ことばのくさむら

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◉書籍紹介『台湾俳句歳時記』 「台湾俳句会」立ち上げから、今年で56年目 ──昨年「創立55周年記念句会」が開催され、日本からも17名が参加されました

 

 

 

 

黄霊芝著 台湾俳句歳時記

異国の日本語俳句

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1

与那国島から100キロほどの海のかなたに、台湾はある。北回帰線が横切る台湾は亜熱帯性気候の土地。夏は長く冬は短い。夏はねっとりとした熱気が肌にまとわりつくような気候だ。それは四季をもつ日本本土の季節感覚とはことなった世界といえる。

その台湾が日本語に包まれた時代があった。日清戦争の戦後処理として、清朝との下関条約のよる割譲にもとづき日本の統治下にはいった1895年から、太平洋戦争が終結する1945年までの50年間、台湾では日本語化教育が強制され、人々は母国語をうしなった。

それは文字どおり「母親の舌を切られる」ようなおもいであったろう。ことばを強制的に変更させられるという悲劇はわたしたちの想像を超えているが、その時代に生を受け、育った人たちは日本語を母国語とせざるを得なかった。父母は台湾語を話していたのにその子供は日本語をつかう、といった奇妙な言葉の乖離があったはずだろう。それでもこの期間に生まれ育った若者たちにとって、日本語が母語となっていった。言葉は思考そのものの規準となる道具である。じぶんや世界をとらえ客観的に整理していくツールとしての言語は、ものをかんがえ、理解し咀嚼しようとするとき、もっとも基本的な手段となる。50年間にわたって日本語を話し、書きつづけさせられれば、しぜんと日本語で世界を見つめ、かんがえていくようになる。その時代にそだち日本語の音と文字に慣れ親しんだ人々にとって1945年(民国34年)になって中国語を母国語とさせられたあとでも、日本語は変えることなく言語習慣としてつかわれ、公的に日本語の使用が差し止められた台湾において、日本語で考え、世界を見つめ続けたひとびとがいたのである。

この歳時記の著者、黄霊芝もそのひとりであった。

 

 

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2

かれがえらんだのは、俳句というきわめて日本的な表現方法であった。そこに至る道のりは平坦なものではなかった。

1945年以降、日本語を禁じられたかれは、文盲であり唖となったという。若き日に小説家を志していたかれにとって、言葉が喉につかえ発話できないようなもどかしさ、書き言葉をうしなう体験は、表現手段の喪失であると同時に、アイデンティティーの危機でもあった。禁じられた言葉を携えてたどり着いたのは、日本語による新聞『軍民導報』の文芸欄であり、そこへの投稿に希望の灯を見いだし、台湾において日本語で書き、考える道をえらんだ。

時を経た1970年、第三回アジアペンクラブの会議が台北でおこなわれた折、団長として来台した川端康成らから「台湾にも俳句の会が欲しい」といわれたことを機に、「俳句会」が結成された。この日本語俳句の会が発足された1970年代の台湾では、国民党による戒厳令が施行され続けており、その発足自体が身の危険さえ賭しての事業であった。そのような困難のなかで日本語をもちいて文芸をつくりあげ、みずからのことばを探し求め、俳句にたどりつき、それを台湾の風土において成長させていく。かれの後半生は日本語との格闘にあった。その成果がこの歳時記にまとめ上げられている。

俳句では5・7・5、17音の、みじかい一文のなかに意味をあつめ凝縮していく、俳句という、石庭のような凝縮された抽象性にも似た表現を、とおい台湾でつくるひとびとがいる。日本らしさであり、日本という国に固有な詩の形式であると考えがちな俳句が、海のかなたの異郷で活きている。この歳時記を手に取るとき、その驚きに満ちた発見をすることとなる。

