ことばのくさむら

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【仕事で出会った「たいせつな知己・友人」】(その二)

●脇地 炯(わきぢ けい)さんのこと――炯さん追悼

 

〈かくべつの追悼文を残した文芸記者〉
 本年(2021年)1月18日、脇地炯さんは満80歳で急逝した。近くの店に買い物に出かける途中で倒れ病院に運びこまれたまま、亡くなったとのこと。東京では密葬とし、八月、故郷の那智勝浦町海蔵寺で葬儀をおこなうという。炯さんの文章をあれこれ読んでいると、海蔵寺には脇地家代々の墓所があるのだろうとおもった。
 炯さんは北海道大学農学部農業経済学科専攻。卒業後、ただちに毎日新聞社学芸部に入社、同学芸部デスク。セゾングループ堤清二会長との縁で銀座セゾン劇場広報宣伝部長を務めたのち、産経新聞社文化部読書面担当部長、社会部編集委員を歴任。新聞社退職後は、東邦大学薬学部教授を務めた。「剛直文芸記者」として知られ、記者として執筆した記事以上の「格別な記事」である「多くの追悼文」や、とりわけ氏が想いを入れた表現者についての「評論文」は、『違和という自然』(思潮社、1995年3月)、『文学という内服薬』(砂子屋書房、1998年8月)の2冊の文芸評論集に収められている。
炯さんには、いろいろなかたちでお世話になった。文芸記者として知られた炯さんが多くの作家の「追悼文」を残したのは当然といえば当然だが、その追悼の筆致、引き寄せ方は尋常ではない格別なものだった。その炯さんを追悼する文を表わしている人を今のところ知らないので、許されるかはわからないが、炯さんの文芸評論と、炯さんとの出会いについてのいくらかの想い出を記して、追悼の文としたい。

 

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〈追悼文一覧〉
『違和という自然』から
追悼
 鮎川信夫氏――なだめようのない何か
(1986年12月、現代詩読本『さよなら鮎川信夫』)
 立原正秋氏――『光と風』のころ
  (1980年8月26日『毎日新聞』夕刊)
 薬師寺章明氏――温容のなかの暗さ
  (1987年4月『文学と教育』第13集)
 北村太郎氏――鼓舞する声
  (1992年、『現代詩手帖』12月号)
鎮魂記
 祖父のこと
  (1982年8月「告知板」、1983年9月「火の子の宇宙」)
 堀龍一郎のこと
(中学校のとき、海に潜ったまま帰らなかった同級生への鎮魂記。1976年10月、『浦神小学校百年史』)
『文学という内服薬』から
追悼
 祖父母のこと――気ぃいれて身ぃ責めよ
  (平成9年7月17日『産経新聞』夕刊)
 北村太郎氏――アナゴと詫び状
  (平成5年、『現代詩手帖』臨時増刊号)
 埴谷雄高氏 i――心優しい、気配りの人
  (平成9年2月20日産経新聞』朝刊)
 埴谷雄高氏 ii――最後の面会のことなど
  (平成9年2月20日産経新聞』夕刊)
 埴谷雄高氏iii――「自然」超克への“妄執”
  (平成9年2月20日産経新聞』朝刊)
 埴谷雄高氏iv――その朝
  (平成9年、『彷書月刊』7月号)
 中上健次氏――奇縁の鬱屈者
  (平成8年5月、『中上健次発言集成5』月報、第三文明社
 「岬」に見る初心――中上健次を偲ぶ
  (平成8年8月25日『産経新聞』朝刊)
単行本未収録
追悼
 「吉本隆明と私」
(『現代詩手帖』2012年7月号、追悼特集②)
「「衆議院」はお断りだ―吉本さんが新聞に書かなかったころ」
(『飢餓陣営』2012年夏(38)号、編集工房 飢餓陣営)

