ことばのくさむら

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【仕事で出会った「たいせつな知己・友人」】(その一)

● 年々、夏の天気がはげしくなってくる・・・

日本列島らしからぬ暑さに溺れながらも、日々汗を拭いつつ街を彷徨ううちに、いつしか摩天楼で切り取られた都会の空にも秋の気配が感じられるようになってきました。

「仕事で出会った、たいせつな知己・友人」と題して、さまざまに想い出すことごとを、頂いた本をてがかりにして、書いてみました。

つれづれなるままに、続けてまいります。

 

 

●市川紀行さんのこと――『市川紀行詩撰集』(三部作、菜の花舎)を贈られて

 

『市川紀行詩撰集』三部作
(一)「母に」+LONG POEMS
(二)なごりの歌たち
(三)付録 Memories(歌曲集・劇団と上演作品・市川紀行年譜・編集後記)
(2020年12月1日発行、菜の花舎=茨城県土浦市下高津3-13-3 増尾方)

 

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〈お会いする機縁となったこと〉

 茨城県稲敷郡(いなしきぐん)美浦(みほ)村、元村長の市川紀行さんは、毎日新聞文化部・産経新聞文化部の記者だった故・脇地炯(わきぢけい、2021年1月に逝去)さんから紹介をいただいた。2012年前後だったかとおもう。
2011年3月11日14時46分に起きた東北地方太平洋沖地震による地震津波大災害、これにつづいて東京電力福島第一原子力発電所での苛酷事故により放出された、危険な濃度の放射性プルームが広範囲に流れ、その広がりは福島県にとどまらず、関東全域にまで及んだ。日本在住外国人の東京からの退避も叫ばれ、事実、かなりの人が関西へと逃避するほどだった。
私の居住する神奈川県の自宅の雨樋下で3月20日過ぎに放射線量を測ると、簡易測定器の数字がどんどん上がって0.6マイクロシーベルト/hourにもなったので、ひどく驚いたのを覚えている。雨水の放射能が樋下の石の上に貯まった結果で、この年の秋に訪ねた福島県福島市飯野町旅館での空間線量は0.8~1マイクロシーベルト/hour、福島県飯舘村長泥地区(飯舘村で今なお帰還困難区域に指定されている)での空間線量は9.06マイクロシーベルト/hour 以上だったから、比較にならないとはいえ、神奈川でもごく小さい空間に蓄積された放射性物質が発する放射線量はかなりのものだったのである。
この国に起こった未曾有の原発事故にいかに対処すべきかは、国や自治体、東電の対処だけではすまない。地域住民がまるごと被災する事態では、空から襲ってくる放射性物質汚染に対して、われわれ自身が防御の基準を打ち立てなければならない。私がそうおもったのは、その都度に打ち出された避難の基準となる放射線防御の基準がきわめてあいまいだったからである。そのような対策を打ち出す国の防御対策、避難基準が信じられない。信じるにたる基準はといえば、本来なら科学者が示してくれて、それをもとに政治家が明確な政策をうちだすべきはずだったが、どうもそのようにはなっていない。それはなぜかを含めて、原発過酷事故の実体を自前で追究し、組み立てなければと思いつめた。材料は、あくまで公表されている資料類だけで考えを詰める。これができないなら、市民にとっての自前の対処策の確立は成り立たないと思いつめたのである。

放射線被災の実態調査では、福島県浜通りから中通りの市町村を訪れたが、これを機に、1999年9月30日に茨城県東海村で起こったJCO臨界事故に対して、当時の東海村長が事態にどのように対処したかなど、過去の原子力施設関連事故や自治体の対処のあり方などの取材も拡張しておこないたいとおもい立った。
かねて脇地炯さんからは、友人として元美浦村長の市川紀行さんの存在をうかがっていた。炯さんは、私たちの意図を汲んでくれて即座に市川紀行さんを紹介してくれた。美浦村行を計画して同行までしていただいた。2012年11月30日、はじめて美浦村を訪問、紀行さんに案内されて陸平貝塚遺跡を見学、さらには信太のお自宅まで招待いただいた。また、土浦への帰途には、霞ヶ浦水上機練習場跡地なども案内してくださった。ここで訓練した海軍航空隊員はやがて米軍艦船への特攻を行なって死んだ。これらの旧軍戦争遺跡をふくめ、この湖浦一帯の地政・文化が列島のなかでどれだけ重要な位置を占めたかは、のちに、『佐原の大祭』の執筆・編集のための調査などで思い知ることとなった。霞ヶ浦の漁撈文化を調査した網野善彦の若き日の論文「霞ケ浦四十八津と御留川」(『日本中世の非農業民と天皇』所収)に接したのも紀行さんとお会いしてのちのことだった。「ああ、この湖浦のことだな」と実感できたのは美浦村行の経験があったからである。

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美浦村訪問1、文化財センター前にて。中央・市川紀行氏、右・脇地炯氏、左・島亨

 