俳句には季語を使うというルールがある。現代風に言えば、ことばによる「縛り」を設けることで、その制約をゲームのように操るのが俳句である。季語というお題があって、その単語の意味と響きに耳を傾け、おもいを巡らしながら17音にまとめあげていく。西洋の韻を踏む詩もまたそうであるように、それは詩であると同時に、17音のメロディでもある。いや、詩はそもそも音楽であったのだ。西洋のそれほど厳格ではないものの、俳句もまた聲になってひろがるときは音楽に近いようにおもう。この歳時記を開くたびに、わたしは、海の向こうから日本語による俳句という音楽が聴こえてくるような、不思議な感覚になる。

季節の移ろいを言葉によって示す季語というしくみは、ほんらい日本の四季と密接にかかわっている。四季のたおやかな流れのなかにある日本列島の、多彩な景色や習慣を込めた季語自体が、この国の自然のなかで暮らす人の生きざまをもしめしている。季語が四季でわけられているのをみてもそれとわかる。

しかし台湾は亜熱帯で日本の四季とは異なる世界だ。この歳時記で季語は、暖かい・暑い・涼しい・寒い、の四つの「頃」によって分類されている。おそらくはその変化も日本のそれとはちがっているのだろう。使われる季語も日本のそれとは異なる。台湾の人々にとってなじみ深い行事や神々、祭祀がつぎつぎと取り入れられている。それらはどれも、はじめて聞くものばかり。草木の名前にしても、聞いたことのないものが多い。

 



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3

一つ挙げてみよう。査某雨(ツァーボォフォ)とは女の雨の意。雨水から啓蟄のあいだの春雷ののち、ながく降り続く雨を指す、という。しとしとと降るそのさまが、婦人の泣くに似てそう呼ばれる。雨で屋外に出るのもためらわれ、慈雨のなか人々は家にいて止むのを待つ。強い湿気のなか萌えいでる草木にたまる雨粒や、霧のむこうにみえる山野がおもい描ける独特の季語であろうか。

月来香(グエライヒョン)、かつて李香蘭の歌にもあったメキシコ原産の球根植物。名のとおり、夕刻から花開き朝方しぼむ。その香りは人を陶酔させる。季語になるといよいよ艶めかしさを思い起こさせるようで、艶と情にまつわる俳句が多い。根を持たず植物に寄生して繁茂する、ねなしかづら。寄生根をのばして養分を吸い取り黄金色の幕のように育つ。南国の陽ざしの下自在に伸びてゆくさまは、台湾ならではの植物なのだろう。

行事や祭祀にまつわる季語も多い。送神(ソンシン)は年末に神を天に送る風習のことで、とくに竈神を天へと見送る。竈に司命壮君と書かれた紅い紙を貼り、お供えをする。摸春牛(モウツングウ)は泥塑の牛をもちいた迎春の儀式のこと。この牛をなでるとさまざまなご利益があるという。人々は無病息災・子孫繁栄を祈り、牛を撫でる。儒教思想が根付いている台湾らしいのが、孔子祭。季語ともなる華やかな祭りは9月28日に執り行われる。孔子廟は人々でにぎわう。仏教や道教、儒教など多様な宗教が信仰されている台湾では、民間信仰も盛んで、様々な行事が執り行われる。孔子祭も季語に取り入れられ、秋の訪れを告げる。

このような季語は、はじめて聞くものばかりだが、それを取り入れた俳句は、市井の人々の生活や信仰を浮かび上がらせていて興味深い。ここ台湾でも人は暮らし、生活しているのである。日々の営みのなかで、人は些事にも心動かされ、わらい、あるいは嘆息をもらす。小確幸を見いだし、それをうたった俳句のなんとおおいことか。時として苦難もあり、あるいは小さな幸せを実感する。そうして日々を生きていく。そんな台湾の人々の景色は日本人の心情ともなんら変わらず、わたしのこころを共振させてくれる。

 

 

 

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4

収録されている数百におよぶカラー図版を頼りに、台湾の一年に想いを馳せてみるのもいい。極彩色の祠や街のようす。祭りに登場するどこかユーモラスな民間の神々のすがた。お菓子や供物。みずみずしい果物や野菜、それらは南国らしい異国の風を感じさせて興味尽きない。それを俳句という、日本的な形式のなかにおとしこんだとき、無限のイメージが広がってくるのが感じられる。そこに違和感はなく海をへだてているかの国との距離もまた消えていくようである。

