今後も大事にしていきたいと思います。
あまりにも突然の別離で、お別れできずじまいのままの中途半端な気持を少しでも解消していただけたなら幸いです。
 本日は、みなさんに公三さんとの思い出話などを一言お話ししていただきます。トップバッターを指名させていただき、あとは前言に続く恰好で自然にお話しいただければと思います。
 ちなみに、受付でお渡ししました袋の中の京菓子「しぼり豆」ですが、これはご家族からの贈物です。公三さんは手土産を欠かさないひとでした。ご一緒したモース研究会でも同様で、蕎麦ボーロが多かったことを憶えています。
では、最初に小林康夫さんお願いいたします。
 
小林康夫さん:いま、いただいたかれの新刊書の最後の年譜を見ていたのですが、わたしは、かれと同じ1968年に東京大学に入学しました。かれは文科1類、わたしは理科1類で接点はありませんから、からならずしも同級生というわけではありません。わたしは理系から文系に転換するのに2年留年していましたが、そのあいだにかれは教養学科のフランス科へ進学していて、わたしがその同じフランス科に進学するのが2年後、後輩になったわけですが、しかしそのときかれはもうすでに第1回目のフランス留学をしていましたから、顔を合わせてはいない。当時、学部時代に海外留学するというのはたいへんなことでした。かれはあっさりクリアーしてます。すごいですね。
 すみません、かれのことは、Kozoと呼ばせていただきますが、それでは、Kozoとの接点ができたのはいつかというと、それは、わたしがはじめてパリに行った1977年でした。ポンピドゥーセンターのオープンに合わせてひと月ばかりパリに行ったのです。はじめてのパリ、憧れのパリ。そのとき、共通の友人の紹介で、Kozoのアヴニュー・ジャン=ジョレス4番地のアパルトマンに泊めてもらったのです。27歳だったか、とうとうパリに来た、わたしの人生のなかでももっとも感動的な瞬間です。オルリー空港に着いて、メトロを乗り継いで、スーツケースを引きずりながら石畳の広場を横切って、4番地はパン屋さんがあって、その横の小さな扉をあけると焼きたてのバゲットの香りに満ちているんです。その螺旋階段を登って、たしか6階だったか、かれのアパルトマンに着いた。そう、Kozoはわたしにとってはパリという世界の扉をあけてくれたコンシェルジュみたいな人なのです。ちょうど大きくあいたフランス式窓の向こうはメトロの高架線が走っていて、さらにルドゥーの建てた円形の建築物も見える、あるいは廊下の端の狭い共同トイレ、白い壁、Kozoがつくってくれたサラダ、細かなディテールまで覚えています。Kozoはたしかいつもチョッキを着てたな。Kozoは奥の窓のない小部屋でいつも勉強していて、わたしのほうは窓際にマットを敷いてそこで寝てたかな。別にあちこち案内してくるというわけではなく、わたしは勝手にパリを歩きまわり、そして夜になるとそのアパルトマンで質素な夕食をいっしょにする。そんな感じかな。いや、最後には、かれといっしょに、ルイス=ブニュエルの映画『欲望のあいまいな対象』にエキストラとして出演したりもしましたけどね。なんと贅沢なパリの春だったでしょう。わたしにとってのパリがそこで姿を現したのです。パリへの入り方として、これ以上のものはない。ホテル住まいではなくて、かれのアパルトマンを根拠地にして出歩くことができた。バゲットの香りが漂う階段をとおってパリの街に降りていき、そこからまた帰ってくる。いまでも深い感謝です。翌年、わたしもようやく留学生としてパリに来ることができて、Kozoから多くの人を紹介してもらって、いっしょにパーティをしたり、交流が続くのですが、いまだに、あのわたしの「はじめてのパリ」のあの時間こそが一生、残りつづける忘れ難い瞬間なのです。Kozoがそこにいてくれた。
 Kozoの仕事をふりかえると、日本、フランス、そしてアフリカがあります。つまり三点測量ですね、文化人類学者としては当然ですが、かれの論文はアフリカのことが主題ですから、あまりパリについては書いたものがないのですが、わたしは、Kozoの個人的人生にとっては、パリの存在はきわめて大きかったと思いますね。フランス、とりわけパリはかれの魂のなかの中心でもあったのではないかな、と。Kozoとわたしはパリの同志なんですね。
 かれが国立音楽大学で教えていた頃は、Kozoさんの娘の舞さんと、わたしの娘が同じ歳でもあって、家族ぐるみのつきあいもあったのですが、京都の立命館へと移られてからは、おたがい大学業務も忙しくて、会う機会も少なくなりました。いまとなっては遅いのですが、残念です。
 かれは文化人類学、わたしは哲学、表象文化論と専門は分かれましたが、でも、ひとつ共通の問題意識として「身体」ということがあったと思います。わたしはアートを中心にして「身体」論を展開していましたが、Kozoの文化人類学的視点からの「身体」論とは重なり、交錯するところがあったはずで、その問題を討論する場をもっともうければよかったといまはちょっと悔いが残ります。
 人間としては、Kozoさんは、自分の気持ちを簡単にはオープンにしないところがありましたね。どこか秘めてかためているところがある。純情とも言えます、一途ですね。思い詰めるところがある。ため息ついたりして。心に秘められた情熱がある。ときに苦しい時もあったんじゃないか、と思うんですけど。一つのことをひたすら追っかけていくところがあった。
 立命館大学では、さまざまな役職をはたしていたようですが、昔の友人としては、そういうアドミニストレーションって、そんなにむいてないんじゃないかなあーと思うところもありました。
 あの時代のフランスの文化を共有した同志として、もう一人東大の同級では、岩佐鉄男という友人がいたんですが、かれも去年、亡くなってしまいました。同じ時代に「パリ」を生きた同志がもういない。生命を削ってでもフランスに行くというのは、もうわたし一人になってさみしいです。そういう気持ちをこめて、今日は話させてもらいました。
 

 

 
 
武秀樹さん:渡辺さんに初めてお会いしたのは、だいぶ昔のことになりますが、ギンズブルグというイタリアの歴史家が来日して、和光大学で講演を行ったときでした。どなたかが紹介してくださってお話をしたのが最初です。渡辺さんはまだ国立音大にいらっしゃった頃だと思います。それ以降、ぼくは書評紙の編集をやっていたので、書評の執筆をお願いしたりしていました。京都に移られてからは、お会いすることはなくなりましたが、何年か前、ジャズサックス奏者仲野麻紀さんのライブ会場でたまたまお会いして、立ち話をする機会がありました。そのときはそれほど突っ込んだお話はできなかったのですが、以降も、仲野さんのライブ会場で話をする機会が何度かありました。
 渡辺さんとぼくは生まれ年が一緒で、同じ時代を別々にですが共に生きてきたことになります。そのことからくる共感のようなものがぼくにはあって、とくに1970年前後に大学時代を過ごした世代として、いずれはその頃の話をしてみたいとずっと思っていました。その願いはもう叶わなくなってしまったわけで、すごく残念に思っています。機会があれば、渡辺さんと会話をするような気持で、渡辺さんが遺したお仕事を読み直してみたいと思っています。
 

 
 
鶴岡真弓さん::渡辺公三さんの御遺影に向かい、京都の大学でのかつての同僚として、3つほどの思い出、印象のことを纏め話させていただこうと思います。
まず公三さんが携えていらしたアフリカ色の「生涯の鞄」のことです。
公三さんが学ばれたパリから45分ぐらい西へ飛ぶとアイルランドという国があり、アイルランド人の父をもつラフカディオ・ハーン明治23年40歳で来日)は帰化して小泉八雲となり、日本怪談の名作「耳なり芳一」や「ろくろ首」を英語で書いて西洋の大向こうの読者に、死と生の交流をテーマとした説話を送り続け書き続けました。が、そのハーンは放浪のなかで肌身離さず携えてたのが箱形の鞄で、それが近年北海道でみつかったという報道がありました。八雲は日本に落ち着くまで、母親のギリシア、父のアイルランドイングランド北部、ロンドンをさまよい、移民船に乗ってアメリカへと大西洋を越え、南部のニューオリンズで記者となり、さらに極東の日本・横浜そして松江へ……と世界を歩いたひとでした。世界を放浪する歴史として、ユダヤ系の人たちは「ディアスポラ」、ケルト系の人たちは「エグザイル」で知られますが、エグザイルを「積極的な自己追放」と訳した私はこの言葉を大事にしてきました。ハーンはいつも重たそうにその鞄に豊かで未解決の何物かが詰まっているというように、握りしめて歩いていた。ハーンのトレードマークであり印刷物にもよく登場するイメージです。それを渡辺公三さん追悼のここ、思い出の東京西神田の東方学会会館2階の研究会の部屋で鮮やかに思い出されたのです。
公三さんはハーンにも増していつも大切に上質な「アフリカ色」の皮鞄を持ち歩かれていました。同僚として過ごさせていただいた立命館大学の会議室でも、東京の出版社ででも、そこに着くとまず鞄を、独特の「吐息」をつきながら置かれていた。吐息から話しをはじめるのです。鞄は主人に生き物が寄り添うようにいつも足元にありました。公三さんが探究する「アフリカの砂漠」が夕陽を受けるような色で、時の重ねで厚みを増し、膨らみつづける、彼の宝物でいっぱいの不思議な鞄だと、私は思いました。
1996年から10年間立命館大学の最初同じ文学部で一緒に仕事をしました。思い出されるのは彼の「気息」のことです。初代の表象領域の学科長になられ、教授会では非常に緊張感がある佇まいを発揮され副学長にのぼられた。だれもがマルチな複雑な身体としての貌をもっていると思いますが、公三さんはとてもシリアスであり「ため息の人」でしたが、それはなにかの開始する、ないし開示する、つまりは「微笑みを用意する気息」をもつひとでした。
きょう祭壇のお写真を拝見してびっくりしました。このお顔はいつも息を一回止めて発話しようとする直前の、最も珍しい微笑みを表している肖像だからです。鞄を置くときや持ちあげるときに発する彼には「気息=プネウマ」の回し方というのがたぶんあった。荷物を、問いを、「いったん鞄を置くように置く」儀式から、彼が現われる。「最初の息」がそこで吐かれる。リアルな言い方ですが、最後にはき出した公三さんの最期のプネウマも、ほかの誰にもない、彼らしい「吸」、いや「呼」を残してしていったと思えるのです。
その側かたわらにアフリカの色、明るい飴色の鞄がいつもあった。砂漠に夕陽が当たっている色でした。きょうここでワインで頬を染めたような、最高の笑みの肖像と対面させて頂くとは……。深い哀悼と感謝の念に堪えません。
われわれは残党として、ハーンにも増して世界を駆け巡ったアフリカの鞄を持って歩むその後姿を追って、少しでも渡辺公三さんの偉業に近づけるように努めねばなりません。遺された者はふつう「天国から見守ってください」というのですけれど、私たちは彼とこれからまた「一緒に」探究の旅をつづけてゆくのだと思います。
※「第6回、河合隼雄学芸賞受賞。『ケルト再生の思想―ハロウィンからの生命循環』 鶴岡真弓 著(ちくま新書)」
 