〈北大「恵迪寮文化」に育まれた友情〉
脇地炯さんと市川紀行さんとは、北海道大学農学部学生だった頃の友人。炯さんは農学部農業経済学科専攻、紀行さんは森林科学科(林学)専攻。二人は三大寮歌の一つ「都ぞ弥生」で知られた恵迪寮に入り、炯さんは合唱クラブ「ヨールカ」を主宰、紀行さんは「フランス会」(恵迪寮)「劇研ミザントロープ」(恵迪寮)をつくり、札幌市の「劇団イフの会」にも参加、活発な文化活動をおこなっていた。そこでは、今ではもう得られないだろうような北海道農学校以来の寮文化が生きていて、札幌市街のゆったりとしたたたずまいの中で、「青春」が育まれていた。お二人の話を聞いていると、そんな情景がおのずと浮かびあがってくる。そして、ここには「青春」とともに、確かな「友情」もまた育まれていた。紀行さんと炯さんの友情である。記者仕事の職を転々し、自宅マンションを構えるのに苦労する炯さんに、紀行さんは黙って資金の補いをしてくれた裏話などを淡々と聞いた覚えがある。その補いの大きさから、尋常でなしうるような友情ではありえないとそのとき思った。
紀行さんが暮らす稲敷郡美浦村は、茨城県南部、霞ヶ浦南岸の村である。紀行さんにお会いするまで村の名前を知らなかったが、一つだけ覚えがあった。それは、今井正監督の名画『米』(1957年制作)の舞台となった土地はこのあたりではないかという推測であった。霞ヶ浦対岸の二つの村の農漁村のきびしい暮らしを描いて、強い印象が残っていた。対岸の村への青年たちの夜這いの場面や、今では特別の場でしか見られないワカサギ漁をする「帆引船」の風景などがすぐに想い浮かぶ。美浦村信太のお宅を訪問した際、もしかしたらこのあたりではないかと聞いてみると、紀行さん自身、『米』のロケに関わったことを教えてくれた。この映画でだけ、ひたむきに生きる娘を演じて美しい顔だちをみせてくれた中村雅子という女優の姿を、合わせて想い浮かべたのだった。

その美浦村にはまた、明治12(1879)年に発掘され、「日本考古学の原点」とされる貝塚遺跡がある。東京帝国大学の学生でエドワード・モースに学んだ佐々木忠次郎、飯島魁により初めて発掘がおこなわれた陸平(おかだいら)貝塚である。モースが東京品川区の大森貝塚を発掘したのは明治10年の秋であり、それより2年後のこと。かつてはおそらく霞ヶ浦南岸に近い島だったろう東西約250m、南北約150mの舌状台地に、縄文前期から後期にわたる遺物が環状に広がっており、日本の先史考古学史上、重要な遺跡だった。

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美浦村訪問2、陸平貝塚の残る安中台地

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美浦村訪問3、縄文貝塚と安中台地




ところが、この湖浦に面した舌状台地の美しい景観をあてこんだ民間の住宅団地建設の計画が立ちあがり、遺跡は破壊の危機に瀕した。この事態にたいして、村長だった紀行さんは荒廃した周辺地域の開発と文化遺産保存の両立ができるような方途がないものかを模索した。このことを聞いた炯さんは、ちょうどその頃、毎日新聞記者をやめ、セゾングループ会長・堤清二氏(作家・辻井喬としても広く知られる)のもとで、銀座セゾン劇場広報宣伝部長を務めていたのだとおもう。美浦村の遺跡と景観を生かした開発を構想してくれる人として、美浦村長・市川紀行氏に堤清二氏を紹介した。堤氏は現地を視察して、即座に、この一帯をリゾートとして開発するとともに、その内部に遺跡公園をつくって保全する構想を立ててくれたのだった。1989年、西洋環境開発による安中地区総合開発第一期計画が着工。1993年、「美浦ゴルフ倶楽部」がオープンするとともに、ゴルフ場およびゴルファーの寄付による遺跡保存のための「陸平基金」が美浦村に創設される。
こうしてはじまった構想は最終的に、舌状台地の湖岸に、南の潮来(いたこ)地方へと結ぶ航路を開発する計画まで描かれていた。それが実現していれば、霞ヶ浦の景観と集落文化とが融和したリゾート開発の大きなルートと拡がりが生まれるてはずであった。紀行さんに案内されて陸平貝塚公園を見学しつつ、この大きな夢が潰えた無念さを思わずにはおれなかった。

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美浦村訪問4-1、陸平貝塚の貝層

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美浦村訪問4-2、今もびっしりと残る貝を拾う炯さん

残念なことに、セゾングループと「西洋環境開発」は解体を余儀なくされた。解体によって、リゾート開発の全体像も姿をあらわすことなく終わった。けれども、堤さんは、陸平貝塚遺跡の一帯だけはきちんと保全し、美浦村にそっくり無償寄贈してくれたという(1997年)。美浦村では、この一帯を陸平貝塚公園として整備し文化財センター(博物館)をつくるとともに、住民ボランティア組織として「陸平をヨイショする会」が堀越實・靖子夫妻を中心に発足、考古学史上の大切な遺跡というにとどまらず、霞ヶ浦一帯の先史縄文文化の価値、湖岸文化の新たな創造の媒体となる市民運動として活動を続けている。同会は、2008年2月、第33回藤森栄一賞を受賞(会長・堀越靖子)、さらに2015年6月には、和嶋誠一賞を受賞している(会長・市川紀行)。これらの活動を支えてきたのも、紀行さんたちである。

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美浦村訪問5、陸平貝塚10号土壙

 

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美浦村訪問6、明治の発掘で出土した見事な双口土器

 

