ことばのくさむら

言叢社の公式ブログです

新年あけましておめでとうございます

 

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ともに高良留美子著 左:『仮面の声』(1987年 土曜美術社) 右:『見出された縄文の母系制と月の文化』(2021年 言叢社)

 


あけまして おめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

  去年夏少し前に刊行しました『見出された縄文の母系制と月の文化──〈縄文の鏡〉が照らす未来社会の像』の著者・高良留美子さんが、去る12月12日、88歳にて逝去されました。

 1960年代、詩人として輝かしく出発された高良さんは、同時に、女性史研究・思想家としても著書を多く残しました。 

 20世紀最後の四半世紀、歴史学会の主流は双系制論に傾き、女性史研究家・高群逸枝の母系制論が厳しい批判にさらされていた時代、高良さんは本格的に神話研究を始め、高群の研究を継承。先史縄文に〈母系・母権〉と〈月の文化〉を模索する探究とともに、バッハオーフェン・モルガン・エンゲルスにはじまる、それ以後の人類学の流れにまで立ち返ってたぐり直し、考古学をはじめ最新の歴史・神話・国文学・DNA・海民・アイヌ研究などの業績を批評的に読解、列島の社会文化に果たした「女性文化」のもつ大きな力を描こうとされました。そこからさらに、来たるべき社会像を捉える試みにまでいたる「書き下ろし作」を88歳のご高齢で完成させたのです。

 

「わたしは自分の身体を好きとはいえなかったが、それを憎んだり切り捨てたりするつもりはなかった。」「自由であることと自然であること、その両方を生きたかったのだ。」「その意味で、「自由」は無限定な自由ではなく、「自然」は単なる物質としての身体性ではなかった。「自由」は「自然」を切り捨てずに生かすための自由であり、「自然」は「欲求」や精神や感情を内包する自然だった。」

 

  こんな実存的文章で始まる本著の、時代のもとで身ゆるぎしながら、自前の思想を養っていった、著者のメッセージを深くうけとりたいとおもいます。 つづいて、新年はじめの文は、この高良著作刊行を支えた、編集者です。  五十嵐記

 

 

『見出された縄文の母系制と月の文化──〈縄文の鏡〉が照らす未来社会の像』

高良留美子 コウラルミコ【著】
ISBN: 978-4-86209-083-6 C1021
[A5判並装]536p 20cm
(2021-06-01出版)
定価=本体3960円(税10%)

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2021年12月26日 遼寧省皮口鎮 黄海の日の出 海の中の手前の仕切りは、貝類の養殖場だそうです

ドイツの日本学者・ネリー・ナウマンは、私たち日本人にむけて『山の神』をはじめとする4冊の本を届けてくれた。

その最後の本、「縄文論」『生の緒 いきのを』の装丁をされた、金田理恵さんの新年賀状です。

 

 

ネリー・ナウマン 著作集

『山の神』 1994年刊(現在品切れ)
『哭きいさちる神 スサノオ──生と死の日本神話像』 1989年刊(現在品切れ)
『久米歌と久米』 1997年刊 amazon
『生の緒 いきのを──縄文時代の物質・精神文化』 2005年刊 amazon

(『生の緒』より)──「縄文人の宗教的思考」は「複雑な体系をした思考であり、人間の抱くあらゆる疑問のなかで最古の疑問、すなわち生と死、とくに未来の生に関する疑問を核心に据えていた」

『光の神話考古──ネリー・ナウマン記念論集』 2008年刊 amazon

記事リンク ✴︎ナウマンさんの思い出 (言叢社ホームページ)

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高良留美子著『見出された縄文の母系制と月の文化 』書評 図書新聞・週刊読書人

棚沢直子氏書評・図書新聞 2021年10月29日号

 

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● 竹倉史人氏書評・週刊読書人 2021年10月29日号

 多彩かつ深遠な眼差し :  『見出された縄文の母系制と月の文化』 書評 竹倉史人 / 人類学者

 

20216月刊行

高村逸枝の女性史研究を継承し、先史縄文に〈母系・母権〉と〈月の文化〉、〈コモンの社会像〉を見出した著者の、生涯をかけた研鑚の足跡をつづる大著。

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高良留美子著『見出された縄文の母系制と月の文化 ―〈縄文の鏡〉が照らす未来社会の像 

・書籍詳細ページ

・amazon

 

 

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高良留美子 (こうら・るみこ) 

詩人・評論家・作家、女性史研究者。1932年生。1962年、詩集『場所』により第13回H氏賞、1988年、詩集『仮面の声』により第六回現代詩人賞など、詩集多数。評論に『高群逸枝ボーヴォワール』をふくむ自選評論集『高良留美子の思想世界』(全6巻、御茶の水書房)、『岡本かの子 いのちの回帰』(翰林書房)など。女性活動家・高良とみを母にもち、『高良とみの生と著作』(全8巻、ドメス出版)なども刊行。

 

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『神話思考 第Ⅲ巻』図書新聞での対談・9月掲載

〈神話思考シリーズ全三巻〉の第Ⅲ巻目が、今年春に刊行しました。

 

・9月に「図書新聞」でインド神話学者・沖田瑞穂さんとの対談が掲載されました。

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   図書新聞  2021年9月11日(土曜日)

    和光大学にて

 

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    (松村一男氏)

 

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    (沖田瑞穂氏)     

 

・神話と宗教は今日もなお、国家や文化の無意識の基層を創り出している。印欧語族の比較神話学から出発した著者が、神話学のイデオロギー性を解体しつつ、現在を包括的にたぐり、〈神話世界〉の構造を読み解いた、シリーズ三著、完成! 

・『神話思考 第Ⅰ巻』自然と人間  2010年刊

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・『神話思考 第Ⅱ巻』地域と歴史  2014年刊

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・『神話思考 第Ⅲ巻』世界の構造  2021年刊    

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-関連記事-

●松村一男・鶴岡真弓 対談『神話思考』をめぐって

ubuya.hatenablog.com

 

 

【仕事で出会った「たいせつな知己・友人」】(その二)

●脇地 炯(わきぢ けい)さんのこと――炯さん追悼

 

〈かくべつの追悼文を残した文芸記者〉
 本年(2021年)1月18日、脇地炯さんは満80歳で急逝した。近くの店に買い物に出かける途中で倒れ病院に運びこまれたまま、亡くなったとのこと。東京では密葬とし、八月、故郷の那智勝浦町海蔵寺で葬儀をおこなうという。炯さんの文章をあれこれ読んでいると、海蔵寺には脇地家代々の墓所があるのだろうとおもった。
 炯さんは北海道大学農学部農業経済学科専攻。卒業後、ただちに毎日新聞社学芸部に入社、同学芸部デスク。セゾングループ堤清二会長との縁で銀座セゾン劇場広報宣伝部長を務めたのち、産経新聞社文化部読書面担当部長、社会部編集委員を歴任。新聞社退職後は、東邦大学薬学部教授を務めた。「剛直文芸記者」として知られ、記者として執筆した記事以上の「格別な記事」である「多くの追悼文」や、とりわけ氏が想いを入れた表現者についての「評論文」は、『違和という自然』(思潮社、1995年3月)、『文学という内服薬』(砂子屋書房、1998年8月)の2冊の文芸評論集に収められている。
炯さんには、いろいろなかたちでお世話になった。文芸記者として知られた炯さんが多くの作家の「追悼文」を残したのは当然といえば当然だが、その追悼の筆致、引き寄せ方は尋常ではない格別なものだった。その炯さんを追悼する文を表わしている人を今のところ知らないので、許されるかはわからないが、炯さんの文芸評論と、炯さんとの出会いについてのいくらかの想い出を記して、追悼の文としたい。

 

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〈追悼文一覧〉
『違和という自然』から
追悼
 鮎川信夫氏――なだめようのない何か
(1986年12月、現代詩読本『さよなら鮎川信夫』)
 立原正秋氏――『光と風』のころ
  (1980年8月26日『毎日新聞』夕刊)
 薬師寺章明氏――温容のなかの暗さ
  (1987年4月『文学と教育』第13集)
 北村太郎氏――鼓舞する声
  (1992年、『現代詩手帖』12月号)
鎮魂記
 祖父のこと
  (1982年8月「告知板」、1983年9月「火の子の宇宙」)
 堀龍一郎のこと
(中学校のとき、海に潜ったまま帰らなかった同級生への鎮魂記。1976年10月、『浦神小学校百年史』)
『文学という内服薬』から
追悼
 祖父母のこと――気ぃいれて身ぃ責めよ
  (平成9年7月17日『産経新聞』夕刊)
 北村太郎氏――アナゴと詫び状
  (平成5年、『現代詩手帖』臨時増刊号)
 埴谷雄高氏 i――心優しい、気配りの人
  (平成9年2月20日産経新聞』朝刊)
 埴谷雄高氏 ii――最後の面会のことなど
  (平成9年2月20日産経新聞』夕刊)
 埴谷雄高氏iii――「自然」超克への“妄執”
  (平成9年2月20日産経新聞』朝刊)
 埴谷雄高氏iv――その朝
  (平成9年、『彷書月刊』7月号)
 中上健次氏――奇縁の鬱屈者
  (平成8年5月、『中上健次発言集成5』月報、第三文明社
 「岬」に見る初心――中上健次を偲ぶ
  (平成8年8月25日『産経新聞』朝刊)
単行本未収録
追悼
 「吉本隆明と私」
(『現代詩手帖』2012年7月号、追悼特集②)
「「衆議院」はお断りだ―吉本さんが新聞に書かなかったころ」
(『飢餓陣営』2012年夏(38)号、編集工房 飢餓陣営)

 2冊の評論集に収められた「追悼文」は以上のとおりだが、その他の文章の中にも「追悼」あるいは「鎮魂記」といってよいものが含まれる。単行本未収録の記事も、私が未見なだけで他にもあるかとおもう。
発表のかたちを見てみると、「追悼」では、新聞記者として書かれた文章が以外と少ないのに気づく。どの追悼文をも合わせみて、際だって驚くのは「埴谷雄高」が亡くなった後に産経新聞の朝・夕刊に重ね続けて掲載された追悼文であろう。このうち、〈埴谷雄高氏iii――「自然」超克への“妄執”〉は、ネット上で『毎日新聞』朝刊と誤認されて長いこと紹介されてきたので、ここで訂正をふくめて、全文を引用しておく。