 
 

 
 
三浦庸子さん:わたしたちは、民俗学的ドキュメンタリー映像を製作している会社なのですが、1989年から1992年、田中基さんを編集長に迎え、第3次『DOLMEN』を言叢社さんにお世話になり発行していました。
 その第一号に公三先生の翻訳原稿「やきもち焼きの土器づくり」(レヴィ=ストロース
をいただいたり、ということで、存じ上げておりました。
 個人的には2年前の正月、神楽坂の赤城神社の神楽殿で、仲野麻紀さん(とヤン・ピターさんのKy)のコンサート会場で、アフリカ・ブルキナファソの葬送儀礼の楽士をしておられるムッサ・ヘマさんが参加されていて、現地の葬送儀礼の貴重な記録を自分で撮影したものをもってきていらしていたので拝見しました。わたしたちは、中身についていろいろわからないことなど質問したのですが、突然その場でぶしつけにも渡辺さんに通訳をお願いしました。疲れていらしたのが気になったのですが、快く引き受けてくださって有難かったです。その時のたいせつな映像記録と報告をまとめて、昨年の「日本映像民俗学の会」で発表上映させていただきました。 
 ただ、それが最後になってしまいました。
 突然なくなられたとお聞きしてショックでした。
 手元に渡辺先生の本を沢山集めておりますが、あらためて手繰って、勉強させていただきたいと思っております。
 
補遺 公三さんのためいき
 もう公三さんの「ためいき」は、伝説化しているのかもしれませんが、わたしたちも知り合ってはじめて遊びにみえた公三氏といろいろな話をしていて、しばしその話の合間に「はぁー」というためいきがはいるのを発見しました。かさなってくると、「えっ、話がおもしろくないのかな」と心配になってきます。変なひとだなあとおもいつつ、ひとまず夕飯時になったので、白山通りの当時はやりの小さな中華店「北京亭」にさそいました。店にはいってしばし、「ボクはお腹がすくと、ためいきでるんです」と、おっしゃる。「ああ、そうか」と合点。「フィールドにでて、現地の村でボクがためいきをつくと村の人もおなじように「はぁー」とつくんです」。やがて村の人々に「はぁー」というため息がひろがっていった、そうだ。「ため息」は文化だったのね。客人が持ち込んだ挨拶のような、わたしたちもあなたの「はぁー」を大事に共有しますよ、あるいは、公三氏が発する「はぁー」の心的・存在的身体感情を瞬時に察知したのかもしれない。「はぁー」は、村人のあいだでは、なんという言葉でつたえられたのだろうか。
 鶴岡さんは、公三氏の吐息を「プネウマ」とおっしゃったが、お腹がすいてくると裸になってくる精神の居場所がはっきりしてくる、ともいえるのか、とりわけ若い心にとっては。最近のわれわれ言叢社連の状態は、ただひたすら朦朧としてくるのだけれど。
 公三さんは腹がすいて、悲しかったのだろうか。
 
  ひたすらに異神をおいてゆくときに あとふりかえれわがおもう人
そんな歌を唱つたのは空腹なときだつた。
……日没間もない静かなときだつた。わたしは空腹になると不思議に純粋な心になつてくる。それはわたし並みの納得のゆく理由によるのだが、それを云つても仕方があるまい。(吉本隆明初期詩集「異神」より)
 
 
ここで、休憩 コーヒータイム
※すみません。〈この休憩後と次の休憩の間〉、録音がぬけました。
この間の方たちにお願いして、原稿をかいていただきました。恐縮でした。
 
 
石田智恵さん:渡辺先生には初めてお会いした大学院入学時の2007年4月から2013年3月に博士号を取得するまで指導教員としてご指導いただきました。博士課程終了後も3年間はポスドク研究員として立命館に籍を置いていたので時おり渡辺先生にお会いする機会があり、亡くなるまで10年以上のお付き合いになりました。渡辺先生に出会わなければ今まで研究を続けていなかったかもしれないと思うほど、先生に教わったことは私にとって決定的でした。
先生は人間社会における同一性という問題の現れを、当初はフィールドワークを通じてアフリカ社会に、後には人類学史をたどりながら西洋近代市民社会に見出し常に問い続けてこられましたが、私の研究上の問いは、先生のこの関心と議論に触れて、はっきりと形をとっていきました。
2017年4月に就職して東京に移ってからはお会いする機会はなくなりましたが、その2年ほど前から、先生の退職記念論文集『異貌の同時代』の編集事務を(先輩の冨田敬大さんと)やらせてもらうことになり、その作業が進むにつれて密に連絡をとるようになりました。最後にご一緒したこの作業を通じて、博論を書いていた頃までとは違う関係が先生との間に生じたように思います。それまでは教わるばかり、追いつける気がしないまま背中を追うばかりでしたが、編集事務(とくにその終盤)では同じ作業に携わる者としてやりとりを重ね、先生と対立する意見を提示したこともありました。それが不和や軋轢に発展せず、編者同士の率直な議論になり得たのは、先生が私たちの意思を尊重してくださり、その上で先生もご意思もまっすぐに示されたから、私たちを院生としてではなく元院生の共同作業者として扱ってくださったからだと思います。論集は「渡辺公三編」となる予定だったところを、冨田さん、私を含めた3人の共編とすることを強く提案してくださったのは渡辺先生でした。
亡くなる5か月前の7月末、論文集の執筆者でもある大学院の先輩方が編者の慰労会として企画してくれた夕食会が、最後にお会いした日になりました。小さなフレンチのお店を貸切って、同僚の先生や教え子たちとの会話を楽しむ先生の、リラックスした柔らかい表情を記憶しています。
 訃報を受け取ったとき、渡辺先生と死が結びつく実感のないまま、先生から送られたメールを直近から遡って読みました。去年の4月下旬、論集の編者の仕事が全て終わりあとは出版社に委ねるのみとなったときに、出版社(以文社)の担当者お二人と私たち共編者宛てに送られたメールが目に留まりました。決して順調ではなかった時期も含めてそれまでを振り返ったご自身の感慨とお礼のことばが綴られていましたが、末尾は「この四半世紀、楽しく過ごしてきました。ほんとうに有難うございました」と結ばれていました。「楽しく過ごしてきました」という一言は、最初に読んだときとは違って見えました。このことばは、メールを受け取った私たちだけに向けられたものではないように今は感じています。
 

 
 
塩澤珠江さん
渡辺公三さま。
いつでもお会いできる、京都に行けばいつでもお会いできる、と安心していました。なぜ、そう思っていたのか、なんの確証もないことを、安心しきっていました。
 2008年だったか、「旅する音楽」というKyのライブを「新宿ゴールデン街劇場」で開こう! ということになり、ゴールデン街のヌシのような「しの」のカウンターで、打ち合わせと称して飲みましたね。ママは私の大学時代の親友で、キャパ50人の小さな劇場を紹介してくれました。1ドリンクつきライブなので、酒屋も紹介してもらいました。
まだ東京に住んでいらっしゃった公三さんでしたが、はじめて「しの」にお連れしたとき、「フーン、学者か、難しいことはよう分からんけど、ま、よろしく」と、彼女の接客ともいえぬ挨拶に楽しそうでした。
 「Kyの応援団」として、集客数を毎晩メールで報告しあい「団長! あと少しで満席になります!」というやり取りを思い出します。おかげでライブは満席、立ち見も出ましたね。
 ある晩、「しの」で飲みながら、なぜか河原崎長十郎の話になりました。たまたま私の父親が舞台美術家で、長十郎の「屈原」の装置をした、という話をしたところ「あ、僕、長十郎がなぜ前進座を除名になったのか、とても知りたいんです」とほろ酔いだった公三さんが真顔になったので、少なからずびっくりしました。なぜ知りたいのだろう? 人類学と関係があるのかな~? と思いつつ「もう少し調べておきます」と答えましたが、その宿題を提出しないまま、京都に越されてしまいました。次回、お目にかかる時に提出しよう……、と。
 次回は無い、などとは考えてもいませんでした。
 2016年、京都白川の梅棹マヤオさんが主宰されているギャラリー「ロンドクレアント」の空間がとても素敵だったので、ここでKyを聴きたいなーと咄嗟に思い、マヤオさんと仲野麻紀さんを引き合わせ、翌年実現しましたが、私は都合が悪く行けませんでした。2018年10月、2回目のライブにでかけましたが、公三さんの姿はなく、父上そのままの優しい眼差しを持ったお嬢さんの舞さんにお目にかかりましたよ。
 渡辺先生、宿題、いつか携えて伺いますね。私は研究者ではないので、先生が納得される内容かどうかは分かりません。もっと深く調べて出直してくるように、とおっしゃるかもしれませんが、何度でも出直しますので、待っていてくださいね。
 ではまた。                      
                                         2018年初冬 塩澤珠江 拝
 