〈議員、村長としての事績〉
 さて、市川紀行さんの事績の核心にあるものは、「東海村」とともに茨城県に二つしかない「村」議会議員、首長としての事績だろう。昭和56(1981)年、村議会議員の時、霞ヶ浦湖岸に設立された半導体メーカー日本テキサスインスツルメント美浦工場が操業を開始するにあたり、霞ヶ浦の浄化運動に取り組んでいた「土浦の自然を守る会」のメンバーとともに、「工場排水のクローズドシステム」を村と企業に提案、企業はこれを受け入れて、工場排水によって湖水を汚さない操業システムができあがった。茨城県はこれを受けて霞ヶ浦富栄養化防止条例を改正、工場排水のクローズドシステム採用が全国化する機縁の一つとなった。
 以後の叙述のために、初めに書いておきたいのは、この村に中央競馬会の「美浦トレーニングセンター」が置かれていることだ。広大な敷地内に、厩務員宿舎・騎手宿舎・独身寮・職員宿舎など、競馬関係者の生活のための施設が設置され、家族をふくめておよそ5000人が暮らしているという。その多くは美浦村あるいは周辺の市町に居住している。美浦村政を考えるとき、その財政的基盤となっているのが「美浦トレーニングセンター」の存在である。同センターの開所は、昭和53(1978)年4月。紀行さんの村会議員時代である。
 昭和57(1982)年12月、美浦村長選挙の立候補に先立って、青春の総決算として詩集『朝の場所』(意匠工房はやし)を淀川紀行の名で出版。
翌昭和58(1983)年、在職二期7年5か月で村議会議員を辞職して村長選挙に立候補、4月、現職を凌ぎ、当選を果たす。
詩集の著者名「淀川」は旧姓。紀行さんは高校時代の同級生である市川昭子さんと結婚し、妻の郷里である美浦村に転居、昭子さんの母が引き継いだ製材会社を引き受け、「市川建設工業株式会社」を設立。村議会議員になるまでは、実業に専念してきた。
詩集にはランボオロートレアモンの影響がうかがえる。紀行さんの「詩」への断念と実業への志は、この詩集の背景をつくる生への意思であろう。あるいは、若くして自死した原口統三『二十歳のエチュード』を読んで、「純粋」という詩魂をいかに取り扱うかについて思いを詰めたことがあったかもしれない。

 

  「俺は悲壮な追想と思い出に分れを告げた/目を閉じると優しい深淵があった/そして、俺は泣きながら、黄昏の中に立ったのだ。/中門は辺りに舞い下りてきた夕空を支配していた。/俺は生気を吸い込んだ………」(「一夜の宿り」)

 

 これはたぶん、紀行さんが青春に奈良の法隆寺あたりを彷徨したときの詩篇であろう。

ちなみに言えば、紀行さんは満鉄調査部社員だった父のもと、旧満洲国撫順に生まれ、1947年、撫順市永安小学校に入学ののち、同年夏、帰国。茨城県牛久村(現、牛久市)の牛久小学校一年に転入している。後に書くように、紀行さんの詩心や詩情には、この大陸的感性がうかがえるのかもしれない。原口統三が兄のように敬愛した詩人・清岡卓行も大連で過ごした。その処女詩集『凍った焔』(書肆ユリイカ、1959年)を、私もまた長く座右の詩集としてきた。

村長になってからの仕事は、大きくわけて、(1)とりわけ弱者に配慮した村民の生活基盤確立のための諸施策、(2)地域文化遺産保全と地域文化の創造、(3)その他の3つだろうが、注目したいのは(1)の諸施策だ。

 

〈生活基盤確立のための諸施策〉
◇老人医療無料化を目的に老人健康手当を創設(1984年)
美浦村社会福祉協議会に在宅心身障害者社会適応訓練施設「ホープ農場」(後に「ホープ作業所」、現「自立支援センターホープ」)を設立(1987年)
◇働く女性支援のため、近隣市町村に先駆けて児童館を設置(大谷児童館 1987年、木原児童館 1998年)
◇湖岸地区の井戸水質悪化から全村水道化計画の推進とあわせ、霞ヶ浦浄化を目指した農村下水道工事を進める。(1987~89年)
◇保健センター(サンテホール)の設置。(1990年)
◇米の減反政策に伴う水田活用策として、南高梅やイチジク栽培を導入、減農薬・環境重視農業を示すロゴマークを作り、農産品の特産化を図る(1992年)
◇農業集落排水事業全国推進協議会会長を二期務める(1993~1994年)

ざっと列挙してみた諸施策は、それらを実施した時期をみなければわかりにくいが、いずれも最も正当に果たされるべき村民生活基盤の確立のための施策だったことがわかる。紀行さんの村長としての施策を支えた精神は、昭子夫人から村長当選に際して贈られたという深沢晟雄の記録『村長ありき』によっても語られている。深沢晟雄は岩手県沢内村(現西和賀町)で老人医療無料化を推進したことでしられる。雑誌『岩手の保健』の編集人だった大牟羅良の『もの言わぬ農民』とともに、深沢晟雄の名を私もしっていた。あるいは、紀行さんと交流のあったという佐久の医師・若月俊一氏についても、私もまた佐久病院に先生を訪ねたことがあった。若月医師は、佐久の農村医療に画期をもたらした人である。かつて親しんだ人の人格や書物への確かな想いが村長となった人の施策の精神を支えるということがあるのだ。紀行さんはまた、子どもの頃、作家・住井すゑの薫陶を受けた。その「住井さんの言葉に恥じることのない」「湖岸文化の息づくまち・美浦」をむらづくりの基本にかかげ立て、打ち出した。それらは今ではごくあたりまえに見えるけれど、実際はなお、確実に達成すべき大切な施策であった。

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美浦村訪問7-1、保全された陸平貝塚の自然

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美浦村訪問8、国指定遺跡記念碑にて、右から市川紀行氏、五十嵐芳子、脇地炯氏、島亨

 

〈地域文化遺産保全と地域文化の創造〉
そして、(2)の「地域文化遺産保全と地域文化の創造」。このうち、前半の「地域文化遺産保全」は、美浦村の自然と歴史に息づいてきた地域遺産を掘り起し、これを現在の文化景観として再創造するもの。「陸平貝塚公園」の設立はその最大の施策だった。