2025年、「台湾俳句会」は創立55周年を迎えた。戦後の奔流にも押し流されず、長い歳月を経てなお存続してこられたのは、そのともしびの中心にあった黄霊芝の暖かく剛いこころざしがあったからだろう。ひとりの意志が波紋のようにひろがり、俳句を人生の友とするひとびととふれあい共振していった物語も、この歳時記を支えている。

かつて日本語を公用語とした50年間、台湾では台湾語や中国語その他さまざまな言葉がきこえていたであろう。日本語教育を課された若者は日本語を、台湾語や中国語を話す年配者もいて、多言語的な様相を呈していたことと想像される。その背景には驟雨や雷、鳥や動物の鳴き声、市街を行く車の音といった「世界の音」が控えていた。そのような音の世界で成長した著者にとっては、日本語の音はなじみ深い言葉であると同時に、思考のよりどころとなる言語であった。

思惟を手繰り寄せ言葉にまとめあげる者にとって、日本古来の俳句という表現方法を選び、創作のよすがとしていったのも当然であったとおもう。17音のメロディのなかに人と世界の営みをとらえ、記し残していく行為は、ひとつの音楽をつくるのにも似ている。この歳時記を読むとき、日本語でつまびかれる台湾の人々のひそやかなささやきが、海を越えて聴こえてくるような、そんな感慨にとらわれるのである。

 

 

 

 

 

 

◎杜青春さんのブログにて「台湾俳句会創立55周年記念句会」の様子が報告されています。

台北俳句会創立55周年記念句会 – 杜青春川柳Blog (2025.7)

 

 

 

台湾俳句歳時記

黄 霊芝 コウ レイシ【著】
ISBN: 4905913888
[A5判並製]325p
(2003‐04‐15出版)
定価=本体2800円+税

 

 

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●言叢社ブログ 台湾に触れて(1)~(8)

 

『高速道路の上に公園ができた』の反響をうけての感想――忘却と記録の抹消に抗して 吉永明弘(「常磐自動車道公害反対運動史」編纂会代表)

 

 本年1月に、1970年代の流山市の住民運動の記録『高速道路の上に公園ができた』が刊行されました。本書の元となった運動の記録を自治会報等に残した辰巳哲(たつみ・さとし)さんはもう亡くなっており、息子さんの哲也さんが記録の書籍化を提案したことが始まりでした(詳しくは本書の「刊行にあたって」を参照)。私はこの本の編纂委員会の代表となっていますが、解説を書いたくらいで、作業の大半は出版社の編集者が行いました。

 刊行後の一般の反応はわかりませんが、私が献本した範囲(大学教員と編集者)からは、絶賛に近い感想をいただきました。一番目についたのは「一気に読んだ」という感想です。大量の本が出回り、さらにはAI要約などが広まりつつある現在、多くの人が一冊の本を一気読みするというのは珍しいことです。あらためて辰巳さんの文章の良さ(リーダビリティ)に感じ入りました。

 私がこの本に関わるきっかけとして、自治会報に連載されていた記録をゼミで学生に読ませたことがあるのですが、その点(大学と地域の連携の物語)を評価してくださる人もいました。

 樹木や緑地の専門家からは、現在の道路と緑に関する議論にはこの本のような側面が抜けているという意見がありました。また現在、同じような道路問題に直面している方からは、「大変感動的」との評がありました。

 

 

 私はこれまで何冊かの本を出し、そのたびに知り合いに献本をしてきました。お礼の言葉として、「貴重」「有意義」という言葉がよく使われますが、今回はそれに並んで「感動」という言葉が多く寄せられました。こんなことは初めてです。

 今回、帯文を哲学者の國分功一郎氏に依頼しましたが、この帯文も好評で、「人間には、自分たちが成し遂げたことを後世に伝える能力がある」ということを文字通り示された本だ、という感想がありました。

 

 

 記録を残すことの意義を評価する声が、多くの方から寄せられました。「こうした記録はなかなか残るものではなく、研究者が収集しても、退職後にゴミになってしまうことも多々あります。その意味で、このような形で刊行されたことは非常に意義深いと思います」(社会学者)。