 
 
蔵持不三也さん
哀悼
 一陣のつむじ風があまりにも足早に去っていった・・・。身構える間もなかった。後に残ったのは、その風影の鋭さと重さだけだった。
 畏友渡辺公三。初めてこの英才と出会ったのはパリ。彼がパリ第7大学に学んでいた頃だった。胡乱なことだが、邂逅の仔細は記憶にない。あるのはエゴン・シーレのような風貌と訥々とした口調のみ。むろんどのような話をしたかも覚えていない。だが、1980年代、私が関一敏氏(九州大学名誉教授)や陣内秀信(法政大学名誉教授)らと立ち上げた「みちの会」に当初から参加してくれ、その卓抜した洞察力と視野を存分に開陳してくれた。立命館大学に移ってからは会う機会も激減した。やがて要職につき、想像もできなかった行政手腕を発揮した。そのことが間違いなく心身を蝕むからと速やかな離任をと、上洛の都度繰り返し忠告したが、学問同様、徹底的に対象にこだわる氏の生きざまにとって、おそらくそれは遠すぎる声だった。今はただ哀惜の灯をかざしながら、無情の領野に風影の行方を追うしかないのか。合掌。
 

 
 
越川洋一さん
 渡辺公三先生と初めてお会いしたのは、直江津での仲野麻紀さんのコンサートでした。以降先生と会うときはいつも、音楽が聴こえる場所でした。先生が音楽を聴くとき、それは嬉しそうで、子供のような瞳が輝いていたのを覚えています。音楽と共にあることが、先生にとってはおそらく、特別な時間を生きることであったのではなかったかと感じます。 
 レヴィ=ストロースの『神話論理』の冒頭に、神話と音楽は似ている。と書かれています。神話を音楽の生成として記述したレヴィ=ストロースとともに歩んだ先生は、音楽を聞くこと自体が神話的な時間を体験することであったのではないか、ともおもいます。 
 音楽が奏でられるとき、時が再生産されてゆくように、純粋な瞳で音楽を聴いていた先生の思想は、先生の著作を読むとき、また新たによみがえり、わたしたちの現前で語りかけてくれるのだとおもいます。本日はどうもありがとうございました。
 

 
 
金澤幸雄さん:渡辺先生の想い出
 2008年に行なわれた新宿ゴールデン街劇場の「Kyコンサート」の準備を、先生を団長に、スタッフ全員でがんばった。あのころのことが、鮮明に脳裏に残っています。
 全員が一丸となって、興行を無事大成功で乗り切った。その夜の打ち上げ会の席上で、「金澤さん、興行ってすごいね」と私にささやかれました。私は「Kyのお二人のこの上ない演奏と、聞いてくださったお客さま、そしてその橋渡しをさせていただいた私たちスタッフが一つとなった、豊かな空間となりましたね」と申し上げると、先生はだまってうなずいて下さいました。そしてほんとうにやさしく、澄みきった少年のような眼差しをされておられました。私は、先生といっしょにやって、ほんとうによかった、と今でも忘れられない想い出となっています。
 公三先生、いつかまた、お会いした時に、すばらしい興行を、もう一度ご一緒にいたしましょう。ほんとうにありがとうございました。 
 

 
 
献杯
 
 
守田省吾さん:渡辺さんとレヴィ=ストロースみすず書房
 
 渡辺公三さんとは、2016年2月に刊行したレヴィ=ストロース『大山猫の物語』の翻訳をご一緒させていただいたのが、最後の仕事になってしまいました。その後も、レヴィ=ストロースの青年期の著作や『構造人類学Ⅱ』の翻訳のことなど、今後の出版計画について電話で相談を受けていましたから、急逝の知らせを目にしたときには、いったい何が起こったのか、すぐに事態が呑み込めなかった感覚が今も残っています。
 渡辺さんと私どもみすず書房とのお付き合いは長く、1980年代後半から始まりました。最初はレヴィ=ストロース『やきもち焼きの土器つくり』(1990年刊行)の翻訳出版で、この本を企画した編集者の栗山雅子が渡辺さんに翻訳を依頼したのが、きっかけでした。渡辺さんのことは栗山からときどき聞いていましたが、僕もすでに渡辺さんが30代はじめに翻訳されたジョルジュ・バランディエの『舞台の上の権力――政治のドラマトゥルギー』を読んでいたり、「古事記研究」などで有名な西郷信綱さんの読書会に渡辺さんが参加されていると耳にしていて、優秀な若手研究者が出てきたことに注目していました。そのころ直接お会いしたことがあったかどうかは記憶が定かでありませんが、その後『司法的同一性の誕生――市民社会における個体識別と登録』に結実する論文が送られてきて、「耳は一人一人違うんだ」と僕に語られていたから、お会いしていたのでしょう。
 ちなみに、『司法的同一性の誕生』のお仕事はとても重要で、渡辺さんにはその方向の研究をもっと深めてほしいと願っていました。心身ともにとんでもないエネルギーを費やす立命館大学のさまざまなプロジェクトに関わることはいい加減にやめて、研究に集中してもらいたいものだと希望していましたが、実のところ、彼はそのような学内仕事も好きだったというか、積極的にやりたかったことだったのでしょう。2016年に僕も関与してみすず書房から刊行した高野麻子『指紋と近代――移動する身体の管理と統治の技法』を渡辺さんにお送りして書評をお願いしたのも、そのような思いもこめた、僕からのメッセージのつもりでした。
 みすず書房からは2001年にルイ・デュモン『ホモ・ヒエラルキクス――カースト体系とその意味』を栗山の編集担当で刊行させていただいたり、最初に書いた『大山猫の物語』の翻訳をお願いするなど、陰に陽に渡辺さんにはお世話になっていましたが、なんと言っても渡辺さんとのお仕事でいちばん大きかったのは、レヴィ=ストロース神話論理』(全4巻・5冊)の刊行でした。
 『神話論理』の翻訳プロジェクトは1970年代に始まっていて、刊行に至るまでにはさまざまな小ドラマがありますが、ここでは触れません。この大著の刊行が現実味を帯びてきたとき、全体の調整と複数の翻訳チームのとりまとめ役のお一人というか中心人物に渡辺さんになっていただきました。さらに『神話論理Ⅲ 食卓作法の起源』『神話論理Ⅳ-2 裸の人2』の翻訳と解説もお願いしました。このプロジェクトには最終的に石神純子が編集担当者として尽力しました。
 『神話論理』のように質量ともに難易度の高い企画をとりまとめるというのは、大変なことです。南米北米の先住民の人類学的知見についての詳細にはじまり、哲学や数学などへの理解、抽象的で圧縮的に書かれたフランス語読解、日本語としての読みやすさまで、それぞれの訳者がそれぞれの専門を通して一家言があるため、その調整にあたるというのは、一筋縄ではいきません。何が正しいかだけでなく、各訳者への配慮も、ときに必要になってきます。
 ひとつエピソードを申し上げます。僕自身は『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』と『神話論理Ⅱ 蜜から灰へ』の編集を担当しましたが、当該訳者と渡辺さんの調整がうまくゆかず、『蜜から灰へ』の訳文検討のために、名古屋在住の訳者のもとへ、渡辺さんは京都から、僕は東京から出向いて、午後3時頃から夜遅くまで顔を突き合わせて意見交換をしたことがあります。お二人の意見を僕が行司役になってというかたちでしたが、ゲラと原書とそれぞれの顔を伺いながらのしんどい仕事でした。作業をひととおり終え、帰りの新幹線の最終便に乗るべく小走りで名古屋駅に向かいましたが、別れぎわ、渡辺さんが「僕はおみやげを買っていくから」と、閉店近くのガランとしたみやげ店に入って行かれたのには驚きました。お疲れだったはずなのに、ご家族思いの渡辺さんのやさしさというか、心の余裕の一端を見た思いでした。
 このように、今から思い返すと、あっ、こういうこともあった、とあれこれ記憶が蘇ってきますが、このあたりでとどめておきたいと思います。
 ありがたいことに、渡辺さんと私どもとの仕事は、本という、かたちに残るものですから、これからも渡辺さんと一緒につくった本を見るたびに、過去の思い出とともに、新たな渡辺さんの姿や声や思いが生まれてくることでしょう。渡辺さんをご存じの皆さまにとっても、それは同じことだと思います。
ご冥福をお祈りいたします。
 

 
 
ここで、休憩 コーヒータイム
 

 
 
仲野麻紀さん:公三先生とムスタファ
 2010年、インターナショナル・ウード・トリオとして初来日したムスタファの演奏を、公三先生が立命館大学の国際平和ミュージアムに迎えてくださいました。
 その所以は彼自身の出生と関係があります。彼がなぜ盲目であるか、それは彼のご両親がシナイ半島に滞在中、第四次中東戦争のさなかイスラエルによる爆撃にあいました。それは劣化ウラン弾だったのです。その後、被爆したご両親から生まれたムスタファは、お兄さんともども盲人となりました。
 平和ミュージアムでは毎年国際報道写真展が行われています。そういった経緯で、大学機関でアラブを知る、紛争の歴史を知るといった内容でムスタファのレクチャーコンサートが行われました。
 翌年2011年2月エジプトでは、アラブの春といわれた革命がおこりました。彼はレバノンに住んでいたのですが、革命の原点といわれたエジプト・タハリール広場で、目の見えないなか、ウードを演奏。案の定、彼も爆撃の流れ弾を腕にうけるのですが、後遺症は残りませんでした。その1か月後、3月11日、「福島原発事故」が起こりました。その日は彼の誕生日でもありました。すぐ私に電話がきました。とにかくボクは自費でいくから、福島で演奏をしたい、と。デリケートな問題が沢山あるなかで、公三先生に相談しました。そして公三先生と言叢社の方々が動いてくださり、ほんとうに沢山の方が思いをかなえてくださった。9月、飯舘村が全村避難されていた飯野町での演奏となりました。南相馬でもしました。
今回は違った意味で来日したのですが、あした彼は旅立ちます。彼の演奏を公三先生に捧げたいと思います。
 きいてください。
 