 

追悼
埴谷雄高氏 iii ―「自然」超克への“妄執”
脇地 炯

 

世界文学と評される長編形而上小説『死霊』の作家、埴谷雄高氏の晩年は、老いという「自然」との意志的な闘いだった。『死霊』自体が、「不完全」にしかできていない人間・自然・宇宙の原理を変更し、人間以上の何かを創造するという徹底的な反「自然」思想に貫かれていることを考えれば、それは思想的な行為とも言えた。自身の「ボケ」をすら観察の対象とし、死の床でも絶えず声を出して、自身を奮い立たせていた。意識は、最後の眠りに入るまで明晰だったという。
しかし、この厳しい反「自然」的態度は自身と作品に対してだけで、作家は他人には、「夫婦ゲンカの円満な調停者」の定評があったように、公正で面倒見のいい、懐の大きな人だった。人間とは矛盾を抱えつつ生きる存在だと、深く知っていたからである。この両面から、カリスマ性も生まれた。
その「お別れ会」は二十四日、東京・新宿区の太宗寺で行われたが、献花の他は面倒な儀式をはぶいた、「スシとビールでにぎやかに」という遺志どおりのカラリとした会になった。『死霊』四章途中までが連載された雑誌「近代文学」の同人、本多秋五小田切秀雄中村真一郎三氏のほか、吉本隆明氏、小川國夫氏、黒井千次氏らゆかりの文学者、読者、出版関係者ら約七百人が参列、八十七歳の最期まで闘った作家をねぎらった。
友人あいさつの中で本多氏は「『死霊』には、生存競争で食われた連中や、(生殖の過程で)世に出られなかった存在にも目を向けなければ、本当のことは分らない、という主張があるが、ひとつこの真意を教えてほしい」と、故人に似た、座を活気づけるための気配りの話題を提出した。また小田切氏は五十年をかけた『死霊』の意義を論じ、中村氏は組織者としても有能で、何事においても変幻自在だった作家を語った。
死去十一日前の二月八日、埴谷氏は見舞いに訪れた本多氏が杖もつかずに歩くのを見て、「くやしい、くやしい」とつぶやいたという。未刊の『死霊』に対する思いと同時に、年齢によって消滅する「不完全な自然」としての自身の身体には、絶対に屈服しないといった、生涯貫いた「反自然」思想の、最後の表現であったに違いない。
        (平成九年二月二十五日、産経新聞朝刊、強調は筆者による)

 

 炯さんの文章のかくべつの特質は、対象とした人物への、執念とさえいえるこだわりの強度であり、この強度には、事態が起こったその現場に立ち会って受け取るという「現場性」が欠かせないこと、もう一つは、なぜ自分がこれほどにかかわったかについて、「その場に佇ちつくす」自己のありようを語ることなしに文章を書いてはならぬという、ある種の自己倫理が語られていることだろう。
追悼文だけでなく、炯さんが埴谷さんを取材・インタビューしたことを報告する「現場性」の文章は、いかにも、とてつもなく「しつこい」のだ。

 

『違和という自然』から
 埴谷雄高――『死霊』をめぐって
  宇宙の「根源以前」へ――『死霊』九章
   (1991年12月12日『産経新聞』夕刊)
  『死霊』七章――「死者」たちの弾劾
   (1984年9月25、26日『毎日新聞』夕刊)
  『死霊』六章――「意識の転覆」への布石
   (1981年3月13、14日『毎日新聞』夕刊)
  『死霊』五章――「存在革命」第一のヤマ場
   (1975年6月24日『毎日新聞』夕刊)


※『近代文学』に連載され近代生活社から四章までの未完結のままに出版された『死霊』初版は戦後日本文学の記念碑として伝説化されていた。この『死霊』続篇が書き継がれるごとに、取材・インタビューをおこなったのが、上記4篇の文章である。

 なぜ炯さんは、これほどに埴谷さんにこだわり、その人柄を敬愛し、距離をちぢめようと重ねて取材し、お宅に通い詰めたのか。
この問いに応えるのは容易ではないが、先の追悼文で、太字で引用した言葉――「自然」との意志的な闘い――こそ、炯さんが埴谷さんの作品と人格から受け取ったものだった。この私的な受容がいかに大切なものだったかについては「追悼 埴谷雄高氏 ii――最後の面会のことなど」にさらっと書かれている。

 

  「『死霊』の作家、埴谷雄高氏が亡くなった。そう書くだけで、名状し難い喪失感を覚える。勝手な思い込みに過ぎないが、氏は、人付き合いの苦手な筆者が、それがこうじてノイローゼに陥っていた青春時代に、そんな自分をどう考えたらいいかを教えてくれた恩人で、以来三十余年、その体験を重ねて愛読してきた作家だからである。記者としても最初のインタビュー以来二十二年、折に触れお目にかかり、一方ならぬ励ましを頂戴した。」「青春期、筆者が埴谷氏の文学から受け取ったものを凝縮して言うなら、それは、他人との間の違和感がこうじてノイローゼになるのも、ひとえに自分のせいだと考えるしかない、という単純なことになる。しかし、その自分は環境や遺伝の総和に過ぎず、自ら遺志して作り上げたものではないから、解体し、組み立て直す対象と考えるほかはないのである。/これは途方もない課題であり、以降筆者がどの程度やれたかということになると、自信などあるわけはない。そのことを教わったときの強烈な蘇生感は今も埋み火のように残っている。」

                            (強調は筆者による)

 

 最後の文をみると、炯さんは青春時代以来の苦しみを埴谷さんに直接に告げ、確かな答えをもらった節がうかがえる。形而上小説『死霊』が投げかける問いは「徹底的な反「自然」の思想」によって、「人間以上の何かを創造」しようとする意思にあり、この意思の基底には自己資質という自然性に対する闘いがあった。そして、「生まれ」ばかりではなく、「老い」と「死」という自然性に対しても、「絶えず声を出して、自身を奮い立たせ」ていたと埴谷さんを追悼している。埴谷雄高という文学者が持ち続けた「徹底的な反「自然」の思想」をこのように教えられると、いったい炯さんは、自己資質の自然性について、埴谷さんと同じ「徹底的な反「自然」の思想」を体現しようとしたことがあったのだろうか。普段お会いしている印象からはそのような意志の陰影さえ見えなかったため、こういう問いを立ててみると、たじろぎをおぼえる。この問いには、ただちには答えられない。だが、ここに示された問題系をめぐって、炯さんが遍歴を重ねてきたことは確かである。その足跡は、いくつか辿れる。

(1)「現代における子供や家族の病理を追跡してきた評論家、芹沢俊介氏の『現代〈子ども〉暴力論増補版』(春秋社)所収の「イノセンスが壊れる時」を読んで、重要な示唆を与えられた気がした。イノセンスとは、大人であるか子供であるかを問わず、人が窮地に立ったときに「自分には責任がないと」感じてしまう心の場所の意味だとして、氏は子供に焦点を当てて次のように説明している。
  「生まれるということは、根源的に世界に対して受け身、受動形なのです。私たちはこの体、性、親、名前などという現実を『書き込まれて』人間として生まれてきたのです。そういう換えがたい事実に対し、生まれてきた当人には責任はないということ、これがイノセンスという概念を考える時の基本的な理解です」(要旨)
 そして氏は、いくつかの例を挙げながら「子供がイノセンスを表出することが、実は同時にイノセンスを解体することでもある」とし、具体的には親が愛情をもって肯定的にその表出を受け止めてやることが、その解体の条件だという意味のことを述べている。つまり、こうした親の存在がなければ、子供は「自分には責任がない」という心の場所を「責任がある」という場所へと転換し、「成熟」への道をたどることができないというのである。(「イノセンス」(平成10年1月19日『産経新聞』朝刊)『文学という内服薬』砂子屋書房所収)

(2)「資質とはいわば宿命の別名である。その主調音が幼少年期の癒やし難い心の傷にあり、人がそのために終生苦しむとすれば、苦悩の責任は一義的には資質形成にあずかった父母、とくに関与が直接的な母にあるということになる。が、母もまた子育てにかかわる固有の資質をその両親に負うという事情から、追及すれば無限に過去に遡らざるを得ず、責任の所在は宙に浮いてしまう。結局は、当人自身がこの宿命を己の責任とみなして直視し、相対化するほかはない。資質としての苦悩は自力で克服し、癒やす以外にないということだ。資質によって人生が決定されるのでは困るのである。」「随所に父母、とくに母への激烈な怒りが表白されているのも当然であろう。私達は心を痛めながら聴くほかはない。しかし、その怒りの一方で、著者は同時に、激しい感情を自身からはぎ取るようにして考察の対象とし、自分たちを含む人間がなぜしばしばこのような理不尽な宿命を担わされるのかという、普遍的な問いに置き直すのである。答は次のようだ。/「誰だって、本当は自分なんてものはない。小さいころから親や周囲の人から『しぐさ』としてバラバラに受け取ったものをつなぎあわせ、物語に形成して自分だとか人格だと言っているにすぎない」(要旨)/資質というものは自らつくれるものではないという認識であり、辛い資質をできるかぎり点検し、なだめ、自分の意志でつくり直したいという希求の表明であるとも読める。これは、このように自身を相対化した考え方さえ持てるなら、親は己の無自覚な資質を押しつけて、子供を「壊す」ことなどないだろうし、子供の方もまた恨みや怒りを絶対化して、親殺しなど無残な破局に突っ込むことなどなくなるはずだ、という主張につながるに違いない。味わうべき、重い発言だろう。(島尾伸三『魚は泳ぐ』書評、『週刊読書人』 2006年6月23日号)