 2冊の評論集に収められた「追悼文」は以上のとおりだが、その他の文章の中にも「追悼」あるいは「鎮魂記」といってよいものが含まれる。単行本未収録の記事も、私が未見なだけで他にもあるかとおもう。
発表のかたちを見てみると、「追悼」では、新聞記者として書かれた文章が以外と少ないのに気づく。どの追悼文をも合わせみて、際だって驚くのは「埴谷雄高」が亡くなった後に産経新聞の朝・夕刊に重ね続けて掲載された追悼文であろう。このうち、〈埴谷雄高氏iii――「自然」超克への“妄執”〉は、ネット上で『毎日新聞』朝刊と誤認されて長いこと紹介されてきたので、ここで訂正をふくめて、全文を引用しておく。

 

追悼
埴谷雄高氏 iii ―「自然」超克への“妄執”
脇地 炯

 

世界文学と評される長編形而上小説『死霊』の作家、埴谷雄高氏の晩年は、老いという「自然」との意志的な闘いだった。『死霊』自体が、「不完全」にしかできていない人間・自然・宇宙の原理を変更し、人間以上の何かを創造するという徹底的な反「自然」思想に貫かれていることを考えれば、それは思想的な行為とも言えた。自身の「ボケ」をすら観察の対象とし、死の床でも絶えず声を出して、自身を奮い立たせていた。意識は、最後の眠りに入るまで明晰だったという。
しかし、この厳しい反「自然」的態度は自身と作品に対してだけで、作家は他人には、「夫婦ゲンカの円満な調停者」の定評があったように、公正で面倒見のいい、懐の大きな人だった。人間とは矛盾を抱えつつ生きる存在だと、深く知っていたからである。この両面から、カリスマ性も生まれた。
その「お別れ会」は二十四日、東京・新宿区の太宗寺で行われたが、献花の他は面倒な儀式をはぶいた、「スシとビールでにぎやかに」という遺志どおりのカラリとした会になった。『死霊』四章途中までが連載された雑誌「近代文学」の同人、本多秋五小田切秀雄中村真一郎三氏のほか、吉本隆明氏、小川國夫氏、黒井千次氏らゆかりの文学者、読者、出版関係者ら約七百人が参列、八十七歳の最期まで闘った作家をねぎらった。
友人あいさつの中で本多氏は「『死霊』には、生存競争で食われた連中や、(生殖の過程で)世に出られなかった存在にも目を向けなければ、本当のことは分らない、という主張があるが、ひとつこの真意を教えてほしい」と、故人に似た、座を活気づけるための気配りの話題を提出した。また小田切氏は五十年をかけた『死霊』の意義を論じ、中村氏は組織者としても有能で、何事においても変幻自在だった作家を語った。
死去十一日前の二月八日、埴谷氏は見舞いに訪れた本多氏が杖もつかずに歩くのを見て、「くやしい、くやしい」とつぶやいたという。未刊の『死霊』に対する思いと同時に、年齢によって消滅する「不完全な自然」としての自身の身体には、絶対に屈服しないといった、生涯貫いた「反自然」思想の、最後の表現であったに違いない。
        (平成九年二月二十五日、産経新聞朝刊、強調は筆者による)

 

 炯さんの文章のかくべつの特質は、対象とした人物への、執念とさえいえるこだわりの強度であり、この強度には、事態が起こったその現場に立ち会って受け取るという「現場性」が欠かせないこと、もう一つは、なぜ自分がこれほどにかかわったかについて、「その場に佇ちつくす」自己のありようを語ることなしに文章を書いてはならぬという、ある種の自己倫理が語られていることだろう。
追悼文だけでなく、炯さんが埴谷さんを取材・インタビューしたことを報告する「現場性」の文章は、いかにも、とてつもなく「しつこい」のだ。

 

『違和という自然』から
 埴谷雄高――『死霊』をめぐって
  宇宙の「根源以前」へ――『死霊』九章
   (1991年12月12日『産経新聞』夕刊)
  『死霊』七章――「死者」たちの弾劾
   (1984年9月25、26日『毎日新聞』夕刊)
  『死霊』六章――「意識の転覆」への布石
   (1981年3月13、14日『毎日新聞』夕刊)
  『死霊』五章――「存在革命」第一のヤマ場
   (1975年6月24日『毎日新聞』夕刊)