 編纂にあたって、辰巳さんの記録を補う資料として、「わかば会レポート」といったミニコミ紙(会報)を利用しました。これは丁寧にファイリングされて地元の自治会館の屋根裏部屋に収められていたのですが、こうした会報などの資料は他の場所には存在しないようです。ここに保管されていなければ、辰巳さんの記録の裏付けができませんでした。このような資料がきちんと保管されていたことを評価してくれた専門家もいました。

 

 

 このように、本書が公刊できたのは、辰巳さんが10年にわたって記録を綴っていたこと、そしてそれを裏付ける資料が自治会館に残っていたこと、にあります。

 近年、「記録を残すこと」の重要性が軽んじられています。DXというキャッチフレーズでデジタル化が進む一方で、紙の資料はどんどん捨てられていきます。デジタル化もしないで捨てられることもよくあります(紙の本は場所をとる!)。しかし、デジタル化された記録も、いつの間にか消されてしまいます。好きだったサイトは跡形もなく、少し前に書いた論文の引用元として示したURLのほとんどは「リンク切れ」になっています。

 献本先からのメールのなかには、流山に一時期住んでいたのにこの話は知らなかった、あるいは、常磐道を利用していたのに分からなかった、というコメントがありました。市役所にもほとんど記録は残っておらず、グーグル検索しても出てきません。この本がなければ、この運動は歴史から消滅してしまったかもしれません。

 流山市の1970年代の歴史を、忘却と記録の抹消から救えたことが、今回の一番の成果だったと思っています。

 

(よしなが・あきひろ)

 

 

千葉県流山市 高速道路の上に公園ができた 一九七〇年代 民主主義の原点を照らす 地域住民の実践記録 辰巳 哲+「常磐自動車道公害反対運動史」編纂会

ISBN: 978-4-86209-092-8 C0036 ¥2273E
[A五判並製]304頁(カラー口絵8頁)
(2026-01-12出版)
定価=本体2,273円+税【2,500 円(税10%込)】

「週刊読書人」2026年3月13日号に『高速道路の上に公園ができた』書評が掲載されました。

 

「週刊読書人」3月13日号に、清原 悠さんによる『高速道路の上に公園ができた』の書評が掲載されました。以下、読書人WEBからでもお読みになれます。

 

民主主義を乗りこなす強かさ 住民運動の交渉術とは何か(清原 悠)

 

dokushojin.net

図書新聞 2026年3727号3月14日 対談 吉永明弘×池田喬『千葉県流山市 高速道路の上に公園ができた』(言叢社)をめぐって

本日発刊されました、週刊書評紙「図書新聞」3727号にて、『高速道路の上に公園ができた』をめぐる対談が掲載されました。

 

地域環境を守る運動は終わらない 対談 吉永明弘×池田喬 

 

電子版やコンビニのネットプリントでも購読が可能です。ぜひともお読みください。

https://www.fujisan.co.jp/product/1281687685/b/2798088/

toshoshimbun.com

『千葉県流山市 高速道路の上に公園ができた 一九七〇年代 民主主義の原点を照らす 地域住民の実践記録』 編著 辰巳 哲+「常磐自動車道郊外反対運動史」編纂会

 

『千葉県流山市 高速道路の上に公園ができた

  一九七〇年代 民主主義の原点を照らす 地域住民の実践記録』

  編著 辰巳 哲+「常磐自動車道郊外反対運動史」編纂会

 

 

  • 本書は1971年から1985年の14年間にわたる流山市の住民による常磐自動車公害反対運動の記録である。

 この反対運動は、閑静な住宅街の真ん中を高速道路が通る計画が発表されたところからはじまっている。その主体となった「流山の生活環境を守る会」(以下、「守る会」と記す)のメンバーは、良好な住環境を求めて移住してきた、東京圏に職場をもつ40代、50代の通勤サラリーマンとその家族であった。この運動は、最後に高速道路の上に11の公園緑地を誕生させる成果を得たため、当時の住民運動としては数少ない成功例とみなされていた。だが、今では忘れられた存在となっている。