(1)は芹沢俊介氏の「子ども論」の核をつくる「インセンス」という言葉への共感であり、(2)は島尾敏雄氏の夫人・ミホと子息・島尾伸三氏との底深い愛執の実体を捉えようとした炯さんの書評文からの引用である。語り下ろしエッセイ『魚は泳ぐ』は、私たちが島尾伸三さんの語りの反復される凄さと悲悼に感銘を受け、思いの全てを語り尽くすような「エッセイ」を提案して成ったものだったけれど、『週刊読書人』の書評は私どもで炯さんにお願いしたものではなかった。炯さん自身が強く書評を望んだのだと記憶している。この書評は、加藤陽子氏などの書評とともに言叢社のホームページにも一部抜粋のかたちで掲載させていただいているのでぜひ読んでいただきたい。昨年10月、日本学術会議会員への任命を内閣から拒否された加藤陽子さん(東京大学教授)の書評はおもいがけず『文藝春秋』に掲載されたものだったが、この人の対象把握力の凄さはこの文章にもうかがい知られる。学術会議会員たるに十全な資格をもつ方に違いない。
 それにしても、「辛い資質をできるかぎり点検し、なだめ、自分の意志でつくり直したいという希求」という言葉には、埴谷雄高追悼にふれるような反響を聞き取れる。
埴谷さんは確かに自身と作品に対して、厳しい反「自然」的態度を矜持し続けた。けれども、普段暮らしの埴谷さんは、隣人、友にたいして、揺るぎのない信と優しさで接し、「夫婦ゲンカの円満な調停者」であり、「公正で面倒見のいい、懐の大きな人だった(「追悼埴谷雄高氏 iii ―「自然」超克への“妄執”」)という。「どんな事態に出会っても「煮こぼれすることのない大鍋」(文芸評論家・本多秋五氏、『物語戦後文学史』)」であり、「他者には寛容そのもので、対立意見もおおらかに包容できる「理解魔」だった」。それだけではない。「特記すべき例は、『死の棘』で著名な故島尾敏雄氏一家との関係である。家庭問題で傷ついた一家の心の支えになり、ミホ夫人や長女マヤさんから「東京のお父さん」と呼ばれた。島尾氏が芸術院会員を受諾したとき、「作家が国家から特典を受けるべきではない」と息巻く井上光晴氏に対し、「言葉の話せないマヤちゃんの将来を考えれば受けて当然」と島尾氏を擁護した。島尾氏が亡くなった後、埴谷氏はそのマヤさんにクリスマス・プレゼントを送り続けた」(「追悼 埴谷雄高氏 i――心優しい、気配りの人」)。
炯さんの島尾伸三『魚は泳ぐ』書評には、埴谷さんの島尾家に対する眼差し、埴谷さんが伸三氏やマヤさんに対したように、炯さんの優しさもが重ねられている。「資質とはいわば宿命の別名である。その主調音が幼少年期の癒やし難い心の傷にあり、人がそのために終生苦しむとすれば」、資質を宿命として負ってしまった当事者には、責任はない、イノセンスである。では、そこから自己資質を「責任」として受け取る自覚はどうして生まれるのか。ほんとうのことをいえば、「辛い資質をできるかぎり点検する私」とは、いったいどの位相にある「私」なのか。それは、「私」なのか、「私を点検する超自我」なのか、「他者」なのか、あるいは「神」なのか、「超人」なのか、それとも「未来からの視線」、「死からの視線」なのか。「現在が孕む非現在からの視線」なのか。この「点検を促す動力」とは何か。自己資質を真っ白な地に塗り替えようとする「タブラ・ラサ」(白紙還元)の意志を語ろうとしたのではないとすれば、自己資質の底部に深く流れるものの肯定を含まないわけにはいかない。「優しさ」とは、引き受けられないものを引き受ける意志にかかわる。そうして、この設問からの抜け道は、意外にも「しぐさ」という日常の所作にあるのかもしれない。「誰だって、本当は自分なんてものはない。小さいころから親や周囲の人から『しぐさ』としてバラバラに受け取ったものをつなぎあわせ、物語に形成して自分だとか人格だと言っているにすぎない」と。

 

〈深く流れる自己資質の肯定〉
 炯さんは『魚は泳ぐ』書評で語ったように、確かに「自己資質を点検し、なだめ、自分の意志でつくり直したいという希求」を持っていた。けれども、じつをいうと、というか、ほんとうのことをいえば、如上の引用からうかがえる自己資質にかかわる「自然」否定の意志に向けた文章よりも、炯さんの文学評論のもっともすぐれた核は、これから引用し紹介する「森繁久彌論」にあるにちがいない。炯さんは森繁の名演劇「屋根の上のヴァイオリン弾き」に通い詰めた人なのだ。

 

森繁久彌―瞋りと悲哀
他者について語るとは、おおそれたことにちがいない。それでも私どもは、人について倦むことなく語る。それは人それぞれが、おのれを他者と分有したい願いに発しているだろう。
 他者について語るとき、だから、自分の動機を同時に明示することが必須である。いま、芸能に無知な素人が未熟な森繁久彌観を披歴するとしても、事情は変わらない。」
(筆者註。ここに炯さんの自己倫理がある)
「まだ、奉安殿の台座が小学校の一隅に残っていたころだから、私が入学して間もない一九四八、九年のことである。/季節は秋だったか。晴れた日の夕方、私は軍服姿の偉丈夫が、わが家の裏手にあるT家の方へ、ゆっくりした足どりで向かうのを見た。その横顔は黝く、眼はあらぬ方へ捉えられて、光がなかった。どんな容喙(ようかい)をも拒むような瞋りと悲哀と諦念とのない混ざった、暗い気配が放射されていて、私は畏怖の念をおぼえた。かれはT家の長男Sで、タシケントでの抑留生活を終えて帰ったのだと、のちになって聞いた。/教師のYも、戦場にいたこがあるといううわさで、だれも怖れていた。Sと似た体臭をもっていたのたが、かれの場合、瞋りが噴き出て見さかいのなくなるときがあったのである。…(略)…」
「だれもが幼年期に、自分の来し方を考えるうえで、決定的とも言いたいよう体験をもっているだろう。私の場合、そのひとつとして、右の二人の貌をあげることができる。一九四〇年生まれの私に、戦争体験なるものがあるとすれば、そのとき、かれから受け取ってしまった瞋りと悲哀と諦念とが、それにちがいない。この体験は、私だけでなく、私どもの世代にとって普遍的な意味を帯びているにちがいない、と私はのちに信じるようになった。私はここに、私どもと私どもより上の世代をつなぐひとつの通路を見たいと思う。」
むかし、森繁久彌のうたう「戦友」を聴いたことがある。惻々と胸に迫るものがあった。その歌は「森繁節」と呼ばれる、あの精緻な技巧によって、独特のかげりを与えられていた。が私には、その技巧も、そこにこめられた慟哭に比べれば、とるに足らぬことのように思われた。その作詞者にも、作曲者にも、それぞれ無量のおもいがあっただろう。そのおもいに、さらに別趣のヴォルテージを加えて、森繁はおうおうと哭泣し、佇ちつくしているのだった。それは、虫のように踏みつぶされ、死に急いだ人たちへの悼歌であり、森繁自身の魂へのレクイエムであった。私は、そう感じとった。」 
(筆者註。おそらく、ここに記す言葉以上の森繁久彌論は他に容易には見当たらないだろう名文である。『違和という自然』の出版記念会が開かれたとき、森繁さんは会が始まってしばらくのち、会場の上階のドアから入ってあらわれた。何と言って入ってきたか忘れてしまったが、その深く響く声がとどろいたとき、私たちはその声の持ち主の霊威にすっかり支配されているのを感じた。そこには確かな技巧も演出もあるのだが、森繁さんが示した真情はたしかに私たちに滲み伝わったのだった。)
「私は、かれのなかに、人それぞれのあり方を認めようとする粘りづよい包容力とともに、何者かへの炭火のような瞋りの持続を感じた。瞋恚があふれて、とめどがなくなったとき、かれはその頂きに佇んで、嗤いを洩らしてた。」「そんな夜半、私はかれの視線の先のほうに、焼けただれた夕映のような、この世の終末の色を垣間見た気がする。」「私は、森繁久彌の前史をよく知らない。」「しかし、わずかな通交の間に得たその像は、私が森繁像に近づく以前から抱いていたものと、基本的に変わりなかった。私にとって、そのことは大切であった。なぜなら、かれの瞋りも悲哀も、佇ちつくす諦念も、私のなかでは、かつて私に強い印象を与えた二人の帰還兵のそれと、共鳴しているのだから。それは、きっと、私の半生を貫いて、私のなかで響いていたトーンであり、私の目に見えない骨格をつくったものの、大きな部分であるにちがいない。」「それこそ、私にとっての森繁の根底なのであった。」

                            (強調は筆者による)

 

まだまだ引用しておきたい言葉があるが、このくらいにしておきたい。炯さんは森繁論のような文章になると、感情のこみ上げを抑制するような筆致をもはや避けようとはしない。それは、子どもの頃に親の三度目の義母の家に引っ越すのを拒否して、3年間祖父母とともに暮らした、その祖父母との慎ましい暮らしを記した「鎮魂記 祖父のこと」(1982年8月「告知板」、1983年9月「火の子の宇宙」『違和という自然』所収)にもよくあらわれている。

 

「老衰は急速に進行して、祖母はやがて自分のシモ(傍点)のことさえままならなくなった。農家ふうの古いつくりの家だったので便所は離れにあり、そこにたどりつくまでの我慢ができないのである。土間や中庭にたれ流された糞便にカマドの灰をふりかけ、ジュウノウですくって畑の隅に捨てに行くのが孫の日課の一つになった。そうした日々のある夜、やはり離れにあった風呂場で祖父が祖母の下半身をむきだしにし、懸命に洗ている姿を見た。祖父は声を放って泣いていた。――何ちゅう情けない……どら、尻をこっちへ向けんかえ、何ちゅう……。」(「鎮魂記 祖父のこと」)

 

誰にでもある、老いのなかの小さい惨劇の描写なのだが、幼時に人の生き死にの切り口を開いてみせてくれたような体験として出会ってしまえば、もはやこのような体験がもたらすだろう「アジェンダ(問題群)」からの離脱は困難となる。それこそは、自己資質の根源をつくるものだろう。遺伝、生理、家系、親たちの葛藤……、どんな自己資質の起源をたどっても、生まれた時にすでに得てしまった自己資質に責任はないのに(イノセンスなのに)、私たちはどこかで、すでに自己資質に制圧されてしまっている。けれどもまた、自己資質は一つ二つの「逃走線」を無意識にも獲得しえているものだ。そして、時にはこの「逃走線」がはらむ領域こそがその人の力となる。大切なことは、「逃走線」をいつでも無意識に向けて「放下」しておく智慧であろう。この「逃走線」は、普段におこなっている「しぐさ」の中に潜んでいる。
炯さんは、北海道大学「恵迪寮」で合唱クラブ「ヨールカ」を主宰していたという。その頃に小川徳人作歌、炯さん作曲で生まれた昭和36年寮歌「甦えれ白き辛夷よ」や、市川紀行作詞、脇地炯作曲「真珠の海」が大切に残されているのを、紀行さんからいただいて聴いたことがある。私にはわからないが、早春、その調べははるかに北の大地の寮舎からコブシ(辛夷)の花が咲き匂う大路の街並みに響き渡るもののようであった。そうしてまた、あの時、なぜ推薦されたのかよくわからなかったのだが、炯さんは「ブラシャーニエ・スラビャンキ」という旧ソビエトの軍歌をぜひ聴いてみるように、メールしてきたのを改めて思い起こした。その推薦状には次のようにあった。