※『近代文学』に連載され近代生活社から四章までの未完結のままに出版された『死霊』初版は戦後日本文学の記念碑として伝説化されていた。この『死霊』続篇が書き継がれるごとに、取材・インタビューをおこなったのが、上記4篇の文章である。

 なぜ炯さんは、これほどに埴谷さんにこだわり、その人柄を敬愛し、距離をちぢめようと重ねて取材し、お宅に通い詰めたのか。
この問いに応えるのは容易ではないが、先の追悼文で、太字で引用した言葉――「自然」との意志的な闘い――こそ、炯さんが埴谷さんの作品と人格から受け取ったものだった。この私的な受容がいかに大切なものだったかについては「追悼 埴谷雄高氏 ii――最後の面会のことなど」にさらっと書かれている。

 

  「『死霊』の作家、埴谷雄高氏が亡くなった。そう書くだけで、名状し難い喪失感を覚える。勝手な思い込みに過ぎないが、氏は、人付き合いの苦手な筆者が、それがこうじてノイローゼに陥っていた青春時代に、そんな自分をどう考えたらいいかを教えてくれた恩人で、以来三十余年、その体験を重ねて愛読してきた作家だからである。記者としても最初のインタビュー以来二十二年、折に触れお目にかかり、一方ならぬ励ましを頂戴した。」「青春期、筆者が埴谷氏の文学から受け取ったものを凝縮して言うなら、それは、他人との間の違和感がこうじてノイローゼになるのも、ひとえに自分のせいだと考えるしかない、という単純なことになる。しかし、その自分は環境や遺伝の総和に過ぎず、自ら遺志して作り上げたものではないから、解体し、組み立て直す対象と考えるほかはないのである。/これは途方もない課題であり、以降筆者がどの程度やれたかということになると、自信などあるわけはない。そのことを教わったときの強烈な蘇生感は今も埋み火のように残っている。」

                            (強調は筆者による)

 

 最後の文をみると、炯さんは青春時代以来の苦しみを埴谷さんに直接に告げ、確かな答えをもらった節がうかがえる。形而上小説『死霊』が投げかける問いは「徹底的な反「自然」の思想」によって、「人間以上の何かを創造」しようとする意思にあり、この意思の基底には自己資質という自然性に対する闘いがあった。そして、「生まれ」ばかりではなく、「老い」と「死」という自然性に対しても、「絶えず声を出して、自身を奮い立たせ」ていたと埴谷さんを追悼している。埴谷雄高という文学者が持ち続けた「徹底的な反「自然」の思想」をこのように教えられると、いったい炯さんは、自己資質の自然性について、埴谷さんと同じ「徹底的な反「自然」の思想」を体現しようとしたことがあったのだろうか。普段お会いしている印象からはそのような意志の陰影さえ見えなかったため、こういう問いを立ててみると、たじろぎをおぼえる。この問いには、ただちには答えられない。だが、ここに示された問題系をめぐって、炯さんが遍歴を重ねてきたことは確かである。その足跡は、いくつか辿れる。

(1)「現代における子供や家族の病理を追跡してきた評論家、芹沢俊介氏の『現代〈子ども〉暴力論増補版』(春秋社)所収の「イノセンスが壊れる時」を読んで、重要な示唆を与えられた気がした。イノセンスとは、大人であるか子供であるかを問わず、人が窮地に立ったときに「自分には責任がないと」感じてしまう心の場所の意味だとして、氏は子供に焦点を当てて次のように説明している。
  「生まれるということは、根源的に世界に対して受け身、受動形なのです。私たちはこの体、性、親、名前などという現実を『書き込まれて』人間として生まれてきたのです。そういう換えがたい事実に対し、生まれてきた当人には責任はないということ、これがイノセンスという概念を考える時の基本的な理解です」(要旨)
 そして氏は、いくつかの例を挙げながら「子供がイノセンスを表出することが、実は同時にイノセンスを解体することでもある」とし、具体的には親が愛情をもって肯定的にその表出を受け止めてやることが、その解体の条件だという意味のことを述べている。つまり、こうした親の存在がなければ、子供は「自分には責任がない」という心の場所を「責任がある」という場所へと転換し、「成熟」への道をたどることができないというのである。(「イノセンス」(平成10年1月19日『産経新聞』朝刊)『文学という内服薬』砂子屋書房所収)

