ことばのくさむら

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台湾にふれて(2)〜『台湾俳句歳時記』の世界

ずっと以前に、台北故宮博物院蔵『文徴明(明代の画家)画集』の編集を依頼されて台湾を訪問したのが、この地を訪れた最初(1975年前後)。そこでお会いしたのが作家・詩人の黄霊芝氏でした。この編集の仕事を紹介してくれたのは長崎の写真家、故・原田正路氏(『世界史の中の長崎』という写真と文の本をいっしょにつくりました。原田氏の写真は外人墓地を中心にし、文章は中西啓氏。長崎が戦国期にイエズス会領であったという、長崎ではあまり触れたがらない事実の証拠を古地図で語っている)で、台北では原田氏の友人の文化人類学者、故・野口武徳氏に出会い、龍山寺傍らの屋台広場で刺身をつまみ酒を飲みかわしました。まだ戒厳令下で、ぬるまっこい刺身を食べたら翌日はすっかり腹をこわしてしまったのを覚えています。何年かたって(1979年)紅島嶼(蘭嶼)ヤミ族の村をぜひとも訪ねたいとおもい、その時も黄氏にお会いしました。
それからもう17年近くもお会いしなかったのですが、中国新石器時代の玉器(良渚文化および紅山文化の玉器など)を調べる必要が生じたとき、ふと、黄氏がたいへんな玉器蒐集家であるのを思い出しました。黄氏は玉器蒐集にひところ熱中しておられ、「宋王之印」「台湾玉賈伝」といったおもしろい骨董小説も書いていました(黄氏の小説集は、国江春菁著・岡崎郁子編として『宋王之印』のタイトルで慶友社から出版されており、前者はこの本のタイトルになっています。黄氏は私家版で『黄霊芝作品集』20余冊を刊行、その中の小説を岡崎氏が編さん刊行したもの。後者は作品集7に収められています。国江春菁は黄氏の戦前の日本名。ただし、どうしてこの名が使われたかは本人はあずかり知らぬ由)。久しぶりの訪問希望を受け入れてくださり、1996年に再訪、はじめてまとまった黄氏の玉器コレクションを数度に分けて拝見したばかりか、氏のお世話で紅山玉器では台湾を代表するようなコレクターの収蔵品を手に取って鑑賞する機会を得ました。この間5度にわたる訪問が、俳句誌『燕巣』(羽田岳水氏主宰の燕巣俳句会=大阪府豊中市)にひたすら書き綴ってこられた黄氏の『台湾俳句歳時記』を刊行するきっかけとなったのでした。
黄霊芝氏の世代はもちろん日本語で育ちました。しかし、驚いたのは氏の兄弟姉妹が集うときには今でも日本語で話しあっていたことです。台北でもお年寄に出会うと日本語でしばしば話しかけられますが、黄氏の故郷である台南にゆくと、向こうから日本語で話しかけてくる人の多いのには驚きました。それほどに幼少年期に覚えた言葉は失いがたいものを人格に植え付けてしまうのでしょう。このことを思いしらされたのは、中央公論社の嶋中氏がぜひにと書いてもらったというエッセイ集を読んだときでした。なんという書名だったか、手元にあるはずなのが見つかりません。嶋中氏が台湾で出会った医師にぜひ書いてほしいと頼んだ。その医師は戦後、日本語の使用が禁圧されてからずっと日本語で文章を書いたことがなかった。薦められて書きはじめてみると、どうしたことか、それまで心の奥に閉じこめてしまった感性の言葉が堰をきったように流れだしてくる。言葉はすこし違っているでしょうが、そんな中身だったとおもいます。
この文章を読んだとき、黄氏がなぜ日本語で書くのかがよくわかった気がしました。嶋中氏が会った医師は久しく日本語で文章を書かなかったために、北京官話による文章を書いていても、感性の流露する自由な趣きをいつも得ることができなかったのに、もうそのことがわからなくなっていた。薦められて日本語文を書いたときに、吐き出されるように自分が禁圧してしまったものがなんだったのかを知ったのだとおもいます。