旧ソ連陸軍の勇壮・悲壮な軍歌で、高齢のロシア人が聴けば必ず涙をこぼすと言われる「ブラシャーニエ・スラビャンキ」(タイトルは英訳、スラヴ娘の別れ)は、元はといえば、愛し合う男女の永訣(ブラシャーニエは、ただの別れでなく永遠の別れの意)の歌らしいですね。聴いてみてください。


「ブラシャーニエ・スラビャンキ」

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「軍歌版」
 

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 なるほど、炯さんは、森繁さんの悲悼の歌の向うにも、「ブラシャーニエ・スラビャンキ」のような音調の歌があるんだぞ、と言っているようでもあった。そして、炯さんには、こんな、炯さんの自己資質をうまく包みこんでくれる脱出線があったのだ。それこそが、二枚腰、三枚腰の記者精神、文芸評論の現場性と情念を支えたのではないだろうか。炯さんは私たちの出版編集活動においても、それとなく、さまざまな礎となる支援をし続けてくれた。炯さんとの出合いからそれ以後まで、私たちはお世話になりぱなしだったのである。
 炯さんがまだ毎日新聞学芸部デスクだった頃。私たちが言叢社を立ち上げ、吉本(隆明)さんの書き下ろし作品『論註と喩』を第一作としてスタートした時から。また、炯さんと関わり深い島尾敏雄さんが戦前に同人としてスタートした同人誌『こをろ』と同人のガリ版通信『こをろ通信』の復刻をしたとき(1981年9月)、また、同じく埴谷雄高さんが同人としてスタートした同人誌『構想』の復刻版(1984年6月)を刊行した時にも、大いに炯さんのお世話になった。『こをろ・こをろ通信』の復刻にあたっては、それより3年前の1978年9月29日に湯島の料亭で旧同人会を開催。この会には、真鍋呉夫氏をはじめ10名の旧同人が参加くださり、復刻版をスタートさせた。この時に、島尾敏雄さんが持っておられたガリ版通信『こをろ通信』をお借りし、その読み下し作業を開始、私たちの一人、五十嵐芳子の父君(五十嵐孝一さん)に1年をかけて原稿を作成してもらい、ようやくにして刊行できたのだった。その頃、私たち同人の中心メンバーだった原澤幸子(前・共同通信文化部記者)が健在で、旧同人会宴席のホスト役を務めてくださった。その時も、炯さんは会に同席し、毎日新聞に記事を載せてもらったのである。もちろん、次に刊行した『構想』復刻版でも同じで、ここでは、復刻にあたって埴谷さんのお自宅を訪問し、付録として「『構想』と私」という冊子を編集し、復刻版刊行後に湯島の料亭での会合を持った。
 これほどのお世話になったのだから、炯さんへの負債は一方的なものだったが、私たちはこの負荷をほとんど感ずることがなかった。そこに炯さんの日常的なおもいやりのかたちがあったのにちがいない。ただ一度だけ『違和という自然』の出版のためのみの、吉本さんへのインタビュー記事を掲載することになり、その手助けをすることになった。インタビューをおこなったのは、1994年8月22日、山の上ホテル旧館の一室で、同人の五十嵐芳子がお手伝い役として同席した。この時のインタビューはなかなか興味深いものだったと聞いた。記事には盛り込まれなかったが、吉本さんは美男である炯さんの自認を持ちだして、そこが問題だといって、時によくやる「いじめ」を愉しんだらしい。「いじめ」と言ってよいのだとおもうが、ずばりその人のありようを衝くものだったのだろう。これに対して炯さんは、ひたすらに冷や汗を流してかしこまったらしい。のちのち「いやあ、あの時は参った」と繰り返し語った。山の上ホテルでの会合ののち、炯さんは吉本さんを案内して、堤清二さんが親しくしていた四谷の食事処で時を過ごした。
 前回紹介した茨城県・元美浦村長の市川紀行さんを私たちに紹介してくれたのも、炯さんであり、このことについてはすでに書いた。
炯さんの故里の那智勝浦への想いは尋常なものではなかった。ごく親しい人へ贈る「那智勝浦の干物」は炯さんにとって格別のものだった。産経新聞社文化部の同僚だった田中紘太郎さんは鹿児島出身で、薩摩特産の「さつまあげ」は特別と自慢すると、いやいや「那智勝浦の干物」こそ特別と自慢の言い合いとなり、話は尽きなかった。
私たちは歳をとっても仕事にせわしなく、最近は親しくお会いする機縁も少なくなっていた。吉本隆明さんが亡くなった日に集う「横超忌」(3月16日)には、あまり気の進まない私に繰り返し電話をくださり、その誘いを理由に参加したことも、欠席したこともあったが、生前に吉本さんに深く思いを致した者同士として、こりずに誘ってくれた炯さんの優しさを改めておもい起こさずにはおかない。
炯さん、どうか故里の那智勝浦で、ひたすらに愛おしんだ郷土の滋味の「干物」をたっぷりと味わい尽くしながら、このさびしい日本の文化社会の現状を、その熱く優しい眼で見据えつづけていてください。さようなら。    
                   2021年8月13日  82歳の誕生日に(島亨記)

 

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【仕事で出会った「たいせつな知己・友人」】(その一)

● 年々、夏の天気がはげしくなってくる・・・

日本列島らしからぬ暑さに溺れながらも、日々汗を拭いつつ街を彷徨ううちに、いつしか摩天楼で切り取られた都会の空にも秋の気配が感じられるようになってきました。

「仕事で出会った、たいせつな知己・友人」と題して、さまざまに想い出すことごとを、頂いた本をてがかりにして、書いてみました。

つれづれなるままに、続けてまいります。

 

 

●市川紀行さんのこと――『市川紀行詩撰集』(三部作、菜の花舎)を贈られて

 

『市川紀行詩撰集』三部作
(一)「母に」+LONG POEMS
(二)なごりの歌たち
(三)付録 Memories(歌曲集・劇団と上演作品・市川紀行年譜・編集後記)
(2020年12月1日発行、菜の花舎=茨城県土浦市下高津3-13-3 増尾方)

 

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〈お会いする機縁となったこと〉

 茨城県稲敷郡(いなしきぐん)美浦(みほ)村、元村長の市川紀行さんは、毎日新聞文化部・産経新聞文化部の記者だった故・脇地炯(わきぢけい、2021年1月に逝去)さんから紹介をいただいた。2012年前後だったかとおもう。
2011年3月11日14時46分に起きた東北地方太平洋沖地震による地震津波大災害、これにつづいて東京電力福島第一原子力発電所での苛酷事故により放出された、危険な濃度の放射性プルームが広範囲に流れ、その広がりは福島県にとどまらず、関東全域にまで及んだ。日本在住外国人の東京からの退避も叫ばれ、事実、かなりの人が関西へと逃避するほどだった。
私の居住する神奈川県の自宅の雨樋下で3月20日過ぎに放射線量を測ると、簡易測定器の数字がどんどん上がって0.6マイクロシーベルト/hourにもなったので、ひどく驚いたのを覚えている。雨水の放射能が樋下の石の上に貯まった結果で、この年の秋に訪ねた福島県福島市飯野町旅館での空間線量は0.8~1マイクロシーベルト/hour、福島県飯舘村長泥地区(飯舘村で今なお帰還困難区域に指定されている)での空間線量は9.06マイクロシーベルト/hour 以上だったから、比較にならないとはいえ、神奈川でもごく小さい空間に蓄積された放射性物質が発する放射線量はかなりのものだったのである。
この国に起こった未曾有の原発事故にいかに対処すべきかは、国や自治体、東電の対処だけではすまない。地域住民がまるごと被災する事態では、空から襲ってくる放射性物質汚染に対して、われわれ自身が防御の基準を打ち立てなければならない。私がそうおもったのは、その都度に打ち出された避難の基準となる放射線防御の基準がきわめてあいまいだったからである。そのような対策を打ち出す国の防御対策、避難基準が信じられない。信じるにたる基準はといえば、本来なら科学者が示してくれて、それをもとに政治家が明確な政策をうちだすべきはずだったが、どうもそのようにはなっていない。それはなぜかを含めて、原発過酷事故の実体を自前で追究し、組み立てなければと思いつめた。材料は、あくまで公表されている資料類だけで考えを詰める。これができないなら、市民にとっての自前の対処策の確立は成り立たないと思いつめたのである。

放射線被災の実態調査では、福島県浜通りから中通りの市町村を訪れたが、これを機に、1999年9月30日に茨城県東海村で起こったJCO臨界事故に対して、当時の東海村長が事態にどのように対処したかなど、過去の原子力施設関連事故や自治体の対処のあり方などの取材も拡張しておこないたいとおもい立った。
かねて脇地炯さんからは、友人として元美浦村長の市川紀行さんの存在をうかがっていた。炯さんは、私たちの意図を汲んでくれて即座に市川紀行さんを紹介してくれた。美浦村行を計画して同行までしていただいた。2012年11月30日、はじめて美浦村を訪問、紀行さんに案内されて陸平貝塚遺跡を見学、さらには信太のお自宅まで招待いただいた。また、土浦への帰途には、霞ヶ浦水上機練習場跡地なども案内してくださった。ここで訓練した海軍航空隊員はやがて米軍艦船への特攻を行なって死んだ。これらの旧軍戦争遺跡をふくめ、この湖浦一帯の地政・文化が列島のなかでどれだけ重要な位置を占めたかは、のちに、『佐原の大祭』の執筆・編集のための調査などで思い知ることとなった。霞ヶ浦の漁撈文化を調査した網野善彦の若き日の論文「霞ケ浦四十八津と御留川」(『日本中世の非農業民と天皇』所収)に接したのも紀行さんとお会いしてのちのことだった。「ああ、この湖浦のことだな」と実感できたのは美浦村行の経験があったからである。