(2)「資質とはいわば宿命の別名である。その主調音が幼少年期の癒やし難い心の傷にあり、人がそのために終生苦しむとすれば、苦悩の責任は一義的には資質形成にあずかった父母、とくに関与が直接的な母にあるということになる。が、母もまた子育てにかかわる固有の資質をその両親に負うという事情から、追及すれば無限に過去に遡らざるを得ず、責任の所在は宙に浮いてしまう。結局は、当人自身がこの宿命を己の責任とみなして直視し、相対化するほかはない。資質としての苦悩は自力で克服し、癒やす以外にないということだ。資質によって人生が決定されるのでは困るのである。」「随所に父母、とくに母への激烈な怒りが表白されているのも当然であろう。私達は心を痛めながら聴くほかはない。しかし、その怒りの一方で、著者は同時に、激しい感情を自身からはぎ取るようにして考察の対象とし、自分たちを含む人間がなぜしばしばこのような理不尽な宿命を担わされるのかという、普遍的な問いに置き直すのである。答は次のようだ。/「誰だって、本当は自分なんてものはない。小さいころから親や周囲の人から『しぐさ』としてバラバラに受け取ったものをつなぎあわせ、物語に形成して自分だとか人格だと言っているにすぎない」(要旨)/資質というものは自らつくれるものではないという認識であり、辛い資質をできるかぎり点検し、なだめ、自分の意志でつくり直したいという希求の表明であるとも読める。これは、このように自身を相対化した考え方さえ持てるなら、親は己の無自覚な資質を押しつけて、子供を「壊す」ことなどないだろうし、子供の方もまた恨みや怒りを絶対化して、親殺しなど無残な破局に突っ込むことなどなくなるはずだ、という主張につながるに違いない。味わうべき、重い発言だろう。(島尾伸三『魚は泳ぐ』書評、『週刊読書人』 2006年6月23日号)