 本書の帯に推薦文を書いていただいた國分功一郎(哲学者)氏は、自身も都市計画道路建設に反対する住民運動の経験をもっており、運動を記録した本書を次のような言葉で評価している。「14年間におよぶ公害道路への反対運動。その後、ひとりの当事者の手によって、十年にわたって書き綴られた運動の歴史。運動は風化しつつあった。人間の行為とはなんと儚いものであろうか。そして、文字による記録とはなんとしぶといものであろうか。当時の住民運動を描き出すこの実に生き生きとした言葉は、ひとつの文学ですらある。人間には、自分たちが成し遂げたことを後世に伝える能力があるのだ。この本はそのことを私たちに教えてくれている」。

 

  • 今から50年前、圧倒的な行政権力を前にして、住民運動の経験などまったくない人たちが展開した道路公害反対運動が、なぜ今日なお、我々に新鮮な印象を与えるのだろうか。「守る会」が掲げていた運動方針から、その要因をいくつか挙げてみる。

 一つは、真の敵は誰であるかの見極めである。圧倒的な行政権力とは、道路建設の主体である国と道路公団(当時)と、その決定に従順に従う地元自治体である。しかし、この強大な権力すべてを敵に回して「絶対反対」を叫んでも、微妙に利害関係が異なる沿線住民(1600世帯)の意見を一つにまとめることは不可能である。そこで選択されたのが、国・道路公団への徹底抗戦と、他方、地元自治体の首長・議会に対しては、粘り強い説得で味方につける方針がとられる。つまり地元自治体の首長・議会を住民の代表機構へと改革をうながしながら、国・自治体の方針を分断する試みである。その戦略には、特定の政党に依存せず「既存政党とは等距離を保つ」方針が不可欠となる。これが二つ目の方針である。

 三つは、自治体行政、議会の動きや交渉プロセス等、入手した情報はつつみ隠さず、定期発行の機関紙で公開、反対運動をつぶそうと策動する政党や議員、首長を遠慮なく批判する一方で、対話と説得の労をおしまない行動がとられる。なお「守る会」の公開を原則とする民主的な運動スタイルは「守る会」の内部においても徹底、「少数のリーダーで勝手に行動することは絶対に慎む」方針が暗黙のルールとなっている。

 四つは、客観的なデータの重視と市民科学の実行である。「守る会」は技術研究グループを立ち上げ、現場に即したNOx調査など、専門家の知見を鵜呑みにしないで、独自に科学的データを集積、公開討論の場で、道路公団の道路構造案を論破している。

 強調すべきなのは、いずれの方針も極く普通の会社員、生活人が各自の実務経験、生活経験を基に考え出された知恵であり戦略だということである。ここに流れているエートスは、たとえ一人、一人の力は小さくとも、危機感をバネに「自分に何ができるか」を問い、それを持ち寄り、つなぎ合わせていけば、既存の権力、社会システムを越えるものが創出できる、という予感、喜びではないか。

 本書から、今日私達が忘れかけている民主主義の原点を照らす「何か」が浮かび上がってくる。

 

 

 

 

 

 

 

2026年 言叢社 新刊のご案内です。

◆ここに、市民自治の原点がある。


『千葉県流山市 高速道路の上に公園ができた

一九七〇年代 民主主義の原点を照らす 地域住民の実践記録』

【編・著】辰巳 哲+「常磐自動車道公害反対運動史」編纂会

ISBN: 978-4-86209-092-8 C0036 ¥2273E
[A五判並装]304頁(カラー口絵8頁)
(2026-01-12出版)
定価=本体2,273円+税【2,500 円(税10%込)】

 

 

14年間におよぶ公害道路への反対運動。
その後、ひとりの当事者の手によって、十年にわたって書き綴られた運動の歴史。
運動は風化しつつあった。人間の行為とはなんと儚いものであろうか。
そして、文字による記録とはなんとしぶといものであろうか。
当時の住民運動を描き出すこの実に生き生きとした言葉は、ひとつの文学ですらある。
人間には、自分たちが成し遂げたことを後世に伝える能力があるのだ。
この本はそのことを私たちに教えてくれている。