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美浦村訪問1、文化財センター前にて。中央・市川紀行氏、右・脇地炯氏、左・島亨

 

〈北大「恵迪寮文化」に育まれた友情〉
脇地炯さんと市川紀行さんとは、北海道大学農学部学生だった頃の友人。炯さんは農学部農業経済学科専攻、紀行さんは森林科学科(林学)専攻。二人は三大寮歌の一つ「都ぞ弥生」で知られた恵迪寮に入り、炯さんは合唱クラブ「ヨールカ」を主宰、紀行さんは「フランス会」(恵迪寮)「劇研ミザントロープ」(恵迪寮)をつくり、札幌市の「劇団イフの会」にも参加、活発な文化活動をおこなっていた。そこでは、今ではもう得られないだろうような北海道農学校以来の寮文化が生きていて、札幌市街のゆったりとしたたたずまいの中で、「青春」が育まれていた。お二人の話を聞いていると、そんな情景がおのずと浮かびあがってくる。そして、ここには「青春」とともに、確かな「友情」もまた育まれていた。紀行さんと炯さんの友情である。記者仕事の職を転々し、自宅マンションを構えるのに苦労する炯さんに、紀行さんは黙って資金の補いをしてくれた裏話などを淡々と聞いた覚えがある。その補いの大きさから、尋常でなしうるような友情ではありえないとそのとき思った。
紀行さんが暮らす稲敷郡美浦村は、茨城県南部、霞ヶ浦南岸の村である。紀行さんにお会いするまで村の名前を知らなかったが、一つだけ覚えがあった。それは、今井正監督の名画『米』(1957年制作)の舞台となった土地はこのあたりではないかという推測であった。霞ヶ浦対岸の二つの村の農漁村のきびしい暮らしを描いて、強い印象が残っていた。対岸の村への青年たちの夜這いの場面や、今では特別の場でしか見られないワカサギ漁をする「帆引船」の風景などがすぐに想い浮かぶ。美浦村信太のお宅を訪問した際、もしかしたらこのあたりではないかと聞いてみると、紀行さん自身、『米』のロケに関わったことを教えてくれた。この映画でだけ、ひたむきに生きる娘を演じて美しい顔だちをみせてくれた中村雅子という女優の姿を、合わせて想い浮かべたのだった。

その美浦村にはまた、明治12(1879)年に発掘され、「日本考古学の原点」とされる貝塚遺跡がある。東京帝国大学の学生でエドワード・モースに学んだ佐々木忠次郎、飯島魁により初めて発掘がおこなわれた陸平(おかだいら)貝塚である。モースが東京品川区の大森貝塚を発掘したのは明治10年の秋であり、それより2年後のこと。かつてはおそらく霞ヶ浦南岸に近い島だったろう東西約250m、南北約150mの舌状台地に、縄文前期から後期にわたる遺物が環状に広がっており、日本の先史考古学史上、重要な遺跡だった。

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美浦村訪問2、陸平貝塚の残る安中台地

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美浦村訪問3、縄文貝塚と安中台地




ところが、この湖浦に面した舌状台地の美しい景観をあてこんだ民間の住宅団地建設の計画が立ちあがり、遺跡は破壊の危機に瀕した。この事態にたいして、村長だった紀行さんは荒廃した周辺地域の開発と文化遺産保存の両立ができるような方途がないものかを模索した。このことを聞いた炯さんは、ちょうどその頃、毎日新聞記者をやめ、セゾングループ会長・堤清二氏(作家・辻井喬としても広く知られる)のもとで、銀座セゾン劇場広報宣伝部長を務めていたのだとおもう。美浦村の遺跡と景観を生かした開発を構想してくれる人として、美浦村長・市川紀行氏に堤清二氏を紹介した。堤氏は現地を視察して、即座に、この一帯をリゾートとして開発するとともに、その内部に遺跡公園をつくって保全する構想を立ててくれたのだった。1989年、西洋環境開発による安中地区総合開発第一期計画が着工。1993年、「美浦ゴルフ倶楽部」がオープンするとともに、ゴルフ場およびゴルファーの寄付による遺跡保存のための「陸平基金」が美浦村に創設される。
こうしてはじまった構想は最終的に、舌状台地の湖岸に、南の潮来(いたこ)地方へと結ぶ航路を開発する計画まで描かれていた。それが実現していれば、霞ヶ浦の景観と集落文化とが融和したリゾート開発の大きなルートと拡がりが生まれるてはずであった。紀行さんに案内されて陸平貝塚公園を見学しつつ、この大きな夢が潰えた無念さを思わずにはおれなかった。

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美浦村訪問4-1、陸平貝塚の貝層

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美浦村訪問4-2、今もびっしりと残る貝を拾う炯さん

残念なことに、セゾングループと「西洋環境開発」は解体を余儀なくされた。解体によって、リゾート開発の全体像も姿をあらわすことなく終わった。けれども、堤さんは、陸平貝塚遺跡の一帯だけはきちんと保全し、美浦村にそっくり無償寄贈してくれたという(1997年)。美浦村では、この一帯を陸平貝塚公園として整備し文化財センター(博物館)をつくるとともに、住民ボランティア組織として「陸平をヨイショする会」が堀越實・靖子夫妻を中心に発足、考古学史上の大切な遺跡というにとどまらず、霞ヶ浦一帯の先史縄文文化の価値、湖岸文化の新たな創造の媒体となる市民運動として活動を続けている。同会は、2008年2月、第33回藤森栄一賞を受賞(会長・堀越靖子)、さらに2015年6月には、和嶋誠一賞を受賞している(会長・市川紀行)。これらの活動を支えてきたのも、紀行さんたちである。

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美浦村訪問5、陸平貝塚10号土壙

 

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美浦村訪問6、明治の発掘で出土した見事な双口土器

 

〈議員、村長としての事績〉
 さて、市川紀行さんの事績の核心にあるものは、「東海村」とともに茨城県に二つしかない「村」議会議員、首長としての事績だろう。昭和56(1981)年、村議会議員の時、霞ヶ浦湖岸に設立された半導体メーカー日本テキサスインスツルメント美浦工場が操業を開始するにあたり、霞ヶ浦の浄化運動に取り組んでいた「土浦の自然を守る会」のメンバーとともに、「工場排水のクローズドシステム」を村と企業に提案、企業はこれを受け入れて、工場排水によって湖水を汚さない操業システムができあがった。茨城県はこれを受けて霞ヶ浦富栄養化防止条例を改正、工場排水のクローズドシステム採用が全国化する機縁の一つとなった。
 以後の叙述のために、初めに書いておきたいのは、この村に中央競馬会の「美浦トレーニングセンター」が置かれていることだ。広大な敷地内に、厩務員宿舎・騎手宿舎・独身寮・職員宿舎など、競馬関係者の生活のための施設が設置され、家族をふくめておよそ5000人が暮らしているという。その多くは美浦村あるいは周辺の市町に居住している。美浦村政を考えるとき、その財政的基盤となっているのが「美浦トレーニングセンター」の存在である。同センターの開所は、昭和53(1978)年4月。紀行さんの村会議員時代である。
 昭和57(1982)年12月、美浦村長選挙の立候補に先立って、青春の総決算として詩集『朝の場所』(意匠工房はやし)を淀川紀行の名で出版。
翌昭和58(1983)年、在職二期7年5か月で村議会議員を辞職して村長選挙に立候補、4月、現職を凌ぎ、当選を果たす。
詩集の著者名「淀川」は旧姓。紀行さんは高校時代の同級生である市川昭子さんと結婚し、妻の郷里である美浦村に転居、昭子さんの母が引き継いだ製材会社を引き受け、「市川建設工業株式会社」を設立。村議会議員になるまでは、実業に専念してきた。
詩集にはランボオロートレアモンの影響がうかがえる。紀行さんの「詩」への断念と実業への志は、この詩集の背景をつくる生への意思であろう。あるいは、若くして自死した原口統三『二十歳のエチュード』を読んで、「純粋」という詩魂をいかに取り扱うかについて思いを詰めたことがあったかもしれない。

 

  「俺は悲壮な追想と思い出に分れを告げた/目を閉じると優しい深淵があった/そして、俺は泣きながら、黄昏の中に立ったのだ。/中門は辺りに舞い下りてきた夕空を支配していた。/俺は生気を吸い込んだ………」(「一夜の宿り」)

 

 これはたぶん、紀行さんが青春に奈良の法隆寺あたりを彷徨したときの詩篇であろう。

ちなみに言えば、紀行さんは満鉄調査部社員だった父のもと、旧満洲国撫順に生まれ、1947年、撫順市永安小学校に入学ののち、同年夏、帰国。茨城県牛久村(現、牛久市)の牛久小学校一年に転入している。後に書くように、紀行さんの詩心や詩情には、この大陸的感性がうかがえるのかもしれない。原口統三が兄のように敬愛した詩人・清岡卓行も大連で過ごした。その処女詩集『凍った焔』(書肆ユリイカ、1959年)を、私もまた長く座右の詩集としてきた。

村長になってからの仕事は、大きくわけて、(1)とりわけ弱者に配慮した村民の生活基盤確立のための諸施策、(2)地域文化遺産保全と地域文化の創造、(3)その他の3つだろうが、注目したいのは(1)の諸施策だ。

 

〈生活基盤確立のための諸施策〉
◇老人医療無料化を目的に老人健康手当を創設(1984年)
美浦村社会福祉協議会に在宅心身障害者社会適応訓練施設「ホープ農場」(後に「ホープ作業所」、現「自立支援センターホープ」)を設立(1987年)
◇働く女性支援のため、近隣市町村に先駆けて児童館を設置(大谷児童館 1987年、木原児童館 1998年)
◇湖岸地区の井戸水質悪化から全村水道化計画の推進とあわせ、霞ヶ浦浄化を目指した農村下水道工事を進める。(1987~89年)
◇保健センター(サンテホール)の設置。(1990年)
◇米の減反政策に伴う水田活用策として、南高梅やイチジク栽培を導入、減農薬・環境重視農業を示すロゴマークを作り、農産品の特産化を図る(1992年)
◇農業集落排水事業全国推進協議会会長を二期務める(1993~1994年)