(1)は芹沢俊介氏の「子ども論」の核をつくる「インセンス」という言葉への共感であり、(2)は島尾敏雄氏の夫人・ミホと子息・島尾伸三氏との底深い愛執の実体を捉えようとした炯さんの書評文からの引用である。語り下ろしエッセイ『魚は泳ぐ』は、私たちが島尾伸三さんの語りの反復される凄さと悲悼に感銘を受け、思いの全てを語り尽くすような「エッセイ」を提案して成ったものだったけれど、『週刊読書人』の書評は私どもで炯さんにお願いしたものではなかった。炯さん自身が強く書評を望んだのだと記憶している。この書評は、加藤陽子氏などの書評とともに言叢社のホームページにも一部抜粋のかたちで掲載させていただいているのでぜひ読んでいただきたい。昨年10月、日本学術会議会員への任命を内閣から拒否された加藤陽子さん(東京大学教授)の書評はおもいがけず『文藝春秋』に掲載されたものだったが、この人の対象把握力の凄さはこの文章にもうかがい知られる。学術会議会員たるに十全な資格をもつ方に違いない。
 それにしても、「辛い資質をできるかぎり点検し、なだめ、自分の意志でつくり直したいという希求」という言葉には、埴谷雄高追悼にふれるような反響を聞き取れる。
埴谷さんは確かに自身と作品に対して、厳しい反「自然」的態度を矜持し続けた。けれども、普段暮らしの埴谷さんは、隣人、友にたいして、揺るぎのない信と優しさで接し、「夫婦ゲンカの円満な調停者」であり、「公正で面倒見のいい、懐の大きな人だった(「追悼埴谷雄高氏 iii ―「自然」超克への“妄執”」)という。「どんな事態に出会っても「煮こぼれすることのない大鍋」(文芸評論家・本多秋五氏、『物語戦後文学史』)」であり、「他者には寛容そのもので、対立意見もおおらかに包容できる「理解魔」だった」。それだけではない。「特記すべき例は、『死の棘』で著名な故島尾敏雄氏一家との関係である。家庭問題で傷ついた一家の心の支えになり、ミホ夫人や長女マヤさんから「東京のお父さん」と呼ばれた。島尾氏が芸術院会員を受諾したとき、「作家が国家から特典を受けるべきではない」と息巻く井上光晴氏に対し、「言葉の話せないマヤちゃんの将来を考えれば受けて当然」と島尾氏を擁護した。島尾氏が亡くなった後、埴谷氏はそのマヤさんにクリスマス・プレゼントを送り続けた」(「追悼 埴谷雄高氏 i――心優しい、気配りの人」)。
炯さんの島尾伸三『魚は泳ぐ』書評には、埴谷さんの島尾家に対する眼差し、埴谷さんが伸三氏やマヤさんに対したように、炯さんの優しさもが重ねられている。「資質とはいわば宿命の別名である。その主調音が幼少年期の癒やし難い心の傷にあり、人がそのために終生苦しむとすれば」、資質を宿命として負ってしまった当事者には、責任はない、イノセンスである。では、そこから自己資質を「責任」として受け取る自覚はどうして生まれるのか。ほんとうのことをいえば、「辛い資質をできるかぎり点検する私」とは、いったいどの位相にある「私」なのか。それは、「私」なのか、「私を点検する超自我」なのか、「他者」なのか、あるいは「神」なのか、「超人」なのか、それとも「未来からの視線」、「死からの視線」なのか。「現在が孕む非現在からの視線」なのか。この「点検を促す動力」とは何か。自己資質を真っ白な地に塗り替えようとする「タブラ・ラサ」(白紙還元)の意志を語ろうとしたのではないとすれば、自己資質の底部に深く流れるものの肯定を含まないわけにはいかない。「優しさ」とは、引き受けられないものを引き受ける意志にかかわる。そうして、この設問からの抜け道は、意外にも「しぐさ」という日常の所作にあるのかもしれない。「誰だって、本当は自分なんてものはない。小さいころから親や周囲の人から『しぐさ』としてバラバラに受け取ったものをつなぎあわせ、物語に形成して自分だとか人格だと言っているにすぎない」と。

 

〈深く流れる自己資質の肯定〉
 炯さんは『魚は泳ぐ』書評で語ったように、確かに「自己資質を点検し、なだめ、自分の意志でつくり直したいという希求」を持っていた。けれども、じつをいうと、というか、ほんとうのことをいえば、如上の引用からうかがえる自己資質にかかわる「自然」否定の意志に向けた文章よりも、炯さんの文学評論のもっともすぐれた核は、これから引用し紹介する「森繁久彌論」にあるにちがいない。炯さんは森繁の名演劇「屋根の上のヴァイオリン弾き」に通い詰めた人なのだ。

 