     ──國分功一郎(哲学者・東京大学大学院総合文化研究科教授)

 

◆この反対運動は、閑静な住宅街の真ん中を高速道路が通る計画が発表されたことからはじまった。住民運動の経験などまったくない人たちが、どのような知恵を働かせ、強い団結のもと成果を勝ち得ることができたのか──。ここに、時代を超えた市民自治の原点がある。

第一部では、当事者たちによる一四年間におよぶ反対運動の記録の決定版を収録。
第二部では、運動が後の市民活動に及ぼした影響と、現在からみたその歴史的意義を記す。

 

 

【主な目次】

カラー口絵
刊行にあたって  吉永 明弘(編纂会代表)

 常磐自動車道の上に公園緑地ができるまで/その全体像

第一部 「流山の生活環境を守る会」一四年の軌跡
 一九七一〜七二(昭和四六〜四七)年「流山の生活環境を守る会」の誕生
 一九七三(昭和四八)年 建設反対から「地下道要求」へ
 一九七四(昭和四九)年 住民同士が対立する中、公団「切土(堀割)構造」を発表
 一九七五(昭和五〇)年 市議会議員選挙にチャレンジ、川田さん堂々の当選
  同年 その2     市議会の変革が進み、「地下道方式」要求を再確認
 一九七六(昭和五一)年 道路公団との攻防、強行測量をくい止める
  同年 その2    「半地下構造」をめぐるチラシ合戦
 一九七七(昭和五二)年 道路公団、住民を押しつぶす/市議会、公団との対決を決議
 一九七八(昭和五三)年 「守る会」、小林理研の半地下構造優位論を論破
 一九七九(昭和五四)年 議会圧力が強まる中、市長選で川田さん落選、市議選で熊田さん当選
  同年 その2     市議会の攻防 ──道路公団の議会工作に対抗する
 一九八〇(昭和五五)年 科学万博のテーマにふさわしい無公害道路を要求
 一九八一(昭和五六)年 ついに地下道要求実現、アフターケア協定の締結
 一九八二〜一九八四(昭和五七〜五九)年 地下道の上に公園ができた
 一九八五(昭和六〇)年〜 一四年の運動のその後:アフターケア協定の遵守を求めて
 第一部 あとがきに代えて  辰巳 哲

第二部 常磐自動車道公害反対運動・その後
 闘いが終わって──当事者たちの声

 常磐道公害反対運動が流山市の市民活動に及ぼした影響  伊勢 良一

 父 哲、そして運動の仲間たちが立ち上げた地域の自治活動   辰巳 哲也

 解題:一九七〇年代の公害反対運動から五〇年──流山の運動の歴史的意義  吉永 明弘

 

【著者プロフィール】

辰巳 哲(たつみ・さとし)1935-2024
宝塚に生まれる。3歳の時に母親が、14歳の時に父親が亡くなり、愛媛県北条市(現松山市)の叔父の許で過ごす。松山商業高校を卒業後、日興證券(株)に入社。
常磐道問題が勃発した後は、仕事の傍ら休日に「流山の環境を守る会」、「わかば会」など公害反対運動の広報をほぼ一手に仕切って活動。反対運動が終わった後は、常磐道の公害監視活動に加え、1985年 週末会社の「(有)初石タウンサービス」の設立発起人となる。高齢化社会を見据えた斬新な発想がメディアにも大きく取上げられ、NPO法人のプロトタイプと評価された。

朝日新聞一面2025年4月22日・23日 折々のことば:鷲田清一(引用文掲載)島尾伸三著『魚は泳ぐ〈愛は悪〉』より 

朝日新聞一面の連載コラム、鷲田清一さんによる「折々のことば」に、島尾伸三著『魚は泳ぐ〈愛は悪〉』からのことばが、二日つづけて掲載されました。

以下、朝日新聞デジタル内でも一部閲覧ができます(全文確認は有料記事)。どうぞご覧ください。

 

 

 

(続きは有料記事になります)