ざっと列挙してみた諸施策は、それらを実施した時期をみなければわかりにくいが、いずれも最も正当に果たされるべき村民生活基盤の確立のための施策だったことがわかる。紀行さんの村長としての施策を支えた精神は、昭子夫人から村長当選に際して贈られたという深沢晟雄の記録『村長ありき』によっても語られている。深沢晟雄は岩手県沢内村(現西和賀町)で老人医療無料化を推進したことでしられる。雑誌『岩手の保健』の編集人だった大牟羅良の『もの言わぬ農民』とともに、深沢晟雄の名を私もしっていた。あるいは、紀行さんと交流のあったという佐久の医師・若月俊一氏についても、私もまた佐久病院に先生を訪ねたことがあった。若月医師は、佐久の農村医療に画期をもたらした人である。かつて親しんだ人の人格や書物への確かな想いが村長となった人の施策の精神を支えるということがあるのだ。紀行さんはまた、子どもの頃、作家・住井すゑの薫陶を受けた。その「住井さんの言葉に恥じることのない」「湖岸文化の息づくまち・美浦」をむらづくりの基本にかかげ立て、打ち出した。それらは今ではごくあたりまえに見えるけれど、実際はなお、確実に達成すべき大切な施策であった。

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美浦村訪問7-1、保全された陸平貝塚の自然

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美浦村訪問8、国指定遺跡記念碑にて、右から市川紀行氏、五十嵐芳子、脇地炯氏、島亨

 

〈地域文化遺産保全と地域文化の創造〉
そして、(2)の「地域文化遺産保全と地域文化の創造」。このうち、前半の「地域文化遺産保全」は、美浦村の自然と歴史に息づいてきた地域遺産を掘り起し、これを現在の文化景観として再創造するもの。「陸平貝塚公園」の設立はその最大の施策だった。

◇前述のとおり、セゾングループ会長の堤清二会長の全面的な協力をえて、縄文遺跡陸平貝塚の保存と活用をシンボルとする「安中地区総合開発計画」を発表。(1986年)
◇翌1987年、「陸平貝塚」の保存と活用のための「陸平調査会」が発足。調査団長には後に明治大学学長となる戸沢充則氏が就任、陸平貝塚文化と遺跡遺物の総合調査のため、発掘では貝層の範囲確認調査、台地平坦部上の試掘調査などを実施。
◇1990年、「陸平貝塚博物館構想基本理念」を提示し、陸平貝塚の保存エリアとして縄文景観を含む14ヘクタールを決定。
◇陸平貝塚及び周辺地区動植物調査実施。戸沢調査団長により「陸平貝塚動く博物館構想」が発表され、これをもとに「陸平貝塚博物館(仮称)基本構想検討委員会」を発足させる。
◇1993年、安中地区総合開発計画による「美浦ゴルフ倶楽部」オープンとともに、遺跡保存のための「陸平基金」を創設。

◇1995年、地域資源を活用したまちづくりとして「ハンズ・オン陸平」事業がスタート。同年10月、第1回陸平縄文ムラ祭りを開催。以後、毎年開催。
◇1990年~1996年、住民アンケートを基に、村の中心部に総面積16.7ヘクタールの総合公園「光と風の丘公園」を整備。多目的競技場、夜間使用が可能な野球場やテニスコート、クラブハウス会議室などの施設、林間レジャーゾーン、子ども広場など。
◇1991~1996年、中世木原城址を発掘調査し「木原城址城山公園」を整備。
◇村民人材を活用した村史研究を進め、通史『美浦村誌』(1995年)、民俗『ふるさと美浦の民俗』(1999年)、伝承伝説『ふるさと美浦の昔物語』(増尾尚子編著、1999年)の村史三部作を刊行。
◇1997年、安中地区総合開発担当のセゾングループ西洋環境開発が事業撤退。堤会長の意向により買収済み所有地を美浦村に無償寄贈。
◇同1997年11月、陸平貝塚遺跡のA貝塚北側の台地平坦部を発掘調査(2004年に発掘調査報告書を刊行)。この発掘調査中に、陸平貝塚の保存と活用からの地域文化創造をテーマに、「歴史遺産の保存と活用からの地域文化創造」と題したまちづくりフォーラムを開催。
◇1998年9月、陸平貝塚が国指定史跡となる。
◇1999年5月、紀行さん、4期16年の美浦村長を退任。

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美浦村訪問9-1、妙香寺薬師堂

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美浦村訪問9-2、妙香寺薬師如来立像

 

〈個性的な文化活動が村長時代にすでに始まっていた〉
 陸平貝塚遺跡保全にはじまる紀行さんを中心とした活動が、そこからどのようなひろがりをもって展開し、美浦村湖岸文化創造の拠点となったことが、これらからわかるだろう。この広がりの中に、中世城址整備や「光と風の丘公園」などの村の景観と暮らしを豊かにする施策への展開もふくまれている。
 そうして、もう一つ後半のテーマ「地域文化の創造」に向けた諸施策。この施策は、じつは紀行さんが村長時代に萌芽しつつ、村長退任後にその活動は自由に展開するものとなった。たとえば、

◇村中央公民館落慶記念として、村民200名がドイツ語合唱でとりくむベートーベンの「第九演奏会」を開催、全国初の「村の第九」としてテレビ、新聞に大きく取り上げられる。(1983年12月)以後、村長在職時代に4回開かれ、さらにこの合唱団から「美浦コーラス」が誕生、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」、オペラ「椿姫」「夕鶴」などが上演される。以後、村主催の芸術鑑賞会、音楽フェスティバルなどが継続して催されている。ちなみにいえば、紀行さんの友、炯さんは森繁久彌とかくべつに親しかった。森繁の名演技で知られるミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」に炯さんは幾たびも通っていた。もしかしたら、紀行さんも帯同したことがあったのかもしれない。
◇1997年11月の陸平貝塚発掘のさなか、「歴史遺産の保存と活用からの地域文化創造」と題したまちづくりフォーラムを開催したと前述したが、この時、小峰久美子演出のオープニング創作舞台で市川紀行作詞の「陸平よはるかに」(作曲・高橋美恵子)が初めて歌われる。

 市川紀行作詞・高橋美恵子作曲の「陸平よはるかに」には、紀行さんの詩(うた)とこの土地の地霊の声とが響働するような「地域文化の創造」がねらわれている。村長在任中だったが、村政の施策というよりさらにいっそう紀行さんの「個人としての文化活動」の傾きを感じさせる活動を次に記す。ここにはまた、とくに、昭子夫人の独自の村への貢献となった活動についても書いておきたい。こうした文化活動は、紀行さんの村長退任とともに、さらにより自由におこなわれるようになる。

◇紀行さんは女性の活躍する場を広げる施策をおこなってもきた。1985年、美浦村初の女性教育委員として堀越靖子を選任。堀越さんは1994年まで在任、また「陸平をヨイショする会」の会長を務めたが、今年、2021年6月、89歳で逝去された。
◇1991年5月、美浦村社会福祉協議会にボランティア連絡協議会を設置、ボランティアの育成、活動支援を進める。また、昭子夫人も1987年より子どもたちに読み聞かせを行うボランティアグループ「お話し会虹」で活動、協議会にもかかわり、2005~2015年の10年間、協議会会長を務める。
◇1983年10月、昭子夫人が茨城県主催の女性人材育成事業「茨城婦人のつばさ」(後に「女性のつばさ」と改称)に参加。イギリス、デンマークスウェーデンを訪問。この後、県南地区の国際交流ボランティア「コスモエコー」に所属し活動。美浦村でもボランティア活動の推進に関わる。「茨城婦人のつばさ」という語句を読んで、ああ、そうだったのかと思いあたることがあった。それは、福島第一原発苛酷事故によって村からの避難を余儀なくされた市澤秀耕・美由紀夫妻の『山の珈琲屋 飯舘 椏久里の記録』を刊行した際にはじめて出会った言葉だったのだ。平成元年、市澤美由紀さんは村主催の海外研修「若妻の翼事業」の第1回生としてフランス・西ドイツの10日間の旅をした。その時の経験が書かれていた。農家の暮らしを日々とする村の主婦にとっての海外旅行は、都会人のあたりまえの海外旅行とはおよそ異なる深い影響を参加した主婦たちにもたらしいことが書かれていた。帰国した主婦たちは、『天翔けた19妻の田舎もん』という冊子までもつくり、農村主婦たちの生活に大きな変革さえもたらしたのだ。その時には、飯舘村だけの企画と思っていたが、「茨城婦人のつばさ」という言葉にふれて、同じような「海外研修」の旅が自治体のあいだに広がりをもっていたことがわかった。
◇1989年5月、かねて霞ヶ浦の再生をめざし、住民の交流、研究、教育活動を進めるシンクタンク霞ヶ浦情報センター」(代表・荒井一美)の設立と運営に関わる。同、センターは、1996年7月より社団法人霞ヶ浦市民協会となる。8月、昭子夫人、イギリス短期英語留学。
◇1993年3月、昭子夫人の母・市川スズの句集『舞ひ納む』を刊行。演劇『舞い納む―我が母の伝説』が、2007年2月、劇団「宙の会」の第五回として公演もされた。一度おこなわれたことが、形をふくらませて反復され展開するのが紀行さん流の表現行為のすごいところ。
◇1996年3月、母淀川いちの『ちぎり絵集』を刊行。翌、1997年6月、母のように慕っていた作家・住井すゑ逝去。住井すゑさんは、明治期、奈良県被差別部落(小森部落)を舞台とした大河小説『橋のない川』(全7部、新潮文庫)で知られる。牛久に居住し、紀行さんはすゑさんのもとに通ってかわいがられたという。亡くなる1年前の市川いちの『ちぎり絵集』には、その巻頭に「ちぎり絵集によせて」と題するすゑさんの言葉が寄せられていた。
 「お子のひとり、紀ちゃんも母をやっと安心させることができたということか。ずっと昔のこと、淀川さんが来られて、紀ちゃんが何処かへ黙って行ってしまってどうしたらよいかと嘆かれた。私は放浪の旅とは面白い、それは頼もしいと慰めたが、そんなことなど懐かしく思い出される。」と。紀行さんには、何人もの母がいたのだ。同年7月、茨城県稲敷郡茎崎町(現、つくば市)圏民センターですゑさんの「お別れ会」(住井すゑさんと未来を語る会)及び翌年から7年間毎年開かれた、住井すゑをしのぶ会「野ばらの会」に関わり講演等を行う。