森繁久彌―瞋りと悲哀
他者について語るとは、おおそれたことにちがいない。それでも私どもは、人について倦むことなく語る。それは人それぞれが、おのれを他者と分有したい願いに発しているだろう。
 他者について語るとき、だから、自分の動機を同時に明示することが必須である。いま、芸能に無知な素人が未熟な森繁久彌観を披歴するとしても、事情は変わらない。」
(筆者註。ここに炯さんの自己倫理がある)
「まだ、奉安殿の台座が小学校の一隅に残っていたころだから、私が入学して間もない一九四八、九年のことである。/季節は秋だったか。晴れた日の夕方、私は軍服姿の偉丈夫が、わが家の裏手にあるT家の方へ、ゆっくりした足どりで向かうのを見た。その横顔は黝く、眼はあらぬ方へ捉えられて、光がなかった。どんな容喙(ようかい)をも拒むような瞋りと悲哀と諦念とのない混ざった、暗い気配が放射されていて、私は畏怖の念をおぼえた。かれはT家の長男Sで、タシケントでの抑留生活を終えて帰ったのだと、のちになって聞いた。/教師のYも、戦場にいたこがあるといううわさで、だれも怖れていた。Sと似た体臭をもっていたのたが、かれの場合、瞋りが噴き出て見さかいのなくなるときがあったのである。…(略)…」
「だれもが幼年期に、自分の来し方を考えるうえで、決定的とも言いたいよう体験をもっているだろう。私の場合、そのひとつとして、右の二人の貌をあげることができる。一九四〇年生まれの私に、戦争体験なるものがあるとすれば、そのとき、かれから受け取ってしまった瞋りと悲哀と諦念とが、それにちがいない。この体験は、私だけでなく、私どもの世代にとって普遍的な意味を帯びているにちがいない、と私はのちに信じるようになった。私はここに、私どもと私どもより上の世代をつなぐひとつの通路を見たいと思う。」
むかし、森繁久彌のうたう「戦友」を聴いたことがある。惻々と胸に迫るものがあった。その歌は「森繁節」と呼ばれる、あの精緻な技巧によって、独特のかげりを与えられていた。が私には、その技巧も、そこにこめられた慟哭に比べれば、とるに足らぬことのように思われた。その作詞者にも、作曲者にも、それぞれ無量のおもいがあっただろう。そのおもいに、さらに別趣のヴォルテージを加えて、森繁はおうおうと哭泣し、佇ちつくしているのだった。それは、虫のように踏みつぶされ、死に急いだ人たちへの悼歌であり、森繁自身の魂へのレクイエムであった。私は、そう感じとった。」 
(筆者註。おそらく、ここに記す言葉以上の森繁久彌論は他に容易には見当たらないだろう名文である。『違和という自然』の出版記念会が開かれたとき、森繁さんは会が始まってしばらくのち、会場の上階のドアから入ってあらわれた。何と言って入ってきたか忘れてしまったが、その深く響く声がとどろいたとき、私たちはその声の持ち主の霊威にすっかり支配されているのを感じた。そこには確かな技巧も演出もあるのだが、森繁さんが示した真情はたしかに私たちに滲み伝わったのだった。)
「私は、かれのなかに、人それぞれのあり方を認めようとする粘りづよい包容力とともに、何者かへの炭火のような瞋りの持続を感じた。瞋恚があふれて、とめどがなくなったとき、かれはその頂きに佇んで、嗤いを洩らしてた。」「そんな夜半、私はかれの視線の先のほうに、焼けただれた夕映のような、この世の終末の色を垣間見た気がする。」「私は、森繁久彌の前史をよく知らない。」「しかし、わずかな通交の間に得たその像は、私が森繁像に近づく以前から抱いていたものと、基本的に変わりなかった。私にとって、そのことは大切であった。なぜなら、かれの瞋りも悲哀も、佇ちつくす諦念も、私のなかでは、かつて私に強い印象を与えた二人の帰還兵のそれと、共鳴しているのだから。それは、きっと、私の半生を貫いて、私のなかで響いていたトーンであり、私の目に見えない骨格をつくったものの、大きな部分であるにちがいない。」「それこそ、私にとっての森繁の根底なのであった。」

                            (強調は筆者による)

 

まだまだ引用しておきたい言葉があるが、このくらいにしておきたい。炯さんは森繁論のような文章になると、感情のこみ上げを抑制するような筆致をもはや避けようとはしない。それは、子どもの頃に親の三度目の義母の家に引っ越すのを拒否して、3年間祖父母とともに暮らした、その祖父母との慎ましい暮らしを記した「鎮魂記 祖父のこと」(1982年8月「告知板」、1983年9月「火の子の宇宙」『違和という自然』所収)にもよくあらわれている。