◇前述のとおり、セゾングループ会長の堤清二会長の全面的な協力をえて、縄文遺跡陸平貝塚の保存と活用をシンボルとする「安中地区総合開発計画」を発表。(1986年)
◇翌1987年、「陸平貝塚」の保存と活用のための「陸平調査会」が発足。調査団長には後に明治大学学長となる戸沢充則氏が就任、陸平貝塚文化と遺跡遺物の総合調査のため、発掘では貝層の範囲確認調査、台地平坦部上の試掘調査などを実施。
◇1990年、「陸平貝塚博物館構想基本理念」を提示し、陸平貝塚の保存エリアとして縄文景観を含む14ヘクタールを決定。
◇陸平貝塚及び周辺地区動植物調査実施。戸沢調査団長により「陸平貝塚動く博物館構想」が発表され、これをもとに「陸平貝塚博物館(仮称)基本構想検討委員会」を発足させる。
◇1993年、安中地区総合開発計画による「美浦ゴルフ倶楽部」オープンとともに、遺跡保存のための「陸平基金」を創設。

◇1995年、地域資源を活用したまちづくりとして「ハンズ・オン陸平」事業がスタート。同年10月、第1回陸平縄文ムラ祭りを開催。以後、毎年開催。
◇1990年~1996年、住民アンケートを基に、村の中心部に総面積16.7ヘクタールの総合公園「光と風の丘公園」を整備。多目的競技場、夜間使用が可能な野球場やテニスコート、クラブハウス会議室などの施設、林間レジャーゾーン、子ども広場など。
◇1991~1996年、中世木原城址を発掘調査し「木原城址城山公園」を整備。
◇村民人材を活用した村史研究を進め、通史『美浦村誌』(1995年)、民俗『ふるさと美浦の民俗』(1999年)、伝承伝説『ふるさと美浦の昔物語』(増尾尚子編著、1999年)の村史三部作を刊行。
◇1997年、安中地区総合開発担当のセゾングループ西洋環境開発が事業撤退。堤会長の意向により買収済み所有地を美浦村に無償寄贈。
◇同1997年11月、陸平貝塚遺跡のA貝塚北側の台地平坦部を発掘調査(2004年に発掘調査報告書を刊行)。この発掘調査中に、陸平貝塚の保存と活用からの地域文化創造をテーマに、「歴史遺産の保存と活用からの地域文化創造」と題したまちづくりフォーラムを開催。
◇1998年9月、陸平貝塚が国指定史跡となる。
◇1999年5月、紀行さん、4期16年の美浦村長を退任。

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美浦村訪問9-1、妙香寺薬師堂

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美浦村訪問9-2、妙香寺薬師如来立像

 

〈個性的な文化活動が村長時代にすでに始まっていた〉
 陸平貝塚遺跡保全にはじまる紀行さんを中心とした活動が、そこからどのようなひろがりをもって展開し、美浦村湖岸文化創造の拠点となったことが、これらからわかるだろう。この広がりの中に、中世城址整備や「光と風の丘公園」などの村の景観と暮らしを豊かにする施策への展開もふくまれている。
 そうして、もう一つ後半のテーマ「地域文化の創造」に向けた諸施策。この施策は、じつは紀行さんが村長時代に萌芽しつつ、村長退任後にその活動は自由に展開するものとなった。たとえば、

◇村中央公民館落慶記念として、村民200名がドイツ語合唱でとりくむベートーベンの「第九演奏会」を開催、全国初の「村の第九」としてテレビ、新聞に大きく取り上げられる。(1983年12月)以後、村長在職時代に4回開かれ、さらにこの合唱団から「美浦コーラス」が誕生、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」、オペラ「椿姫」「夕鶴」などが上演される。以後、村主催の芸術鑑賞会、音楽フェスティバルなどが継続して催されている。ちなみにいえば、紀行さんの友、炯さんは森繁久彌とかくべつに親しかった。森繁の名演技で知られるミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」に炯さんは幾たびも通っていた。もしかしたら、紀行さんも帯同したことがあったのかもしれない。
◇1997年11月の陸平貝塚発掘のさなか、「歴史遺産の保存と活用からの地域文化創造」と題したまちづくりフォーラムを開催したと前述したが、この時、小峰久美子演出のオープニング創作舞台で市川紀行作詞の「陸平よはるかに」(作曲・高橋美恵子)が初めて歌われる。

 市川紀行作詞・高橋美恵子作曲の「陸平よはるかに」には、紀行さんの詩(うた)とこの土地の地霊の声とが響働するような「地域文化の創造」がねらわれている。村長在任中だったが、村政の施策というよりさらにいっそう紀行さんの「個人としての文化活動」の傾きを感じさせる活動を次に記す。ここにはまた、とくに、昭子夫人の独自の村への貢献となった活動についても書いておきたい。こうした文化活動は、紀行さんの村長退任とともに、さらにより自由におこなわれるようになる。