 ここまでが村長退任前の紀行さん(及び夫人)の活動である。なすべきことを果たしたという充足感のなかで、さらなる旅への意思をたぐろうとしたのだろう。退任の翌年、紀行さんは、早くから決めていただろうヨット帆走や地球一周の船旅という個的な新しい行動に打って出た。村長席にいるかぎり決してできない休暇の旅。このあたりは、ちょっと真似できない。

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美浦村訪問10、帰途に訪ねた霞ヶ浦水上機練習場跡地

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美浦村訪問11、帰途に訪ねた霞ヶ浦水上機練習場跡地にて



美浦村長退任後の活動〉
◇2000年2月、50日間にわたるNGOピースボート地球一周の船旅に参加。船中にて、戯曲「陸平ファンタジー」(安じゅとかすみ物語)執筆。
◇2001年春、村長退任後から始めたヨットで、単独霞ヶ浦帆走。5月、地域劇団「宙の会」結成。11月、旗揚公演として地域の伝承を題材にした創作劇「信太の小笛」三幕を美浦村中央公民館ホールで上演。以後、札幌時代の経験を活かした演劇活動を10年間続ける。そうみずから綴るように、ここに青春の頃から文学・芸術に親しんだ紀行さんの真骨頂があらわれている。だが、それだけではない。美浦村長として経験した自治体政治のありようを踏まえたさらなる活動もすがたをあらわす。
◇2001年6月、地方自治文化研究会「一望塾」開設。以後、毎月1回信太地区公民館で開催。熟生より美浦村及び近隣市町村首長、議員誕生。
◇2002年7月、一望塾一周年記念として、国際ボランティア小山道夫氏を招き、講演会とベトナム「子どもの家」支援コンサートを美浦村中央公民館で開催。
◇2004年6月、一望塾第30回三周年記念としてドキュメンタリー「住井すゑ百歳の人間宣言」上映会及び住井すゑ次女・評論家増田れい子講演会をつくば市ノバホールで開催(実行委員長・市川紀行)。
◇同年9月、陸平をヨイショする会(会長・春日清一)が十周年記念誌『ようこそ陸平へ』を発行。堤清二特別寄稿「生きている陸平の歴史」を掲載、村内で行われた記念パーティには戸沢充則明治大学名誉教授とともに、堤会長も特別参加する。
◇同年10月、市川甚兵衛・スズ往復書簡集『戦地からの手紙』を編著刊行。
◇2006年1月、昭子夫人の母スズ92歳で逝去。

◇2007年7月、母いち96歳で逝去。
◇2009年、昭子夫人、日本書作院より奨励賞を受賞。同年4月、陸平をヨイショする会5代目会長となる。
◇2014年10月、「東海第二原発再稼働を止める会」を村上達也(前・東海村長、退任ののち茨城県市民連合代表などを務める)、先崎千尋(元・瓜連町長)、野口修(元つくば市議)、披田信一郎(元竜ケ崎市議)、秋山康子(元県庁)、小張佐恵子(彫刻家・反原発活動家)、長田満江(元筑波学院大学教授)らと設立、村上達也とともに共同代表となる。
◇2015年3月、陸平貝塚の保存と活用を未来に繋ぐ記念碑の会(174名、20団体、世話人増尾尚子・宮本きみ子・小峯久美子・岡野正枝)による顕彰碑が建立され、「陸平よはるかに」の詩が石碑に刻まれる。
◇同年8月、戦後七十年平和記念映画会「ひろしま」を、稲敷市美浦村阿見町の実行委員、美浦の女性活動を未来につなぐ会とともに開催、実行委員長となる。
◇2016年5月、つくばりんりんロード土浦~真壁(往復40km)のサイクリングに挑戦、完走。
◇2018年3月、陸平をヨイショする会が設立二十周年記念誌「陸平よはるかに」を刊行、戸沢充則、堤清二両氏への特別感謝追悼文を寄稿する。
◇同年6月、心臓大動脈瘤と弁膜症の大手術を土浦協同病院で受ける。いったん退院したが、11月になり、関連感染症により緊急再入院、一時、生死の間を彷徨する。昭子夫人、家族、友人のはげましえて、翌年3月までに奇蹟的に回復する。
◇2020年8月・12月、『市川紀行詩撰集・アンソロジー(Ⅰ)(Ⅱ)及び市川紀行詩撰集付録Memories』の三部作を刊行。

 

〈青春の詩篇から変わらぬ「言語声調の響働」〉
 じつをいうと、以上の紀行さんの年譜的記録は、この三部作の『付録』から、労をいとわず、ほぼそっくり引用させてもらいながら、すこしだけ恣意的な書き込みを加えたにすぎない。なぜこのようにしたか。今回、贈呈された三部作だけでなく、以前に頂戴した本、淀川紀行詩集『朝の場所』(意匠工房はやし、1982年)、市川紀行著『村長室随想―湖畔の村にて』(筑波書林、1989年11月)などもふくめて、紀行さんの全的なすがたに触れて書いておきたかったからだ。
ふつうにいえば、一人の詩人なら、詩人としての表現を中心に味わったものを受けとめ書いておけば良いだろう。けれども、紀行さんのように、青春期にある表現の達成をなしえた詩人にとっての、それ以後の全的人生をどう伝えるのか、この両方をとらえるのにむずかしさを感じたのだ。紀行さんが若き日の詩に、相当の自負を持っていたことは『朝の場所』の「中村公省への手紙」の一文からも伝わってくる。

 

「ところで、僕は僕の詩が好きだ。田舎に引っ込んで十数年、砂利や砂をスコップで積み込む方法こそ機械に変わって、僕はもうやらないが、すぐの四・五年は汗と苦痛で全く思い出しもしなかった。僕は僕の詩が好きだ。何年も埃をかぶっていたものに古さを感じさせないものが沢山ある。勿論、僕だけにしか意味のない詩も多いが、純粋に、観客的に芸術性を獲得している「名編」も十指に余ると思う。それらはイマージュの把握、詩への抽象、存在感、濃度と透明さにおいて、これからの詩人が越えねばらぬ資質と到達だと信じる。口惜しければ書いてみたまへだ。吉本隆明鮎川信夫清岡卓行吉岡実の当時の詩が本当に好きだった僕が云うのだから間違いはない。(君の前で僕は少しおどけているよ)」

 

 少し「おどけ」を含んでいるとしても、これは相当な自負を語るものだろう。紀行さんが地域劇団を創造して自作戯曲を演出したなどの後の作品は、作詩をふくめて、易しい言葉を用いてより自然の情感を湛えるものとなっていることをおもうと、青春期の自作詩言語の彫塑にたいする自恃は、並大抵のものではない。上記の文に続いて、紀行さんは自己感性の由来を語っている。

 「僕の父は満鉄の人事部に居て中国語がうまかったそうだ。だから僕は大陸侵略時代の植民地の子だ。僕はよく父に連れられて中国人の家に行った記憶がある。小学校は向うで入ったから、けっこう色々な出来事や風景を憶えている。眼をつぶれば、遠河の夕日や、紫色の並木道を浮べることが出来る。ふるさととは何処を云うのだろう。僕は土着性などという言葉を聞くと妙によそよそしくなる。一般化された用語としても、肌に合わない。幼児期の原風景の欠落は国籍とか、国家などというものへの嫌悪、良くいえばコスモポリタンな感情を形成するのだ。僕の詩が日本的でないのは、ひとりランボオの為ばかりではない。」

 紀行さんが、自詩の根底には故郷といったものの原風景の欠如があり、コスモポリタンな感情があると認めたとき、後年の地域性に深くこだわった文芸や演劇活動は並大抵の努力なしにはありえなかったことになる。けれども、透徹した表現世界の彫塑にこだわった青春期の詩篇が私たちに伝えるのは、おそらく、後年の地域文化へと深まる意思を支えた「言語声調への信」の大きさではなかったか。ここで「言語声調」という言葉を用いたのは、己のもつ声調の発出が幾重にも包みこまれた繭玉のような言語体となって表現の底部に流れている様態を指す。この言語声調の奥深いとどろきだけが、青春期の詩篇と後年の文芸、演劇などの活動を貫徹して流れる生命の川を指し示している。誰もがもつ「言語声調の存在」を信じて表象し続けるか否かだけが、その人の表現を決めているのではないか。青春の詩篇をいくつか写してみる。

 

ハルメー(わが旅)

砂漠吹きすさぶ我が命に
時は大きく流れて行った
湧き出た雲の初めての接吻は
不吉にも風に乗っていたのだ

研ぎすまされた冷気の到来に
白熱の太陽は炸裂し
霧散した幾千の最後の日没は
煮え滾る地平線に溺れた

雨は降り頻りに流れ落ちた
その怒濤の歌を聞け
…………
…………

また南
甘美な香り流れ出て
律動する泉にえも言えぬ蛾が群がる
無残な墓標に石の山聳え立ちて

明け行く淡紅色の中に
どうどうと海鳴るように崩壊する
その轟音の中に飛び込み自ら命を絶つ
動物の信仰をおれは見た

 

 

 サルタンバンク

…………
サルタンバンク 誰のために泣くのだ
おまえは

どこかに漂着する豊麗な底の灯たち
青春よ
静かに過ぎたことがこの夢に色どりを与えるなら
いま季節の城をはなれて
定まらぬ風のように鮮血を地核に注ぎ込め
血は底の灯を浅ぐろい感触でやわらげるだろう
やさしい誤解のつなが持ち唄を澄む空に投げかける
こめられた復讐、レペルチオはいつも風だ
どこからきたのか たずねるものは
サルタンバンク、赤い色した意識
おまえの初めての存在だ

 

 

残るもの AKIKOに

白い乳房の移ろう 草むらに
みはるかす肉体の ひろがり
気高い気品や 素直ないかり
うつくしく うつむき
唇でほほえむ ひとよ

この飾画たち
消えがちな日々の時刻
もう一つの存在
私の分身
昔のように それがありもせぬ影を
ひと知れず
生活の廻廊に映し出すとき
始まりの色としてきみを彩色しよう
ありし日の贈る歌