 

「老衰は急速に進行して、祖母はやがて自分のシモ(傍点)のことさえままならなくなった。農家ふうの古いつくりの家だったので便所は離れにあり、そこにたどりつくまでの我慢ができないのである。土間や中庭にたれ流された糞便にカマドの灰をふりかけ、ジュウノウですくって畑の隅に捨てに行くのが孫の日課の一つになった。そうした日々のある夜、やはり離れにあった風呂場で祖父が祖母の下半身をむきだしにし、懸命に洗ている姿を見た。祖父は声を放って泣いていた。――何ちゅう情けない……どら、尻をこっちへ向けんかえ、何ちゅう……。」(「鎮魂記 祖父のこと」)

 

誰にでもある、老いのなかの小さい惨劇の描写なのだが、幼時に人の生き死にの切り口を開いてみせてくれたような体験として出会ってしまえば、もはやこのような体験がもたらすだろう「アジェンダ(問題群)」からの離脱は困難となる。それこそは、自己資質の根源をつくるものだろう。遺伝、生理、家系、親たちの葛藤……、どんな自己資質の起源をたどっても、生まれた時にすでに得てしまった自己資質に責任はないのに(イノセンスなのに)、私たちはどこかで、すでに自己資質に制圧されてしまっている。けれどもまた、自己資質は一つ二つの「逃走線」を無意識にも獲得しえているものだ。そして、時にはこの「逃走線」がはらむ領域こそがその人の力となる。大切なことは、「逃走線」をいつでも無意識に向けて「放下」しておく智慧であろう。この「逃走線」は、普段におこなっている「しぐさ」の中に潜んでいる。
炯さんは、北海道大学「恵迪寮」で合唱クラブ「ヨールカ」を主宰していたという。その頃に小川徳人作歌、炯さん作曲で生まれた昭和36年寮歌「甦えれ白き辛夷よ」や、市川紀行作詞、脇地炯作曲「真珠の海」が大切に残されているのを、紀行さんからいただいて聴いたことがある。私にはわからないが、早春、その調べははるかに北の大地の寮舎からコブシ(辛夷)の花が咲き匂う大路の街並みに響き渡るもののようであった。そうしてまた、あの時、なぜ推薦されたのかよくわからなかったのだが、炯さんは「ブラシャーニエ・スラビャンキ」という旧ソビエトの軍歌をぜひ聴いてみるように、メールしてきたのを改めて思い起こした。その推薦状には次のようにあった。

旧ソ連陸軍の勇壮・悲壮な軍歌で、高齢のロシア人が聴けば必ず涙をこぼすと言われる「ブラシャーニエ・スラビャンキ」(タイトルは英訳、スラヴ娘の別れ)は、元はといえば、愛し合う男女の永訣(ブラシャーニエは、ただの別れでなく永遠の別れの意)の歌らしいですね。聴いてみてください。