◇紀行さんは女性の活躍する場を広げる施策をおこなってもきた。1985年、美浦村初の女性教育委員として堀越靖子を選任。堀越さんは1994年まで在任、また「陸平をヨイショする会」の会長を務めたが、今年、2021年6月、89歳で逝去された。
◇1991年5月、美浦村社会福祉協議会にボランティア連絡協議会を設置、ボランティアの育成、活動支援を進める。また、昭子夫人も1987年より子どもたちに読み聞かせを行うボランティアグループ「お話し会虹」で活動、協議会にもかかわり、2005~2015年の10年間、協議会会長を務める。
◇1983年10月、昭子夫人が茨城県主催の女性人材育成事業「茨城婦人のつばさ」(後に「女性のつばさ」と改称)に参加。イギリス、デンマークスウェーデンを訪問。この後、県南地区の国際交流ボランティア「コスモエコー」に所属し活動。美浦村でもボランティア活動の推進に関わる。「茨城婦人のつばさ」という語句を読んで、ああ、そうだったのかと思いあたることがあった。それは、福島第一原発苛酷事故によって村からの避難を余儀なくされた市澤秀耕・美由紀夫妻の『山の珈琲屋 飯舘 椏久里の記録』を刊行した際にはじめて出会った言葉だったのだ。平成元年、市澤美由紀さんは村主催の海外研修「若妻の翼事業」の第1回生としてフランス・西ドイツの10日間の旅をした。その時の経験が書かれていた。農家の暮らしを日々とする村の主婦にとっての海外旅行は、都会人のあたりまえの海外旅行とはおよそ異なる深い影響を参加した主婦たちにもたらしいことが書かれていた。帰国した主婦たちは、『天翔けた19妻の田舎もん』という冊子までもつくり、農村主婦たちの生活に大きな変革さえもたらしたのだ。その時には、飯舘村だけの企画と思っていたが、「茨城婦人のつばさ」という言葉にふれて、同じような「海外研修」の旅が自治体のあいだに広がりをもっていたことがわかった。
◇1989年5月、かねて霞ヶ浦の再生をめざし、住民の交流、研究、教育活動を進めるシンクタンク霞ヶ浦情報センター」(代表・荒井一美)の設立と運営に関わる。同、センターは、1996年7月より社団法人霞ヶ浦市民協会となる。8月、昭子夫人、イギリス短期英語留学。
◇1993年3月、昭子夫人の母・市川スズの句集『舞ひ納む』を刊行。演劇『舞い納む―我が母の伝説』が、2007年2月、劇団「宙の会」の第五回として公演もされた。一度おこなわれたことが、形をふくらませて反復され展開するのが紀行さん流の表現行為のすごいところ。
◇1996年3月、母淀川いちの『ちぎり絵集』を刊行。翌、1997年6月、母のように慕っていた作家・住井すゑ逝去。住井すゑさんは、明治期、奈良県被差別部落(小森部落)を舞台とした大河小説『橋のない川』(全7部、新潮文庫)で知られる。牛久に居住し、紀行さんはすゑさんのもとに通ってかわいがられたという。亡くなる1年前の市川いちの『ちぎり絵集』には、その巻頭に「ちぎり絵集によせて」と題するすゑさんの言葉が寄せられていた。
 「お子のひとり、紀ちゃんも母をやっと安心させることができたということか。ずっと昔のこと、淀川さんが来られて、紀ちゃんが何処かへ黙って行ってしまってどうしたらよいかと嘆かれた。私は放浪の旅とは面白い、それは頼もしいと慰めたが、そんなことなど懐かしく思い出される。」と。紀行さんには、何人もの母がいたのだ。同年7月、茨城県稲敷郡茎崎町(現、つくば市)圏民センターですゑさんの「お別れ会」(住井すゑさんと未来を語る会)及び翌年から7年間毎年開かれた、住井すゑをしのぶ会「野ばらの会」に関わり講演等を行う。

 ここまでが村長退任前の紀行さん(及び夫人)の活動である。なすべきことを果たしたという充足感のなかで、さらなる旅への意思をたぐろうとしたのだろう。退任の翌年、紀行さんは、早くから決めていただろうヨット帆走や地球一周の船旅という個的な新しい行動に打って出た。村長席にいるかぎり決してできない休暇の旅。このあたりは、ちょっと真似できない。

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美浦村訪問10、帰途に訪ねた霞ヶ浦水上機練習場跡地

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美浦村訪問11、帰途に訪ねた霞ヶ浦水上機練習場跡地にて



美浦村長退任後の活動〉
◇2000年2月、50日間にわたるNGOピースボート地球一周の船旅に参加。船中にて、戯曲「陸平ファンタジー」(安じゅとかすみ物語)執筆。
◇2001年春、村長退任後から始めたヨットで、単独霞ヶ浦帆走。5月、地域劇団「宙の会」結成。11月、旗揚公演として地域の伝承を題材にした創作劇「信太の小笛」三幕を美浦村中央公民館ホールで上演。以後、札幌時代の経験を活かした演劇活動を10年間続ける。そうみずから綴るように、ここに青春の頃から文学・芸術に親しんだ紀行さんの真骨頂があらわれている。だが、それだけではない。美浦村長として経験した自治体政治のありようを踏まえたさらなる活動もすがたをあらわす。
◇2001年6月、地方自治文化研究会「一望塾」開設。以後、毎月1回信太地区公民館で開催。熟生より美浦村及び近隣市町村首長、議員誕生。
◇2002年7月、一望塾一周年記念として、国際ボランティア小山道夫氏を招き、講演会とベトナム「子どもの家」支援コンサートを美浦村中央公民館で開催。
◇2004年6月、一望塾第30回三周年記念としてドキュメンタリー「住井すゑ百歳の人間宣言」上映会及び住井すゑ次女・評論家増田れい子講演会をつくば市ノバホールで開催(実行委員長・市川紀行)。
◇同年9月、陸平をヨイショする会(会長・春日清一)が十周年記念誌『ようこそ陸平へ』を発行。堤清二特別寄稿「生きている陸平の歴史」を掲載、村内で行われた記念パーティには戸沢充則明治大学名誉教授とともに、堤会長も特別参加する。
◇同年10月、市川甚兵衛・スズ往復書簡集『戦地からの手紙』を編著刊行。
◇2006年1月、昭子夫人の母スズ92歳で逝去。