★献楽
1,ムスタファ・サイッドさん:献曲 (ウード) 
  ♪タキシム(アラビア語で「improvisation」の意)
2,ムスタファ・サイッド (ウード)+ 仲野麻紀 (メタルクラリネット) ♪Bleue (Yann Pittard 作曲)  
  この曲は、公三さんが生前、聞くたびに「ボクの葬送の曲」といっていらしたそうだ。
 
 
・補遺 福島公演の経過とお世話になった方々の報告。
 渡辺さんからムスタファが福島にはいりたいといっているという連絡がはいり、どうしたものかと思案しているところへ、ちょうど、わたしたちがお世話になっている福島・陽光社印刷・東京事務所の丹治一治さんが、震災事故後の本社の回復状況の報告にみえていた。
 この3月11日、陽光社は印刷機が壁にめり込み、もうこれでこの印刷業もおしまいかと思うほどの惨事だったようです。
 丹治さんは「そういえば」といっておもいついてくれたのが、飯館町が全村避難で拠点をうつした飯野町に彼の実家があり、母上の敬子さんが町の「五大院の祭り」の世話人代表の一人であることを思い出してくれた。「よし、そこでやらせてもらおう」。それからの公三さんは早かった。車を手配し、知り合いでアフリカンアートの輸入業をされている小川さん、その知り合いでやはり輸入業を営む友岡さんの猪苗代の別荘にとめてもらうことをきめて、皆で現地にはいった。丹治敬子さんは町でも顔役の母上で、公三さんは京菓子を準備してくれ、お願いにうかがった。
 南相馬は、東京のコミュニティシネマの岩崎ゆう子さんの知り合いで朝日座を管理する小畑さんに連絡していただき、南相馬市原町にある銘醸館で公演が決まった。
 福島公演来訪当日には文化人類学者の西谷修さんが加わり、けれど公三さんは学校がいそがしく、不参加。
 最初に飯野町でおこなった演奏会は、毎月28日に行われる「までい祭り」初日、みなさんのもちこんでいただいた天ぷらやおひたしやお握りに飯舘の方たちも集まられ、にぎわしく、独特なムスタファの楽圏に聞き入ってもらった。
 次の南相馬市原町での公演前、皆で相馬の海岸へむかった。海岸へ入る手前の道で車をとめ、皆は早々に車からおり、津波にひっくりかえされた浜辺の波うちのその際まで、行ってみなければすまない感じで歩き出したが、ムスタファは車でまっているという。ぶつぶつつぶやいている。
 その夕刻からはじまった、ムスタファの音はものすごいものだった。謳う声のはるかにかさなっていくボリュームに、鳥肌がたった。
 ライブというのはこういうことか、と啞然。
 あとできいたことだが、あの相馬の海岸は、タハリール広場で感じたのとおなじにおいがした、という。
 かんがえてみると、公三さんは、何かいつもお膳だてすることが好きで、現場でせっせと蜘蛛の巣払いをしていることが、「ぼくきらいじゃないんです」といっていたのをおもいだす。
 ムスタファのこの演奏は、公三さんにきかせたかった。
 
猪苗代湖渡辺公三
 
までいコンサート
 

 津波に襲われた南相馬市原町の海岸。ムスタファは無声の叫びを聴いて、車から出られなかった。
 
 
 
川崎瑞穂さん:ムスタファさんの素晴らしい音楽のあとなので、話すのがむつかしいのですが……。私は「音楽学」という分野で日本の民俗音楽の研究をしています。
 じつは、渡辺先生と会ったのは、たった1回でした。でもそのたった1回が私にとっては、とてつもなく貴重な体験になりました。  
 それは2016年2月、博士論文の口頭試問の日でした。私は国立音楽大学の博士課程を修了したのですけれども、先生が国立音大に勤められていたという縁もあり、私の論文の外部審査を引き受けてくださいました。制度上、外部審査員が誰になるのかわからなかったので、私が知ったのは、その面接室の扉を開けたその瞬間だったんです。私はレヴィ=ストロースの理論をもって民俗芸能の音楽を研究することを目標にしてきましたので、もちろん渡辺先生のことは本で知っておりました。博士課程のときにパリ第4大学(ソルボンヌ大学)に留学したときには、渡辺先生の本を何冊もたずさえて渡仏しました。向こうでもいろいろ読んだのですけれど、まさかその人が、その論文審査でこられるとは、思ってもみなかった。あーどうしよう、と思ったのが正直なところなんですけれど。
 そのとき先生が最初にいってくださったことは、「あなたの論文の読後感は、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の読後感に似ている」という言葉でした。レヴィ=ストロースが大好きで、ずっと研究してきた私にとっては、最大のほめ言葉で、それ以外も色々ご指摘いただいたのですけれど、その言葉の印象が強すぎたので、いますぐに思い出せないです。
 その後、博士論文を科研費で出版することになって、謝辞にどうしても先生のその感想の言葉を入れたい、とおもいましたが、私の記憶が誤っているといけないので、ゲラを添付したメールを去年の11月24日に送りました。その日のうちに返信が来ました。今日そのメールを印刷してもってきましたので、読んでみたいと思います。
 

 
2017年11月24日(金) 14時19分
川崎瑞穂様
ご無沙汰しています。
出版助成の採択と間近な出版、たいへんおめでとうございます。そうした形で学術的なご貢献が認められたこと何よりすばらしいことと思います。
また、私の年来の友人である島さんや五十嵐さんとも交友いただきありがとうございます。
単にご研究の最後に審査員として接したに過ぎない私に、あとがきにて過分なお言葉を記していただき恐縮です。心より感謝申し上げます。
来年からは学振PDで神戸大学ご着任とのこと、関西圏で比較的近くなるのでまたさまざまな機会に面白いことができればと思います。
何か興味深い催しなどありましたらお知らせください、ちょっと気が早いですが。
お知らせありがとうございます!
渡辺公三・拝
 

 
 これが最後のやりとりになってしまったのですが、私にとっては、とても貴重な1通になりました。

 拙著は今年の2月に刊行されたのですが、校正中に先生が亡くなられたので、「あとがき」にそのことは何も書くことができませんでした。「あとがき」には、論文審査の時にいただいたご指摘には、これからの研究で答えていくつもりであると書きました。
 まずは今日いただいた遺作になったこの本を熟読するところから始めたいと思います。
 

 
 
近藤宏さん:ボクは渡辺先生が初代研究課長というかたちで、創設からかかわられた大学院で、先生に指導いただきました。ボクが入学したとき、ちょうど先生はパリに在外研究に出発され、レヴィ=ストロースの『神話論理』の翻訳が始まるときでした。ボクはレヴィ=ストロースを研究したいと思っていたところだったので、先生がすごく力をいれているタイミングで、ワクワクしたのを覚えています。それに比べると、しばらくしてからは、校務の比重が少しずつ大きくなっていかれたという印象を思い出します。
そんな時、一度電話をもらったことがあったのですが、ちょっと疲れた感じでお願いをされました。「この本を図書館からとってきてくれないか」というそれだけのことでしたが、ボクとしてはおどろきでした。というのは、渡辺先生という人は自分にきびしく律する人なのだと思っていて、自分に必要なものはちゃんと整えてする人だというイメージをもっていたからです。なので「そうしないときもあるんだ」と、驚きました。そのあと、電話口で深いため息をついていらしゃいました。さきほどの田中さんの話で思い出したのですが。そのため息のあとに「いつまでたっても歳の差ってかわんないんですよ」とボソッと言われたんです。その件は別の人に頼まれたことだったようですが、ご自身はお忙しく自分でできないことについて申し訳なさそうな様子でした。ただ、そうした話を聞くと、頼まれたことそのものに嫌な感じはありませんでした。「この人にもこういうことがあるのか」と、考えれば当然のことなのですが、渡辺先生にも先輩や年上の人からいろいろ頼まれごとをしてきた時代があったんだなということを、初めて実感しました。自分は先生のことをよく知らないんだと感じました。
今日、ほんとに色々、昔からおつきあいされた人たちの話を聞いて、ボクの知らない先生の顔についての話を聞くことができ、あらためて、渡辺先生がどういう人だったのかを知らなかったのだな、と感じました。
 ボクが最後にお会いする機会になったのが、去年7月、「退職記念論集」の編者の方々や研究課院生の学生たちに対して、慰労するという食事会の時でした。その前後に少しメールをやりとりすることがあったのですが、その中で「来年から、レヴィ=ストロースとフランスの現代思想との関係について、研究会をやろうとおもっているんですよ」と言われていました。レヴィ=ストロースについて、そういうかたちで何かを考えようとされていることにも驚きました。「若い人も集めて何かやりたい」ということだったので、先ほどの川崎さんの話に神戸に来られるということこともあり、何かの機会をつくれるかと、ひょっとしたら考えていらしたのか、とふと思いました。いろんな人を引き合わせながら、研究も、いろんなこともやられてきた方なんだということを今回知ることができて、すごくよかった、と思いました。自分にきびしい人だったけれど、みならっていきたいと思っています。
 

 
 