それに比していえば、黄氏は一貫して幼少年時に受け取った言語感覚を守り表現することに忠実だったのだとおもいます。戦後一貫して日本語文で小説を書き、詩を書き、短歌を書き、俳句を書いてきたのです。何も好んで日本語で育ったのではない。生まれた時から日本語の環境に育っただけだ。この意味合いは、日本に支配された台湾人の悲劇にのみ還元されるものではありえない。植民地支配がもたらした構造ということを失うわけにはいかないけれど、日本語を母語として育てられた者は、そういう言葉によって育まれた言語表出の運命を自分自身でたどりきるほかない。だから、黄氏は表現者として、日本人の文芸として「日本語」を用いているのではない。台湾人の文芸として日本語による表現表出をしつづけてきただけだ。あるいはもっといえば、この地域に育まれた者のいのち、その感性と意思の流露に忠実に表現に向かっただけだ、というのだとおもいます。もっと氏自身に即した言葉は、『台湾俳句歳時記』巻末に収録した「戦後の台湾俳句―日本語と漢語での」にみごとに書かれていますから、ぜひ読んでいただけたら、とおもいます。
さて、『台湾俳句歳時記』を刊行するにはわたしどものような小出版ではいささか荷重ですし、氏の仕事を広く紹介はできにくいのではと思いました。それで、私たちの同人を介していくつもの大手出版社に交渉を重ねましたが、一年以上経ってもよい返事は返ってきませんでした。かつて『台湾万葉集』という短歌集が大手出版から刊行され、ベストセラーになったことがあります。それならば、なぜ『台湾俳句歳時記』の出版が困難なのでしょうか。不可避に日本語の表現に導かれた台湾人の文芸、しかも日本の文芸ジャンルである俳句の本を、日本の出版社が出しえないというのはなぜなのか。
『台湾万葉集』がどうして売れたか。おそらく、短歌はより個人の叙情に近く、戦後の台湾人の苦難が日本人の文芸ジャンルである短歌によって表現されていることに、じかに応ずる感傷の共同性がそこに生まれたからでしょう。しかし、『台湾俳句歳時記』の中身はそのような感傷とはおおよそ無縁な世界を持っていました。それは、台湾という自然・人事から立ち上がる「台湾人の生活宇宙」を表現しようとしていたのですから、日本語による文芸であっても日本文芸ではなく、あくまで台湾人の文芸なのです。それならば、西欧語の翻訳文芸を読むように読めばよいかというとそうでもない。それは日本語によって書かれている。一方、台湾人は日本語で育ったお年寄は別として、大多数の台湾人はもはや日本語を読めず、まして日本語を感性にまでしみとおるように読むことなどできるはずがありません。すると、この本の読者の大多数は日本人によるほかはない。この矛盾が出版に踏み切ることへの困惑となったことは明らかとおもえます。この出版を説得しえないなら、自分たちでこれを引き受けるほかはなく、こうして『台湾俳句歳時記』の編集と出版は、わたしどもの責任に任されるものとなりました。発行は2003年4月。再度の訪問から7年の歳月が経っていました。
編集と組版にあたって、黄氏の完全主義とのあいだにいくつもの齟齬や誤解が生じましたが、杉浦康平事務所の全面的な協力と村田倫也氏のカラー口絵もえて、仕上がりは良いものになったといくらかの自負をもっています。黄氏の断固とした意思は「自序」にも「あとがき」にもあらわれています。刊行後は数多くの書評や紹介をいただき、最後に、黄氏にたいして第三回正岡子規国際俳句賞が授与されました。この本の刊行が大きな契機となったとはいえるでしょう。発行部数は3000部強で、贈呈したのは300部を超え、売れ高は2000余部。まずは制作費用も出て、後世に残りうる仕事となったことはうれしいことでした。(S)
                         

台湾俳句歳時記

台湾俳句歳時記

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台湾万葉集

台湾万葉集

              
宋王之印

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