◇2007年7月、母いち96歳で逝去。
◇2009年、昭子夫人、日本書作院より奨励賞を受賞。同年4月、陸平をヨイショする会5代目会長となる。
◇2014年10月、「東海第二原発再稼働を止める会」を村上達也(前・東海村長、退任ののち茨城県市民連合代表などを務める)、先崎千尋(元・瓜連町長)、野口修(元つくば市議)、披田信一郎(元竜ケ崎市議)、秋山康子(元県庁)、小張佐恵子(彫刻家・反原発活動家)、長田満江(元筑波学院大学教授)らと設立、村上達也とともに共同代表となる。
◇2015年3月、陸平貝塚の保存と活用を未来に繋ぐ記念碑の会(174名、20団体、世話人増尾尚子・宮本きみ子・小峯久美子・岡野正枝)による顕彰碑が建立され、「陸平よはるかに」の詩が石碑に刻まれる。
◇同年8月、戦後七十年平和記念映画会「ひろしま」を、稲敷市美浦村阿見町の実行委員、美浦の女性活動を未来につなぐ会とともに開催、実行委員長となる。
◇2016年5月、つくばりんりんロード土浦~真壁(往復40km)のサイクリングに挑戦、完走。
◇2018年3月、陸平をヨイショする会が設立二十周年記念誌「陸平よはるかに」を刊行、戸沢充則、堤清二両氏への特別感謝追悼文を寄稿する。
◇同年6月、心臓大動脈瘤と弁膜症の大手術を土浦協同病院で受ける。いったん退院したが、11月になり、関連感染症により緊急再入院、一時、生死の間を彷徨する。昭子夫人、家族、友人のはげましえて、翌年3月までに奇蹟的に回復する。
◇2020年8月・12月、『市川紀行詩撰集・アンソロジー(Ⅰ)(Ⅱ)及び市川紀行詩撰集付録Memories』の三部作を刊行。

 

〈青春の詩篇から変わらぬ「言語声調の響働」〉
 じつをいうと、以上の紀行さんの年譜的記録は、この三部作の『付録』から、労をいとわず、ほぼそっくり引用させてもらいながら、すこしだけ恣意的な書き込みを加えたにすぎない。なぜこのようにしたか。今回、贈呈された三部作だけでなく、以前に頂戴した本、淀川紀行詩集『朝の場所』(意匠工房はやし、1982年)、市川紀行著『村長室随想―湖畔の村にて』(筑波書林、1989年11月)などもふくめて、紀行さんの全的なすがたに触れて書いておきたかったからだ。
ふつうにいえば、一人の詩人なら、詩人としての表現を中心に味わったものを受けとめ書いておけば良いだろう。けれども、紀行さんのように、青春期にある表現の達成をなしえた詩人にとっての、それ以後の全的人生をどう伝えるのか、この両方をとらえるのにむずかしさを感じたのだ。紀行さんが若き日の詩に、相当の自負を持っていたことは『朝の場所』の「中村公省への手紙」の一文からも伝わってくる。

 

「ところで、僕は僕の詩が好きだ。田舎に引っ込んで十数年、砂利や砂をスコップで積み込む方法こそ機械に変わって、僕はもうやらないが、すぐの四・五年は汗と苦痛で全く思い出しもしなかった。僕は僕の詩が好きだ。何年も埃をかぶっていたものに古さを感じさせないものが沢山ある。勿論、僕だけにしか意味のない詩も多いが、純粋に、観客的に芸術性を獲得している「名編」も十指に余ると思う。それらはイマージュの把握、詩への抽象、存在感、濃度と透明さにおいて、これからの詩人が越えねばらぬ資質と到達だと信じる。口惜しければ書いてみたまへだ。吉本隆明鮎川信夫清岡卓行吉岡実の当時の詩が本当に好きだった僕が云うのだから間違いはない。(君の前で僕は少しおどけているよ)」

 

 少し「おどけ」を含んでいるとしても、これは相当な自負を語るものだろう。紀行さんが地域劇団を創造して自作戯曲を演出したなどの後の作品は、作詩をふくめて、易しい言葉を用いてより自然の情感を湛えるものとなっていることをおもうと、青春期の自作詩言語の彫塑にたいする自恃は、並大抵のものではない。上記の文に続いて、紀行さんは自己感性の由来を語っている。

 「僕の父は満鉄の人事部に居て中国語がうまかったそうだ。だから僕は大陸侵略時代の植民地の子だ。僕はよく父に連れられて中国人の家に行った記憶がある。小学校は向うで入ったから、けっこう色々な出来事や風景を憶えている。眼をつぶれば、遠河の夕日や、紫色の並木道を浮べることが出来る。ふるさととは何処を云うのだろう。僕は土着性などという言葉を聞くと妙によそよそしくなる。一般化された用語としても、肌に合わない。幼児期の原風景の欠落は国籍とか、国家などというものへの嫌悪、良くいえばコスモポリタンな感情を形成するのだ。僕の詩が日本的でないのは、ひとりランボオの為ばかりではない。」

 紀行さんが、自詩の根底には故郷といったものの原風景の欠如があり、コスモポリタンな感情があると認めたとき、後年の地域性に深くこだわった文芸や演劇活動は並大抵の努力なしにはありえなかったことになる。けれども、透徹した表現世界の彫塑にこだわった青春期の詩篇が私たちに伝えるのは、おそらく、後年の地域文化へと深まる意思を支えた「言語声調への信」の大きさではなかったか。ここで「言語声調」という言葉を用いたのは、己のもつ声調の発出が幾重にも包みこまれた繭玉のような言語体となって表現の底部に流れている様態を指す。この言語声調の奥深いとどろきだけが、青春期の詩篇と後年の文芸、演劇などの活動を貫徹して流れる生命の川を指し示している。誰もがもつ「言語声調の存在」を信じて表象し続けるか否かだけが、その人の表現を決めているのではないか。青春の詩篇をいくつか写してみる。