佐久間寛さん東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所で、文化人類学を勉強しております。渡辺先生に直接おしえていただいた経験はありませんが、研究会をご一緒させていただきました。わたしは、もともと経済学をやっていたのですが、博士課程から文化人類学を始めました。最初にテキストとして提示されたのが、渡辺先生が翻訳されたデュモンの『社会人類学の二つの理論』と渡辺先生の著書『レヴィ=ストロース・構造』でした。私は、渡辺先生のご著書・翻訳書を通じて人類学を勉強したわけです。研究会でお話する機会があったとき、私にとってはあこがれの先生でしたから、それはそれは緊張しました。その後も何度か研究会をご一緒したのですが、残念なことに最後まで、緊張したままでした。ちゃんとした話、ましてや文化人類学の議論はできませんでした。そのことが、いま大変悔やまれています。
 渡辺先生に対して持っている印象があります。それはすごく静かで、けどはげしくて、それで面白い方だったな、という印象です。静かというのは、話し方で、さきほども「ためいき」のことがでましたが、静かにたんたんとお話をされる、けれどそのお話の一言一言が大変はげしくて、それこそ言葉の選択ひとつひとつが、それまでの理論を覆すような緊張感に充ちていた。私が人類学を勉強しはじめたころは、ポスト構造主義、ポトモダンという流れがまだまだ強くて、既存のものをぶっ壊そうという空気があったときでしたが、壊しただけのあとで、空虚さがのこる時代でもあった、とおもうのです。でも渡辺先生の話では、激しさのあとに、必ず発見があって、面白さがあった。
 たとえば、文献学者といわれるマルセル・モースが、フィールドをもっていた。モースにとってのフィールドとは、彼がコミットした「協同組合」に他ならなかった、というお話です。ほんとうに面白く、感動的でさえある話でした。ここでいう面白さというのは、先生にはお茶目というかユーモラスなところがあって、その意味を含めた面白さです。
 今、いただいた本をぱらぱらめくっていましたら、「あー、ボクの知ってる渡辺先生だ」というところがありまして、80ページに同一性の問題で、パスポートの話がでてきます。パスポートには、「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助をあたえられるよう、関係の諸官に要請する」という文言がある。この「保護」によって日本国民は身体に課される規律と表裏一体化するのだ。そうした静かな文体でありながら、鮮烈なことを述べられた文章です。この引用箇所には註があるのですが、その註になにがあるのかをみてみると、「各自のパスポートをご参照ください」と書いてある。こんな面白い発表はどこでなされたか、とみると、韓国の大学での講演原稿とされています。ということは、講演の会場にはおそらく日本からの参加者が大勢居たと思うのですが、その方々は、まさにその会場にパスポートを持ってきていたはずなんですね。だからすぐにこの「引用文献」を参照することが可能だったわけです。このように、鋭利な論考といたずら心が同居しているところが、まさに私が思う渡辺先生の印象とぴったりでした。先生がここにいるなあ、と感じました。
 
 先ほど舞さんの話をきいて、思うところがありました。
 最後に舞さんの腕の中でみとっていただけて、きっと先生は幸せだった……、と思います。
 

 
 
大村敬一さん文化人類学を勉強してきましたが、ボクの世代にとっては、渡辺先生といえば、偉大な人、でした。直接じっくりお話をしたことはなく、言叢社に遊びに伺ったときにたまたま公三さんがいらしていて、なんどかお会いして、という感じでした。言叢社が公三さん公三さんとおっしゃるもので、なまいきにもボクもいつのまにか公三さんといっていました。じつは最初に公三さんにお会いしたのは、早稲田大学の院生のころでした。イヌイット研究者のスチュアート先生のところへ公三さんが単身いらして、たまたまスチュアート先生をお待ちいただいたときに、ちらばっている考古学研究室で、いろいろお話をさせてもらいました。「所有」のことでイヌイットのことを聞きたいんだ、ということでした。もう覚えていないんじゃないかとおもいますが。
 その後ボクは言叢社で、ボアズの翻訳を16年もかかってやったのですが、その間、レヴィ=ストロースのこと、アフリカ関係のことを公三さんの本から学びました。
 ボクは大阪大学だったものですから、北極へ出かける際に伊丹空港の国内線にのろうとしていたら、うしろから「大村さん、大村さん」というから、「あァ、どうも」という感じで、成田にいって、公三さんはパリへボクは北極に行くのに少し時間があり、一緒に蕎麦を食べました。
 最後に、じつはレヴィ=ストロースのことで、メールのやりとりをしました。それは「神話の方程式」の中に「-1」と書いてあるんですが、これはどういう風に解釈したらいいですか、とたずねました。ラカン派の精神分析とからめて、公三さん、かいていたんです、ちらっと。ボクはそれは重要な問題だと思ったので、いろいろ教えていただこうと思ってメールのやりとりしてたんですが、なかなか時間が合わなくてお会いすることができなかった。結局、今度副学長をおやめになると時間がある、と思って待っていたんですが、こうなってしまって。昨年は非常にショックを受けて、これからどうしようと思うくらいでした。
 公三さんの遺志をついで、研究会など何かやるということがもしあれば、私もぜひ参加させていただきたい。これからほんとに、いっぱい教えてもらおうと思っていた先生だった。
 

 
 
福田素子さん言叢社の翻訳を何冊かさせていただきました。そのご縁で渡辺さんにご紹介いただき、『神話論理』をお訳しになっているときに、お手伝いすることになりました。
 けっこう長い期間のやりとりでしたが、実際にお目にかかったのは最初の頃の打ち合わせだけで、その後は、メールとか、校正の書き込みというかたちで、ずっとつづいていきました。先生とのお仕事は非常に楽しかったです。難しい仕事でしたが、様々なことを教えていただいたり、自分でも関連する本を読みあさったりすることによって素晴らしい経験をさせていただきました。何もかも先生の存在あってのことで、感謝の気持ちでいっぱいです。その気持ちを亡き先生に一言申し上げたくて、今日、参加いたしました。
 

 
 
村山和之さん:2回しかお会いしたことがないのです。一回は立命館大学で講演会があって、スピーカーの一人としてよんでいただいて、打ち上げの食事会で言葉をかわしたぐらいでした。言叢社にくれば、公三さんの話はいっぱいきいていたので、勝手にイメージをつくりあげていたんですね。
 次にお会いしたのは、いまは無き浅草奥山の温泉で行われた、「しの祭り」の大宴会ででした。そのときの渡辺先生は「芸能を見る人」の目で、もう一人の教え子の人と一緒に、子どものような顔で、芸能を一観客として120パーセント楽しんでいるような、そういうお顔をみせてくださいました。そのときもボクは写真をとっていました。たった2回でしたけれど、ご縁があったからですが、わたしにとっては、忘れられない時です。今回も写真をとる役目をしていますけれど、今度は本を通じて声がきこえてくるとおもうので、ずっと大事にしていきたいとおもっています。
 

 
※「しの祭り」: さきほど塩沢さんと金澤さんの話にでてきた、新宿・ゴールデン街のバーママ・しのさんが企画、年1回、いまはなき浅草奥山の浅草観音温泉ではじまった祭りは、今年で16回めをむかえるそうだ。いまは浅草雷5656会館にて、当代一流の講談師や漫談師、地元お笑い芸人、ストリッパーらを迎えて例年2~300人の客人と本気に楽しみ喰う、という祭りだ。
 
 
渡辺憲二さん:公三の兄です。公三とは幼稚園から大学まで同じ道を歩いたんですけれど、社会人では私がビジネスの道に入って、彼は学問の世界、ということで、そういうことで全く彼の業績については分かりませんけど、たまに本屋に行って丸善の専門書のコーナーで人類学のところに行くと、彼の本があって、何か難しそうで、なんだか売れそうにない本だなと、これは出版する会社は大変だな、と。その頃から言叢社さんの名前は気がついてましたけれども、売れない本を色々出して頂いてありがとうございます。
 実際私が彼の本を読んだのは、松井さんの編集された、『闘うレヴィ=ストロース』 だけです。多分、我々の親父は、亡くなった時に色々見ると、本棚に公三の本が何冊かありましたから、私よりは親父の方が読んでいたか、あるいはパラパラとページをめくって、子どもの学者としての成果を大変喜んでいたんじゃないかなと思います。
 実際に彼の本をパラパラと読んでいますと、難しいな、と、難しいというより、ビジネスの世界の人間からするとすごいまどろっこしいな、と。
 多分その理由が2つくらいあって、1つは、抽象化をする、これはビジネスの世界にも必ずあって、全て個別具体的に書いていたら記述がやたらと長くなっちゃいますから、組織を、人を動かすためには、方針というような形で抽象化することが必要で、それを関連付けて、体系付けて、論理付けするというプロセスはビジネスの世界でも全く同じように行われますけれども、何よりもすごく違うなっていう風に思うのは、時間軸が違うなという、要するにビジネスの世界では生産性、何よりも1番重要なのは時間生産性ですから、10のことをいかに1で言うか、1で言って間違いなく理解できるようにする、っていうのが仕事をする上ですごく重要なことなんだけれども、まあ学者の世界というのは、10のことを10で言ったり、場合によってはその時の思いを込めて15になったり、16になったり、すごく長くなるところがある、まあビジネスでいうとそんなのどおでもいい、さっさと結論を言え、となるわけですから、付き合いにくいな、と読んでてなるわけですけれども、よっぽど著者の人間性に興味がないとなかなか読了することはできないんじゃないかな、と思うわけですけれど。まあ、そういう意味では学者というのはビジネスの世界の人間に比べて時間がたくさんあって羨ましいな、と、その時間のある人が晩年は大学の仕事ですごく忙しかったようで、11月に中国に出張していて、声がでにくくなった、ということで医者に行って、食道癌だということが分かったということで、多分12月の検診の最終結果が出た直後だと思うんですけども、私のところに電話してきたんですけど、私が仕事で出られなくて、1時間後に電話したら、彼は受けてくれなくて、それから3、4日して、彼の嫁さんから連絡が来て、癌が大変重篤な状態で……それこそ手術したり、治療はできない、ということでいっぺん会いに来てくれ、という風に言われて。そうは言ってもそんな直ぐに亡くなるなんて思っていませんから、たまたま出張で九州福岡に行っている時に、真夜中に電話が鳴って、亡くなられたというので、予定をキャンセルしてそのまま京都へ行ったんですけれど、まあ本当に人の命というのは儚いな、という風に、彼の死を通じて痛切に感じました。
 日頃全くお付き合いのない世界の話しを3時間聞かせて頂き、大変興味深く、孫もそれなりにちゃんと喋ったので良かったな、という風に思います。
 今日はどうも本当にありがとうございました。
 