「ブラシャーニエ・スラビャンキ」

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「軍歌版」
 

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 なるほど、炯さんは、森繁さんの悲悼の歌の向うにも、「ブラシャーニエ・スラビャンキ」のような音調の歌があるんだぞ、と言っているようでもあった。そして、炯さんには、こんな、炯さんの自己資質をうまく包みこんでくれる脱出線があったのだ。それこそが、二枚腰、三枚腰の記者精神、文芸評論の現場性と情念を支えたのではないだろうか。炯さんは私たちの出版編集活動においても、それとなく、さまざまな礎となる支援をし続けてくれた。炯さんとの出合いからそれ以後まで、私たちはお世話になりぱなしだったのである。
 炯さんがまだ毎日新聞学芸部デスクだった頃。私たちが言叢社を立ち上げ、吉本(隆明)さんの書き下ろし作品『論註と喩』を第一作としてスタートした時から。また、炯さんと関わり深い島尾敏雄さんが戦前に同人としてスタートした同人誌『こをろ』と同人のガリ版通信『こをろ通信』の復刻をしたとき(1981年9月)、また、同じく埴谷雄高さんが同人としてスタートした同人誌『構想』の復刻版(1984年6月)を刊行した時にも、大いに炯さんのお世話になった。『こをろ・こをろ通信』の復刻にあたっては、それより3年前の1978年9月29日に湯島の料亭で旧同人会を開催。この会には、真鍋呉夫氏をはじめ10名の旧同人が参加くださり、復刻版をスタートさせた。この時に、島尾敏雄さんが持っておられたガリ版通信『こをろ通信』をお借りし、その読み下し作業を開始、私たちの一人、五十嵐芳子の父君(五十嵐孝一さん)に1年をかけて原稿を作成してもらい、ようやくにして刊行できたのだった。その頃、私たち同人の中心メンバーだった原澤幸子(前・共同通信文化部記者)が健在で、旧同人会宴席のホスト役を務めてくださった。その時も、炯さんは会に同席し、毎日新聞に記事を載せてもらったのである。もちろん、次に刊行した『構想』復刻版でも同じで、ここでは、復刻にあたって埴谷さんのお自宅を訪問し、付録として「『構想』と私」という冊子を編集し、復刻版刊行後に湯島の料亭での会合を持った。
 これほどのお世話になったのだから、炯さんへの負債は一方的なものだったが、私たちはこの負荷をほとんど感ずることがなかった。そこに炯さんの日常的なおもいやりのかたちがあったのにちがいない。ただ一度だけ『違和という自然』の出版のためのみの、吉本さんへのインタビュー記事を掲載することになり、その手助けをすることになった。インタビューをおこなったのは、1994年8月22日、山の上ホテル旧館の一室で、同人の五十嵐芳子がお手伝い役として同席した。この時のインタビューはなかなか興味深いものだったと聞いた。記事には盛り込まれなかったが、吉本さんは美男である炯さんの自認を持ちだして、そこが問題だといって、時によくやる「いじめ」を愉しんだらしい。「いじめ」と言ってよいのだとおもうが、ずばりその人のありようを衝くものだったのだろう。これに対して炯さんは、ひたすらに冷や汗を流してかしこまったらしい。のちのち「いやあ、あの時は参った」と繰り返し語った。山の上ホテルでの会合ののち、炯さんは吉本さんを案内して、堤清二さんが親しくしていた四谷の食事処で時を過ごした。
 前回紹介した茨城県・元美浦村長の市川紀行さんを私たちに紹介してくれたのも、炯さんであり、このことについてはすでに書いた。
炯さんの故里の那智勝浦への想いは尋常なものではなかった。ごく親しい人へ贈る「那智勝浦の干物」は炯さんにとって格別のものだった。産経新聞社文化部の同僚だった田中紘太郎さんは鹿児島出身で、薩摩特産の「さつまあげ」は特別と自慢すると、いやいや「那智勝浦の干物」こそ特別と自慢の言い合いとなり、話は尽きなかった。
私たちは歳をとっても仕事にせわしなく、最近は親しくお会いする機縁も少なくなっていた。吉本隆明さんが亡くなった日に集う「横超忌」(3月16日)には、あまり気の進まない私に繰り返し電話をくださり、その誘いを理由に参加したことも、欠席したこともあったが、生前に吉本さんに深く思いを致した者同士として、こりずに誘ってくれた炯さんの優しさを改めておもい起こさずにはおかない。
炯さん、どうか故里の那智勝浦で、ひたすらに愛おしんだ郷土の滋味の「干物」をたっぷりと味わい尽くしながら、このさびしい日本の文化社会の現状を、その熱く優しい眼で見据えつづけていてください。さようなら。    
                   2021年8月13日  82歳の誕生日に(島亨記)

 

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