 

ハルメー(わが旅)

砂漠吹きすさぶ我が命に
時は大きく流れて行った
湧き出た雲の初めての接吻は
不吉にも風に乗っていたのだ

研ぎすまされた冷気の到来に
白熱の太陽は炸裂し
霧散した幾千の最後の日没は
煮え滾る地平線に溺れた

雨は降り頻りに流れ落ちた
その怒濤の歌を聞け
…………
…………

また南
甘美な香り流れ出て
律動する泉にえも言えぬ蛾が群がる
無残な墓標に石の山聳え立ちて

明け行く淡紅色の中に
どうどうと海鳴るように崩壊する
その轟音の中に飛び込み自ら命を絶つ
動物の信仰をおれは見た

 

 

 サルタンバンク

…………
サルタンバンク 誰のために泣くのだ
おまえは

どこかに漂着する豊麗な底の灯たち
青春よ
静かに過ぎたことがこの夢に色どりを与えるなら
いま季節の城をはなれて
定まらぬ風のように鮮血を地核に注ぎ込め
血は底の灯を浅ぐろい感触でやわらげるだろう
やさしい誤解のつなが持ち唄を澄む空に投げかける
こめられた復讐、レペルチオはいつも風だ
どこからきたのか たずねるものは
サルタンバンク、赤い色した意識
おまえの初めての存在だ

 

 

残るもの AKIKOに

白い乳房の移ろう 草むらに
みはるかす肉体の ひろがり
気高い気品や 素直ないかり
うつくしく うつむき
唇でほほえむ ひとよ

この飾画たち
消えがちな日々の時刻
もう一つの存在
私の分身
昔のように それがありもせぬ影を
ひと知れず
生活の廻廊に映し出すとき
始まりの色としてきみを彩色しよう
ありし日の贈る歌

 

 

なごりの歌
 (この詩篇は、一つ前の詩篇とほとんど同じだ。思い入れが深かったのだ)

白い裸身の移ろう 草むらに
みはるかす時の流れる

気高い気品や 素直ないかり
うつくしく うつむき
くちびるでほほえむ ひとよ

この飾り画たち
消えがちな日々の時刻
もう一つの存在
私の分身
昔のように それがあったかもしれない
たしかな影を
ひと知れず
生活の回廊に映し出すとき
始まりの色としてきみを彩色しよう
ありし日の贈る歌
………

 さて、次は近年の時代状況に触れた政治さえ包み込む詩篇の一つである。「ぼくが倒れたら一つの直接性が倒れる」と謳った吉本隆明の詩句が反響さえしている。そして、この詩句は、近しい友であり兄である「村上達也」に捧げられている。「村上達也よ きみが倒れたらひとつの直接性が倒れる」「きみが倒れたら未来の直接性が倒れるのだ」と。いうまでもなく、村上達也氏は、もう一つの茨城県の村「東海村」の前村長である。村上達也氏を紀行さんからはじめて紹介されて、その古武士のようなたたずまいに、こんな自治体の首長が存在するのだと、密かに驚いたのを憶えている。その言辞には、ゆるぎない意思の響きが確かにあった。詩句はさらに、もう一人の近しい友、先崎千尋の名をあげ、語りかける。「僕は今 きみからの恩恵に/そう 一方的な恩恵に感謝するばかりだ/たとえば 村上達也を縄文陸平に呼んできたのはきみだ/たとえば 秋山康子に合わせたのはきみだ/ああ たとえば私の演劇に重ねるように/佐久農村医学の先導者/若月医師の群像劇を教えてくれたのもきみだ」、と。ここまで来て知るのは、「詩」とは、「想いの全てを盛ることのできる器なのだ」という詩人的信念の存在である。一つの詩文のうちに、これだけの近しい友の名を入れた詩句を作れるのだ、そういう詩篇があるべきだという詩人の「信」が語られている。この「信」の底に、紀行さんは「言語声調の存在」を籠めたのに違いない。

 

 

 ついに太陽をとらえた

友よ 兄よ 村上達也よ
きみが倒れたらひとつの直接性が倒れる
きみが倒れたら人間の直接性が倒れる
亡者どもの切っ先はきみを貫くだろう
しがみつく過去の亡霊どもが足を引ずるだろう
不毛な没論理が仕返しを企むだろう

だが友よ 君は行く 子どもたちの未来へ
それは日本のかけがえのない未来だ
きみが倒れたら未来の直接性が倒れるのだ

 

 

 新たな地平―先崎千尋兄に

きみが目指す新たな地平は
まだぼくたちに見えない
…………
ちひろよ 少し休みたまえと
慰めるのはやめよう
君はすべてを見たいのだから
…‥‥‥
僕は今 きみからの恩恵に
そう 一方的な恩恵に感謝するばかりだ
たとえば 村上達也を縄文陸平に呼んできたのはきみだ
たとえば 秋山康子に合わせたのはきみだ
ああ たとえば私の演劇に重ねるように
佐久農村医学の先導者
若月医師の群像劇を教えてくれたのもきみだ

きみがいなかったら埋もれたままの先人たち
君が掘り起こす誇らかなかれらの生きざま
きみがいたから蘇るふるさとの農の人々
ああ友よ

 