 
 
麻紀さん演奏3曲
メタルクラリネット・独奏  -ブルターニュ民謡-
独唱 - Je te veux- (Erik Satie)
サックス・独奏 -京都慕情-


 
 
 
島亨さん言叢社の島と申します。病いのため、口頭でお話しするのがすこしむずかしくなりましたので、用意させていただいたメモを読ませていただき、この会の終わりに、世話人の一人として、ごあいさつさせていただきます。
 「今日は、24号台風の迫る中、渡辺公三さんとかかわりのあった同輩の方々から若い方々までの多彩な友人、そして、ご家族、公三さんのお兄さん、公三さんの娘さんの舞さん、さらには、エジプトからこられましたムスタファ・サイッドさんとパリの仲野麻紀さんによる演奏、そしてまた、今日のコーヒーとスイーツのお世話をくださったバッハ・コーヒーの田口文子さん、集まりのお世話をするために参加いただいた方々、まことにありがとうございます。
 この集まりには参加されておりませんが、九州大学名誉教授の関さんのことばを紹介させていただきます。「公三の死去には呆然とするほかありませんでした。お別れの会が京都で遺族+立命館であり、そのときは顔をだして友人としての話をしました」、しかし、「まだその気分からたちなおっているとは云えず、鬱屈しています」、いまも「やはり霧が晴れません。まいったな」とおっしゃっています。この関さんの気持ちは、ここに参加されている友人の方々にも共通する思いだろうとおもいます。
私も公三さんが亡くなってこの方、心にまつわりつづけているものを感じつづけながら、公三さんの第三論文集の制作をつづけてきました。野生の世界にその根をもつ習俗でいえば、これまでは「喪に服するとき」だったのかもしれません。そして、この集まりは、公三さんによって与えられた「喪の明け」としての「かつての縁を生まれなおす時」であり、この「機縁」によって公三さんが創り出してくれた「交友の新しいネットワーク」が誕生するだろうことをおもう次第です。ここにつどわれた方々にどうか幸(さち)がありますように。ありがとうございました。」

用意したメモはこれだけなのですが、一つだけ言葉を加えさせてください。
私どもでは通常、出版の際のオビの言葉は、編集のほうでつくってきました。しかし、2010年に刊行しました論文集『身体・歴史・人類学』の『第I巻 アフリカのからだ』『第II巻 西欧の眼』のオビの言葉は、私どもではなく、著者みずから書いたものでした。
 その『第I巻 アフリカのからだ』のオビおもてには、次のように書かれています。「生涯をかけて人が創る衣装はその人の死を飾るものだという考えは、たしかにひとつの生活のなかで編み出された『思想』だと思えた」。
これはアフリカの調査で出会ったコンゴ・クバ王国の人びとが、自分の死に際してまとう布をみずから織り、刺繍をほどこしている。実際にそのように織物を創っていることを深い感動をまじえて言葉としたものですが、同時に、人は、だれでも死ぬまで自分が纏うものを織り続けて、そして死ぬのだということの隠喩の像になっている。この言葉を公三さんは今日の死を予期したように書きとどめていたのです。
そして、『第III巻 批判的人類学のために』は生前に構想したものでしたが、急逝のために間に合わず、本年9月に刊行しました。オビの言葉は、私どもでつくらなければなりませんでした。この言葉をどうまとめるか。公三さんの文章を編集のなかで繰り返し読みながら、私どもが理解した核心といえる言葉を記そうと考えました。それがオビ背の言葉「人類の幸福への意志に研究の根幹を据えた早すぎる人類学徒の遺著」です。
「人類学徒」という言葉は、立命館副総長・立命館大学副総長という公三さんの肩書からは不適切といわれるかもしれませんが、どこかに戦中に亡くなった「学徒」の像が重ねられて思わずも書いてしまったのかもしれません。それで、さほどおかしくないと決めこみました。
そして、オビおもての言葉は、「マルセル・モースからレヴィ=ストロースにいたる人類学に、個体と集団の『幸福への思考』の大切な筋道をたどろうとしてきた著者の、早すぎる遺作となった第III論文集」としました。オビうらには、「幸福への意志」という言葉がどこから来ているかをしめすために、モースについての収録論文からの引用を選びました。
「大切な筋道」。ここにはマルセル・モースからレヴィ=ストロースに至る人類学の「正統」がある。公三さんはこの道筋への入口と道筋が内包するものを指し示してくれた。この「正統」を引き受けてくれる「後継の人々」にバトンを渡しておきたい。人類学はいうまでもなく「他者」をいかに理解するかをその根幹に据えた学問である。この「他者への問い」と、「他者の思考」としての「幸福への意志」に学の照準をあてること、それが渡辺公三という人類学者が語ろうとした最後の意志なのだ、と考えた次第です。
みなさま、この嵐のさなかを最後までお付き合いいただき、ほんとうに、ありがとうございました。
 

 
 
※補遺・はじめて公三さんに、会ったころ
 もう何十年も前、この同じ会議室で「道の会」という、若い研究者たちが集まった会がありました。ごく何人かを除き、皆さんがまだ就職していない時代1980年代の話です。心騒がしい時代、午後にあつまると夜まで、なにやかやと話がしずまらず、延々とつづいたものでした。
 その会に、今回このしのぶ会に参加されている蔵持さんがつれてみえたのが渡辺さんでした。「道の会」が終わった後、言叢社の事務所にちょっとはにかんだときの唇を少しつきだした公三さんが1階の事務所にはいってみえて、島さんに、「ちょっとすみませんが」といって、彼が駒場高校のとき、担任の先生(林幹一郎さん)の代理授業をしてくれた、あのときの人ではないか、という。20代だった島さんは、大学で同級だった友人の高校教師の授業を1時間だけのっとり、「プラトンの饗宴の三つの性」にふれた授業を、そういえばしたという。若気のいたりで、当時若者にはやった黒いセーターに黒のズボン、黒コートをはおり、たぶん颯爽と教室にはいったのだろう。そのたった1度だけの授業を公三氏はおぼえていて、それ以来のつきあいになった。よく物事をおぼえているひとだった。
 
●ご協力いただいた方々
カフェ・バッハママの田口文子さんとスタッフの林桂太郎さん: 1968年(昭和43)に田口護さんと文子夫妻が開業。山谷に拠点をおく、自家焙煎珈琲界のレジェンドです。全国から珈琲学を学ぶ人々が集います。いつだったか、行動者・公三さんは会いたいひとには躊躇なく? でかけていくひとだった印象がありますが、バッハさんにぜひいってみたいといわれ、舞さんと一緒に見学したのを思い出します。
・鈴木泰代さん:「渡辺公三さんをしのぶ会」の筆文字を書いてくださるひとを友人の青木幸子さんがみつけてくださり、樽見さんにおねがいしていただきました。また食べ物やその他の準備に、繊細にご協力くださいました。すばらしくおいしい神楽坂のチーズ専門店・アルパージュの紹介も。
・村山和之さん:写真撮影とビデオ撮影を担当くださいました。
 
 
※一日分の記事容量制限を超えてしまいましたので、日付は矛盾しますが佐藤=ロスべアグ・ナナさん松井 純さんの文は前日分の記事として掲載しました。ご了承ください。<(_ _)>

「しのぶ会」その2

◆「しのぶ会」のあとに
■「渡辺公三氏をしのぶ」第2部 ■
10月4日の仲野麻紀さんの追悼文につづき、第2部として、会ののちによせていただいた追悼の文を掲載させていただきます。
 
佐藤=ロスべアグ・ナナさん  恩師渡辺公三
 私は渡辺さんの教え子の中の第1号博士でした。立命館大学の先端総合学術研究科で、博士課程の3年生から渡辺さんが指導教員になり、2年間をかけて博士論文を仕上げました。
私は、研究のアイデアを形にするのが苦手な院生でしたが、渡辺さんは根気よく私の話を聞いてくださり、また書いたものを読んでくださり、丁寧にコメントをつけてくださいました。渡辺さんはどちらかというとカチッとした論を書かれる方だったので、私の苦手なことを、渡辺さんから学ぶことで、論文というものの書き方を学んでいったと思います。幸い博士の1号でしたから、他の院生よりも少し余分に時間をかけてくださった気もしています。私の後は、博士の院生さんがたくさんいて、また渡辺さんは大きな役職にもつかれていたので、お忙しそうでした。そういう意味で私は幸運だったのかもしれません。
 渡辺さんから直接言われたことで、今も覚えていることは、(1)「論文中で5行書くのに5冊は書籍を読んでいる必要がある」こと、(2)「一つの研究をやりとげるには10年はかかる」こと、そして(3)「僕は学生を指導するという事は、彼/女らの話を傾聴するということだと思っています」です。(1)と(2)の教えは、現在、私の院生たちがいつも聞かされることになっています。また、(3)については、授業中の院生とのやり取り、または院生が私の部屋を訪ねてきた時に、常に実践をしています。私の実践については、卒業してから渡辺さんをお訪ねした際に、直接お話したことがあり、少し照れながら、嬉しそうに笑っていらしたと記憶しています。
 あまりにも突然に逝ってしまわれて、遠方に住む私には、まだ現実感がありません。私はこれからも渡辺さんに教えていただいたことを、私の院生たちに伝えて行き、またその院生たちが誰かに伝えていってくれたらいいなあと思っています。そんな風に続けていくことで、言葉の中に渡辺さんが生き続けてくれることを願いつつ。
2018年11月13日
SOAS, University of London