 

 

なごりの歌
 (この詩篇は、一つ前の詩篇とほとんど同じだ。思い入れが深かったのだ)

白い裸身の移ろう 草むらに
みはるかす時の流れる

気高い気品や 素直ないかり
うつくしく うつむき
くちびるでほほえむ ひとよ

この飾り画たち
消えがちな日々の時刻
もう一つの存在
私の分身
昔のように それがあったかもしれない
たしかな影を
ひと知れず
生活の回廊に映し出すとき
始まりの色としてきみを彩色しよう
ありし日の贈る歌
………

 さて、次は近年の時代状況に触れた政治さえ包み込む詩篇の一つである。「ぼくが倒れたら一つの直接性が倒れる」と謳った吉本隆明の詩句が反響さえしている。そして、この詩句は、近しい友であり兄である「村上達也」に捧げられている。「村上達也よ きみが倒れたらひとつの直接性が倒れる」「きみが倒れたら未来の直接性が倒れるのだ」と。いうまでもなく、村上達也氏は、もう一つの茨城県の村「東海村」の前村長である。村上達也氏を紀行さんからはじめて紹介されて、その古武士のようなたたずまいに、こんな自治体の首長が存在するのだと、密かに驚いたのを憶えている。その言辞には、ゆるぎない意思の響きが確かにあった。詩句はさらに、もう一人の近しい友、先崎千尋の名をあげ、語りかける。「僕は今 きみからの恩恵に/そう 一方的な恩恵に感謝するばかりだ/たとえば 村上達也を縄文陸平に呼んできたのはきみだ/たとえば 秋山康子に合わせたのはきみだ/ああ たとえば私の演劇に重ねるように/佐久農村医学の先導者/若月医師の群像劇を教えてくれたのもきみだ」、と。ここまで来て知るのは、「詩」とは、「想いの全てを盛ることのできる器なのだ」という詩人的信念の存在である。一つの詩文のうちに、これだけの近しい友の名を入れた詩句を作れるのだ、そういう詩篇があるべきだという詩人の「信」が語られている。この「信」の底に、紀行さんは「言語声調の存在」を籠めたのに違いない。

 

 

 ついに太陽をとらえた

友よ 兄よ 村上達也よ
きみが倒れたらひとつの直接性が倒れる
きみが倒れたら人間の直接性が倒れる
亡者どもの切っ先はきみを貫くだろう
しがみつく過去の亡霊どもが足を引ずるだろう
不毛な没論理が仕返しを企むだろう

だが友よ 君は行く 子どもたちの未来へ
それは日本のかけがえのない未来だ
きみが倒れたら未来の直接性が倒れるのだ

 

 

 新たな地平―先崎千尋兄に

きみが目指す新たな地平は
まだぼくたちに見えない
…………
ちひろよ 少し休みたまえと
慰めるのはやめよう
君はすべてを見たいのだから
…‥‥‥
僕は今 きみからの恩恵に
そう 一方的な恩恵に感謝するばかりだ
たとえば 村上達也を縄文陸平に呼んできたのはきみだ
たとえば 秋山康子に合わせたのはきみだ
ああ たとえば私の演劇に重ねるように
佐久農村医学の先導者
若月医師の群像劇を教えてくれたのもきみだ

きみがいなかったら埋もれたままの先人たち
君が掘り起こす誇らかなかれらの生きざま
きみがいたから蘇るふるさとの農の人々
ああ友よ

 

 紀行さんの村長退任後の劇団「宙の会」のモデルとなったのが、札幌での「劇研ミザントロープ」(恵迪寮)、札幌市「劇団イフの会」等での若き日の演劇活動であったことはいうまでもないが、佐久病院の若月医師がつくった群衆劇や、さらにいえば脇地炯さんから伝えられた森繁久彌のミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」などもまた、その演劇に反響していたのではないか。炯さんが通い詰めたという森繁久彌の「屋根の上のバイオリン弾き」については、炯さんがとても優れた評論を書いているので、次の機会に紹介する。最後に、地域の歴史伝承からは、村が刊行した村史研究の三部作、通史『美浦村誌』、民俗『ふるさと美浦の民俗』、伝承伝説『ふるさと美浦の昔物語』(増尾尚子編著)が創作の素材を用意してくれていた。

 

〈紀行さんに導かれて村上達也氏とお会いしました〉
 紀行さんの村の政治を超えた地域の政治文化への積極的関与は、前述したように、地方自治文化研究会「一望塾」開設や、「東海第二原発再稼働を止める会」の活動などに示されている。みずからが関わってきた村政だけでなく、地域の政治風土と政治文化をも改造したいという類例の少ない政治意思の活動をみせてくれていた。
 東海村長に在任中だった2013年の春だったと思うが、紀行さんは、村上達也氏にお会いできる機会を作ってくださった。炯さんも同行してくれた。私たちのひそかな狙いは、村上達也さんの本をつくることだったが、成らなくともそれはそれでよいと思っていた。それから、東海村長を退任してのち、達也氏の夫人が亡くなられ、紀行さんはその葬儀に出向くにあたり、もし希望するなら、車で葬儀会場まで案内するからと言われ、同行させてもらった。土浦市でお会いして、ひたちなか市東海村が共同運営する「常陸海浜斎場」までの車旅をした。斎場はひたちなか市にある広大な「国営ひたち海浜公園」の傍らにあったと記憶する。村長の重責を退任し夫人との余生をと思った矢先に亡くなられた夫人を思い、達也氏にそっとご挨拶したのが関の山であった。紀行さんが、私たちに達也氏を紹介してくださったのは、十全な心配りがあったのだ。そのことがよくわかった。
こうして炯さんと紀行さん(元美浦村長)、紀行さんに紹介された村上達也氏(前東海村長)との出会いは、私たちにとっての忘れられぬ、大切な記憶財産となった。2012年8月、言叢社は自前手作りの著作として『フクシマ―放射能汚染に如何に対処して生きるか』(島亨著、談話・菅野哲、推薦・澤田昭二)を刊行、この著作に対して、紀行さんは『図書新聞』からの依頼に応えて、その年の秋の美浦村行の後の翌年春に書評を書いてくださった。この著作の取り柄の一つは、政府の避難政策の基準が何を根拠としたかについて、時系列的に変化を追い、これを独力で解明したことにある。もう一つは、澤田昭二(名古屋大学名誉教授・素粒子理論物理、市民と科学者の内部被曝問題研究会代表、原水爆禁止協議会代表理事)氏に全文を読んでいただき、特に広島・長崎に投下された原子爆弾がどのように爆発し、どのような物理事象の連続のもとで、直下の市民にどんな被害をもたらしたかについて、冷徹な文体で書きなおしてくださった。この書き直しには、驚き、あわて、ただただうれしく、感謝するしかありませんでした。澤田昭二先生のこの記述は、今でも忘れられない、最もすぐれた普遍文学とおもっています。

 

〈陸平貝塚遺跡と常総の先史・古代文化〉
 紀行さんが深く思いを抱いた陸平貝塚遺跡と相関するような地域(広く常陸と上総・下総をあわせて常総地方と幅広くみてみます)の先史文化について、直接ではありませんが、私たちは言叢社の出版を通じて触れることになりました。高良留美子さんの新刊『見出された縄文の母系制と月の文化―〈縄文の鏡〉が照らす未来社会の像』(2021年6月刊)です。その第二部は「DNAの研究により見出された縄文の母系制社会」と題され、土浦市の重要な縄文遺跡「中妻貝塚遺跡」、利根町の「花輪台貝塚遺跡」、さらに茂原市の「下太田貝塚遺跡」、市川市の「姥山貝塚遺跡」、船橋市の「小室上台遺跡」などが取り上げられ、これらの先史文化社会が母系制社会の文化をもっていたこと、この文化伝統は古代から近世に至るまで続いていたことを証し立てようとしています。高良さんの著作は、考古学、古代学の専門著書を広く博捜して結論づけたもので、証明とはいえないけれども、常総地方の先史・古代文化像をかなり的確に捉えているとは言えるでしょう。
 私はかねて陸平貝塚遺跡に距離的に近い阿見町乙戸流域の「福田遺跡土偶」(東京大学総合研究博物館蔵)に関心を抱いてきました。この土偶は、あきらかに仮面仮装の姿をしています。類似の土偶はこの地域から他にも出土しており、仮面仮装の「訪れる神」の存在を描きだしているようにおもえます。同じく東京大学総合研究博物館蔵として戦前から保管されていた陸平の遺物があったことからも、明治の頃からこの一帯の先史・古代の文化への関心が確かにあったことを語っています。

 

〈最後に〉
私たち(島亨および五十嵐芳子)は、炯さんとともに、美浦村に二度訪問させてもらい、村のあちこちを案内いただきました。また紀行さん、昭子夫人、炯さんと、私どもと、神田の周恩来ゆかりの中華料理店「漢陽楼」で親しく会食などすることがありました。いまは、お会いする力が私にはなく、はるかな美浦の地をおもうばかりです。

                           (2021.07.29 島 記)

 

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新刊のご案内です。高良留美子著『見出された縄文の母系制と月の文化』

『見出された縄文の母系制と月の文化』
〈縄文の鏡〉が照らす未来社会の像
高良留美子 著 コウラ ルミコ

 

詩人として出発した著者は、女性史研究、思想家としても多くの著書を残し、現在88歳。一貫した、女系文化へのまなざしは、詩人としての言葉の深さとともに、驚異的な思考を持続。今回原稿は、長くかけてそのつど書き継がれてきたものを、この二年をかけて、まとめられた、書下ろしです。

 

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図書出版-言叢社ホームページ

 

 

夏に至りました

夏至の夕暮れ@渥美半島先端の伊良湖岬

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左手は潮騒の島・神島、右手が恋路ヶ浜です。

 

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恋路ヶ浜柳田國男が若い頃、漂着した椰子の実をみつけた浜です。

 

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太陽は対岸の鈴鹿山脈に沈んでいきます

 

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日没後30分近く経っていますが、いつまでもいつまでも西の空が赤く焼けています。

さて、梅雨空はどこへ行ってしまったのでしょうか。