 紀行さんの村長退任後の劇団「宙の会」のモデルとなったのが、札幌での「劇研ミザントロープ」(恵迪寮)、札幌市「劇団イフの会」等での若き日の演劇活動であったことはいうまでもないが、佐久病院の若月医師がつくった群衆劇や、さらにいえば脇地炯さんから伝えられた森繁久彌のミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」などもまた、その演劇に反響していたのではないか。炯さんが通い詰めたという森繁久彌の「屋根の上のバイオリン弾き」については、炯さんがとても優れた評論を書いているので、次の機会に紹介する。最後に、地域の歴史伝承からは、村が刊行した村史研究の三部作、通史『美浦村誌』、民俗『ふるさと美浦の民俗』、伝承伝説『ふるさと美浦の昔物語』(増尾尚子編著)が創作の素材を用意してくれていた。

 

〈紀行さんに導かれて村上達也氏とお会いしました〉
 紀行さんの村の政治を超えた地域の政治文化への積極的関与は、前述したように、地方自治文化研究会「一望塾」開設や、「東海第二原発再稼働を止める会」の活動などに示されている。みずからが関わってきた村政だけでなく、地域の政治風土と政治文化をも改造したいという類例の少ない政治意思の活動をみせてくれていた。
 東海村長に在任中だった2013年の春だったと思うが、紀行さんは、村上達也氏にお会いできる機会を作ってくださった。炯さんも同行してくれた。私たちのひそかな狙いは、村上達也さんの本をつくることだったが、成らなくともそれはそれでよいと思っていた。それから、東海村長を退任してのち、達也氏の夫人が亡くなられ、紀行さんはその葬儀に出向くにあたり、もし希望するなら、車で葬儀会場まで案内するからと言われ、同行させてもらった。土浦市でお会いして、ひたちなか市東海村が共同運営する「常陸海浜斎場」までの車旅をした。斎場はひたちなか市にある広大な「国営ひたち海浜公園」の傍らにあったと記憶する。村長の重責を退任し夫人との余生をと思った矢先に亡くなられた夫人を思い、達也氏にそっとご挨拶したのが関の山であった。紀行さんが、私たちに達也氏を紹介してくださったのは、十全な心配りがあったのだ。そのことがよくわかった。
こうして炯さんと紀行さん(元美浦村長)、紀行さんに紹介された村上達也氏(前東海村長)との出会いは、私たちにとっての忘れられぬ、大切な記憶財産となった。2012年8月、言叢社は自前手作りの著作として『フクシマ―放射能汚染に如何に対処して生きるか』(島亨著、談話・菅野哲、推薦・澤田昭二)を刊行、この著作に対して、紀行さんは『図書新聞』からの依頼に応えて、その年の秋の美浦村行の後の翌年春に書評を書いてくださった。この著作の取り柄の一つは、政府の避難政策の基準が何を根拠としたかについて、時系列的に変化を追い、これを独力で解明したことにある。もう一つは、澤田昭二(名古屋大学名誉教授・素粒子理論物理、市民と科学者の内部被曝問題研究会代表、原水爆禁止協議会代表理事)氏に全文を読んでいただき、特に広島・長崎に投下された原子爆弾がどのように爆発し、どのような物理事象の連続のもとで、直下の市民にどんな被害をもたらしたかについて、冷徹な文体で書きなおしてくださった。この書き直しには、驚き、あわて、ただただうれしく、感謝するしかありませんでした。澤田昭二先生のこの記述は、今でも忘れられない、最もすぐれた普遍文学とおもっています。

 

〈陸平貝塚遺跡と常総の先史・古代文化〉
 紀行さんが深く思いを抱いた陸平貝塚遺跡と相関するような地域(広く常陸と上総・下総をあわせて常総地方と幅広くみてみます)の先史文化について、直接ではありませんが、私たちは言叢社の出版を通じて触れることになりました。高良留美子さんの新刊『見出された縄文の母系制と月の文化―〈縄文の鏡〉が照らす未来社会の像』(2021年6月刊)です。その第二部は「DNAの研究により見出された縄文の母系制社会」と題され、土浦市の重要な縄文遺跡「中妻貝塚遺跡」、利根町の「花輪台貝塚遺跡」、さらに茂原市の「下太田貝塚遺跡」、市川市の「姥山貝塚遺跡」、船橋市の「小室上台遺跡」などが取り上げられ、これらの先史文化社会が母系制社会の文化をもっていたこと、この文化伝統は古代から近世に至るまで続いていたことを証し立てようとしています。高良さんの著作は、考古学、古代学の専門著書を広く博捜して結論づけたもので、証明とはいえないけれども、常総地方の先史・古代文化像をかなり的確に捉えているとは言えるでしょう。
 私はかねて陸平貝塚遺跡に距離的に近い阿見町乙戸流域の「福田遺跡土偶」(東京大学総合研究博物館蔵)に関心を抱いてきました。この土偶は、あきらかに仮面仮装の姿をしています。類似の土偶はこの地域から他にも出土しており、仮面仮装の「訪れる神」の存在を描きだしているようにおもえます。同じく東京大学総合研究博物館蔵として戦前から保管されていた陸平の遺物があったことからも、明治の頃からこの一帯の先史・古代の文化への関心が確かにあったことを語っています。

 

〈最後に〉
私たち(島亨および五十嵐芳子)は、炯さんとともに、美浦村に二度訪問させてもらい、村のあちこちを案内いただきました。また紀行さん、昭子夫人、炯さんと、私どもと、神田の周恩来ゆかりの中華料理店「漢陽楼」で親しく会食などすることがありました。いまは、お会いする力が私にはなく、はるかな美浦の地をおもうばかりです。

                           (2021.07.29 島 記)

 

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