松井 純さん  編集者として渡辺公三さんを話そうと思う
渡辺公三というひとについて何を話したらよいのだろうか。人文書院に勤めていた京都生活の後半、家が同じ北大路通沿いだったから、道端でときどき見かけた。連れていた愛犬(名前はリヴァース!)を拙宅の真下にあった銀行ATMで暑さしのぎさせていたり、休日に家族と散歩(おそらくランチに向かう)していたり、と。また、車に乗せてもらったこともある(BGMは意外にもドゥービーブラザーズ)。こうしたいわば近所づきあいの範囲にもそれはそれで懐かしい思い出はたくさんあるのだが、やはり編集者として話そうと思う。
最初の仕事は、論集『文化解体の想像力』(二〇〇〇年七月)への寄稿(「マルセル・モースにおける現実と超現実――シュルレアリスムへ向けた人類学からのいくつかの断片」)だった。巻末の「編集覚書」から推測するに、執筆依頼はその三年くらい前のはずだから、一九九七年、編集者になってまだ二年にも満たない新米のころだ。その後知るところとなるが、公三さんは遅筆だ。この論文一本にもひどく難儀したうえに、ようやく受け取った原稿は、論文としてはなんとも未完成なもの、副題にあるとおりの断片といってよいメモ的な内容だった。公三さんは悲痛な表情で、忸怩たる思いで「断片」と付けたと言う。釈明をいくらされても経験の浅い身としては戸惑うばかりだ。ただ、ことばとは裏腹に本人は至極ご満悦だった節が大いにある。じっさい、学内で同僚に見せて回り、好評を得るや小躍りしていたとの証言をいくつも聞いた。
この仕事こそが以後二〇年続くことになる公三さんとの関係すべての始まりであった。論文=断片には注がなく、わずかな数の参考文献が掲げられているにすぎない。そのなかに「モース、マルセル 未刊 『民族誌学の手引き』渡辺公三訳」の一行が、モース邦訳の刊本、弘文堂版『社会学と人類学(I・II)』の隣にさりげなく置かれていた。ほかのモース未訳テクストはすべてフランス語書誌クレジットで記されてある。その秘密を教えてくれたのは編者の真島一郎さん、曰く「渡辺公三さんはManuel d’Ethnographieの翻訳を持っているはず、いわば私家版のようなもので、一部のひとだけがその存在を知っている」と。
編集者としてこれを頂戴しないわけにはいかない。ある昼下がり、早速訪ねた先には家人はおらず、公三さんだけ。さしでの対面は初めて。口数少ない面前で、こちらはただしゃちこばるのみ。湯がわきコーヒーを淹れようと立った台所から「あれ、フィルターがないな」との声、つづいて「どうしようか。油漉紙があるからそれでやってみようか」。さすがレヴィ=ストロースのひとだ、ブリコラージュだ、と内心おかしな感動をしていた。ひどくざらついたコーヒーの味とともに忘れられない一景である(ちなみに、公三さんとは酒ではなくたいていはコーヒーだった。レヴィ=ストロース夫妻とコーヒーを飲んだときに砂糖を使ったところ、夫人から民度が低いとたしなめられた、と何度も言っていた。ちなみにちなみ、公三さんとはカレーが多かった。『檀流クッキング』の愛読者であり、家では一週間分を大鍋で作り置きすると言っていた)。
この訪問をまえに、公三さんへのオファーのしかたを考えねばならなかった。まずは公三訳『手引き』の存在を確認すること、『手引き』出版にあたっては、単巻ではなく、『モース著作集』を組み立てその一巻として出したいと申し出ること。なぜモースなのか、その構成はどうなるのか、予想される質問をシミュレートし、ない知恵をしぼって諸々突き詰めていくうちに、知らずと公三論文=断片をなぞりなおしている自分に気づいた。これこそが渡辺公三ジーである。この種の誘導尋問的なやりとりがとても上手なひとだったと思う。ある道すがら、「ミシェル・レリスが好きだと言うけれどどうしてですか」と訊かれ、その場はモースとの短絡で曖昧な返事でごまかしたことがある。帰路に酔った頭ではたと気づいたのは、アルフレッド・メトローのことだった。レヴィ=ストロースと並ぶ、いやそれ以上に大きな、ピエール・クラストルの師。若き公三さんが翻訳した『国家に抗する社会』の「訳者あとがき」はメトローについて日本語で書かれた文章の嚆矢だろう。「私にとって詩人=民族誌学者の典型はアルフレッド・メトローです」とレリスは語っている。レリスはメトローのなかにもう一人の自分を見ていたほどなのだから、公三さんは当然、そこに話が及ぶよう水を向けたにちがいなかったが、即答できずに終わってしまった。まさにお話にもならなかったわけだ。
『手引き』から『モース著作集』へ。この企画は、わたしの転職にともなって平凡社へと移ったが、じつはそう簡単には引き受けてもらえなかった。『著作集』の構成案作成は容易ではない。デュルケムの後継者として亡くなった同僚たちの喪の仕事に精力を費やし、ダヴィデの星をつけられて悲惨な最期を遂げたモースには、生前唯一の著書もなかったわけだから、『年報』に載ったテクストをすべて見渡したうえで、その全体像をつかまねばならない。逡巡する公三さんが最終的に出した条件はただひとつ、真島一郎さんとの協同作業であった。研究会を立ち上げそこで訳文を溜めていく方式でスタートしたものの、全六巻の『モース著作集』は日の目をみていない。研究会は長期にわたって続いたが、その間に、副学長の要職につくなど想像を超える学務の多忙さが公三さんを襲うことになったからであり、ほかのメンバーもそれぞれに事情をかかえることになったからである。めざすべき質的レベルをはじめ、掲げた目標はひじょうに高いものであり、研究会ではむきつけなことばをぶつけあうような厳しい局面が一再ならずあった。道半ばの宙吊りのまま、いまもメンバーの誰もがこの仕事を総括できずにいるだろうが、それが可能となるのは晴れて『著作集』完成の暁でしかない。モース研究会の成果としては、現在のところ『マルセル・モースの世界』(二〇一一年五月)だけがあり、全九章のうち三章分を公三さんが執筆している(「第?部 快活な社会主義人類学者の肖像」中「第1章 民族誌 知の魔法使いとその弟子」「第2章 モース人類学あるいは幸福への意志」、「第?部 起点としてのモース」中「第1章 フィールド レヴィ=ストロースからさかのぼる」)。
このように、公三さんとの仕事は一貫してモースを真ん中において続いてきた。例外は『闘うレヴィ=ストロース』(二〇〇九年一一月)だ。これは、わたしが新書の編集長職に就き、部数のはれる強いテーマをどんどんラインナップしていかねばならない苦境にあるとき、表看板であるレヴィ=ストロースに関しての書き下ろしを、公三さんに泣きついたものであった。『モース著作集』だけでも手に余るところに、無理強いにちかいかたちで頼み込んだのである。そのあたりから、しきりにこれからの残り仕事の設計について口にするようになったと記憶している。眼前の山を登りきると、順次ちがう山が現れるコルシカ島の地勢の喩をかりて、「最後はアメリカ研究をしたい」と。『モース著作集』にくわえ、『闘うレヴィ=ストロース』もまた、結果としては本人を希望する道から遠ざけてしまうことにしかならなかった。ひじょうに申し訳なく思う反面、そこが公三さんらしいところでもあったとあえて言ってみたくもなる。いつでもどこか楽観的なところがないわけでなく、どうもマゾ的気質があったのではとの疑念が大いにあるからだ。公三さんの好きな小話を思い出す。サディストとマゾヒストの会話というもので、「マ:もっといじめてよ――サ:いやだよ」。これだけであるが、たしかに何度か聞いている。学務についても同様だったのだろうか、健全な欲目も確かにあったはずだし、そう思いたい。
『闘うレヴィ=ストロース』のゲラは取っておけばよかったと悔やんでいる。そのくらい歴代ワーストの赤字・差替・入替、編集は最後の最後まで通し読みができなかった。新書は毎月の刊行日が決まっている定期刊行物である。何校かわからない最終形を読んだのが校了前日くらいの突貫だったが、こちらもずぶとくなったもので、今回は断片で終わらせることなく一応の恰好はつけさせてもらった(余談だが、この本の帯文句は詐称とamazonのレヴューなどでは評判が悪い。「入門書」とは偽りだと。編集者は場合によってはそのくらいのことはやるのです)。げんきんなことに、喉元すぎればなんとやら、本が出来上がるととても喜び、名刺代わりとばかりに方々に配っていた。奇しくもレヴィ=ストロースの死までが刊行を応援する結果となり、おそらく公三さんの本のなかで一番売れたのではないだろうか。販促企画である紀伊國屋書店大ホールでの中沢新一さんとの対談も特有のしかたで楽しんでいたようだ。

これまで三〇〇冊近くの本を作ってきたが、数えてみると、編集の仕事を始めてから来春で四半世紀が経とうとしている。その数の分だけ、いや形にならなかったものはそれ以上あるのだから、はるか何倍もの著訳者の方々とつきあってきたことになる。無数の著者にまじって、通常の仕事の範囲をこえた間柄になる書き手が、わずかだがいる。わたしにとって公三さんは間違いなくそのひとりだ。

さまざまな追悼辞のなかに、公三さんの他人とのつきあい方に触れたものがあった。「ていねい」であると(関一敏さんのことばかな)。また、複数の方々からは「はにかみ屋」が出た。まったく同感。要はひととの距離の取り方について言っているのだろうが、個人的にそれは、公三さんの翻訳仕事好きと関連するかもしれないと推っている。コミュニケーション流行りの世であるが(コミュ力?)、すべてはすべからく翻訳であるということもできる。なにも異文化間、異言語間だけが翻訳ではない。自分をとりまくあらゆるものとの関係は翻訳の領域だ。それを知っており、それを愉しめ、それに長けたひと。研究者になるまえに通訳者として身を立てようと考えていたといくども聞かされたことがあるが、その通訳者とはこういう意味だったのだろう。公三さんのフィールド話はついぞ聞いたことがないが想像はつく。クバの織物への接し方。

その関連でいうと、哲学者エティエンヌ・バリバール来日講演後の、彼を囲んでの小宴でのやりとりは忘れられない。アルチュセール列の政治思想を専門とする人たちが多く、酒も入りみな早口にキンキンするほどの大声でがなりたてるなか、ちょうどテーブルをはさんでバリバールの対角線の先、いちばん離れた席に公三さんはいた。ぼそぼそとしたフランス語で話すのだが、バリバールの耳に一番届いていたのはこの声だった。自嘲気味に「ぼくのフランス語は閨房フランス語です。アカデミックなものではありません」と言っていた公三さん、その韜晦も含め彼の残した翻訳の仕事についてあらためて考えてみなければと強く思う。

公三さんは年表的に思考するひとでもあった。作った本の奥付やらメモやらでその真似事をしながら二〇年間の交わりの一端を思い返してみた。あるのは、感謝と謝罪、そして約束――遺影の前で誓った『モース著作集』の刊行。

付記  しのぶ会当日は司会役に徹していたため発言を控えていましたが、言叢社の五十嵐さんからこのブログのために何か書くようにとの仰せがあっての小文です。ところが提出後、ブログにアップする直前、偶然書店でレヴィ=ストロースの新刊『仮面の道』(ちくま学芸文庫)を贖いました。かつて山口昌男さんと渡辺守章さんの共訳で一九七七年に新潮社から出たものは持っていますが、今度の新刊の帯には増補完全版と謳われています。その謂は、一九七五年に〈創造の小径〉叢書のひとつとして刊行された原書旧版が、一九七九年に増補され二部構成に改訂されており、それを指してのことです。そしてなんと、訳者に渡辺公三の名が新たに加わっているではありませんか。そう増補分の第二部は公三さんの訳なのです。詳しい経緯は当該書の文庫版後書きをお読みいただくのが一番ですが、原著四〇年を経て増補版を上梓できたことは公三さんのお蔭であり、死の直前までその仕事を続けられていたことがわかります。

 
 平凡社渡辺公三さん著作
 
 平凡社の、公三さんがかかわった本
 
 増補完全版 「仮面の道」ちくま学芸文庫

 

 
レヴィ=ストロース、受け継がれる仕事
栗山雅子さん:このたび、私も一言ブログに、とお誘い頂きましたことありがたく、思い出すことをほんの少しだけ書かせていただきます。
  レヴィ=ストロスの企画は、みすず書房創立者であった小尾俊人が始めたもので、京都の大橋保夫先生や外語大におられた川田順造先生などのご協力を得て進められました。ですから、私が引き受けたころは、「社の企画」を比較的若い編集者がバトンタッチしていく、という感じがありました。『やきもち焼きの土器つくり』は渡辺先生に小社で翻訳をお願いした最初の企画でしたから、私も全力投球し、いまだに記憶に残っている一冊です。渡辺先生がちょうど京都に移られたころと前後すると思います。祇園近辺を先生にくっついて、ずいぶん歩きまわり、そこでレヴィ=ストロースのお話をしたのを懐かしく思い出します。
  渡辺先生の言叢社さまとのお仕事や、平凡社の松井さまとのお仕事は、いつも「すごいなあ」と、ほとんど羨望の気持ちで拝見していました。「モースをもっときちんと紹介しなければいけない」「一個人の同定は犯罪者の写真やパスポートに注目しなければ」などというお話を、フムフムと伺っているうちに、いつの間にか、そのものズバリのご著書が出てびっくりしたものです。松井さんのお話を今回読ませていただいて、その大変さ(?!)を想像しました。想像はできますが、私の大変さなどは、皆様に比べれば、大したことはなかったのだと思い至りました(本当です!)
 そして私が定年になったとき、次の世代の石神に、レヴィ=ストロースはごく自然にバトンタッチしたのでした。確か、『大山猫の物語』を仕込んで、しばらく経った頃でした。渡辺先生との仕事上のお付き合いもそこで終わりましたが、仕事以外のお付き合いは、ずいぶん長く続いた気がします。
  鎌仲ひとみさん監督のドキュメンタリー『六ヶ所村ラプソディー』を観る会にお誘いくださったのは、私の記憶が正しければ(少し自信がないのですが)渡辺先生だったと思います。素敵な奥様とまだ小さかったお嬢様にお会いしたのは、その時だったのではないでしょうか。
  金澤さんが書いておられる、新宿ゴールデン街劇場の「Ky コンサート」は私も行きました! 懐かしいです。その後も、仲野麻紀さんやKy のデュオのコンサートに何回かお誘い頂いたり、CDを頂戴したりしましたが、そのたびに付けてくださるお手紙が、「あいかわらずあきらめが悪く」とか、「またしつこくお誘いしますが」という風に始まっていて、渡辺さんという方はこうして、いろんな方たちとのネットワークを小まめにつくっておられるのだなあ、と感心したものでした。
  ひとつだけ、心残りがあります。私はずっと、渡辺先生のフィールドワークの具体的なお話を伺いたいと思っていたのです。それがついに果たせなかった、これは本当に残念です。
                                                 (みすず書房・編集者)
 
 
謙虚
 
 レヴィ=ストロース神話論理』の第三巻『食卓作法の起源』で思い出すいくつかの場面のことを書きたい。
 『食卓作法の起源』は、当初から渡辺先生ご分担の巻だった。年齢もほとんど違わない四人の翻訳チームはほんとうに雰囲気がよかった。打ち合わせの席では余談で、渡辺先生は大学院時代フランスに留学されていたあいだ、アルバイトで企業の商談の通訳もしたことがあるなどと、いま思い返してもおもしろい経験をしたというふうに楽しそうにお話しになっていた。それから、研究者としてものを書かれるようになってまもない頃、翻訳の訳文について出版社の担当編集者の方にたいそう鍛えられたとも。だからいまの自分があるというおっしゃり方だったと記憶する。
 打ち合わせは事前に互いの訳稿を読み合って来られての相談だったが、渡辺先生から、意味のまとまりごとに文を切ってわかりやすく訳すよりも、フランス語原文が一文の場合にはなるべく連続した一文で訳出してみてほしいと提案があった。そのほうがレヴィ=ストロースの思考の動きを追いやすいと渡辺先生はお考えだった。共訳の先生方のあいだに一瞬ためらいの空気が流れたように思う。が、その方針でやってみましょうとみなさんがおっしゃった。どなたもいうまでもなく渡辺先生のレヴィ=ストロース理解を信頼していらしたから。けれども、論理的な構文の助けを借りるわけにいかない日本語で、長文を長文のまま表現するのは、翻訳のセンスがなくてはできない。渡辺公三訳は最もレヴィ=ストロースの文章の音楽性をよく伝えていると思う、という評を聞いたことがあるが、訳語の次元でも渡辺先生は、たとえば神話の登場人物のひとりle passeur susceptibleを「傷つきやすい渡し守」とされた。それまで「怒りっぽい~」「感じやすい~」と訳された例もあって、じっさい渡し守は苛立ったりするのだが、それを「傷つきやすい」とは、それこそ渡辺先生の感受性の豊かさ、細かなところまでよく見えたうえでのまなざしの温かさをあらわしていないだろうか。
 シリーズ『神話論理』の刊行開始にあたって、ガイドブックもつくった。その渡辺公三・木村秀雄編『レヴィ=ストロース神話論理』の森へ』で、渡辺先生は97歳目前のレヴィ=ストロースにインタヴューを申し込んでパリに赴き実現して下さった。最晩年のこの貴重なインタヴューで、ときどき、問いに関連するレヴィ=ストロースの著作の一節を渡辺先生が面前で朗読されるくだりが出てくる。ご高齢に重々配慮されての工夫だった。しかし、校正時に渡辺先生は、これがわたしの力の限界ですとしきりにおっしゃっていた。読むとたしかに、レヴィ=ストロースはなかなかストレートにそうですねとは答えていない。渡辺先生はエリボンとの対話『遠近の回想』を高く評価しておられたので、きっとあのようにいろいろなことを深く聴き取りたかったと心残りでいらしたのだろう。このことといい、院生時代や駆け出しの頃についてうかがった話といい、わたしの接することのできた渡辺先生はこのように謙虚でいらした。
 渡辺先生には結局、『食卓作法の起源』ののち最終巻『裸の人』の翻訳陣にもお加わりいただき、全巻をしめくくる訳者あとがきも執筆していただいた。あとわずかというときレヴィ=ストロース他界の報がとどいた。まにあわなかったと痛恨の表情の渡辺先生が眼裏にうかぶ。
 『神話論理』四部作・邦訳全五冊の刊行じたい、渡辺先生なしにはありえなかった。かつて故・大橋保夫先生の下で始まった出版企画が長年とどこおり、レールから敷き直しての再始動をみすず書房は渡辺先生にご相談した。錆びついた車輪がようやく回りはじめる時点で最大の力が要ったはずで、その後に社内で何代目かになる編集担当を引き継いだわたしは、渡辺先生の手腕をじゅうぶん語ることができない。また、わたしは渡辺先生の一面しか存じ上げないから、こうして断片的なことばかりしか書けない。ひとえに編集者として力量が足りなかったからだ。だから片想いなのだけれど、渡辺公三先生を心から敬愛する。

石神純子みすず書房

 

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みすず書房の、公三さんがかかわった本