ことばのくさむら

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台湾にふれて(6)〜台湾季語「蛙釣る」

今はどうか、かつては田舎であれば、田や小川などの内水面で、筌(ウケ)をはじめとする便利な魚捕りの用具があって、大人も子どもも楽しみにどじょう、うなぎ、さまざまな淡水魚を取っていました。戦後の東京では、子どもたちはダボハゼやフナ釣り、アメリカザリガニとり、泥鰌とりなどに興じたことを覚えています。アメリカザリガニダボハゼなどは喰いものにはならなかった。取ったり飼ったりするのがすごくたのしい純然たる遊びでした。田舎では家で食べたり、売り物にしたりする漁撈と遊びとが、さらに一体になっていたでしょう。
主に内水面漁撈の用具である筌について、渋沢敬三は戦時体制下の社会経済史学会で次のように言っています。
「小さい漁業としては、百姓が筌やブッタイのようなもので泥鰌などを獲っている漁業もある。それは如何にも小さく、まとまって居らぬので下らない漁業のようでありますけれども、日本全体からみると馬鹿に出来ない。この筌というものが日本全体に何百万何千万個あるか解らない。従ってこの筌によって採取されているところの量というものも統計には出てこないが、非常に莫大なものに上るのかも知れない」(渋沢敬三著作集第一巻『祭魚洞雑録・祭魚洞襍考』p.608〜609)
この渋沢の言葉をあるとき読んで、目の覚めるような思いをしたことがあります。それはわたしどもの刊行物で、小林茂著『内水面漁撈の民具学』の中にこの文章が引用されていたからでした。『内水面漁撈の民具学』が復元しようとしているのは、人類がふだんの生活のなかにどんな豊かななりわいと遊び、活動の型と自由さを抱えこんできたかであり、その大切な営みを、内水面漁撈を中心に据えて考えたものです。
                  

内水面漁撈の民具学

内水面漁撈の民具学

              
渋沢敬三の言葉になぜ感嘆したか。そこには二重の読みが含まれているとおもいました。一つは、戦時体制の食糧難にあって庶民が自家の暮らしを支えるものは市場、あるいは配給といった外部経済への依存ではない。農家の人たちが必要とするタンパク質の食糧、ことに魚は自製の筌などがありさえすれば容易に補給できる。すこしの用具さえあれば、魚だけでなく、イナゴ、蜂の子、タニシなどさまざまなものが手にはいる。自家で消費するだけでなく、近隣で交換しあい、互いの必要を保ってきた。こういう私経済こそが飢餓への備えとなる智慧であり、経世家、経済家は生産体制、市場経済で主要な領域ばかりに目配りしていては見えなくなってしまうものがある、という認識です。戦時体制下では、たとえば農商務省が『本邦郷土食の研究』(中央食糧協力会編著、東洋書館、昭和19年12月)といった調査を全国的におこない、救荒の備えへの体制を調査したりしていますが、その前に庶民はいつでも自前の智慧を出しあって、私経済による相互扶助を支えとして生きてきた。渋沢の認識は、そこに垂鉛を下ろす指摘ですが、けっしてこれを組織化、集団化したりする意図をふくむものではなかった。国民経済全体との関わりの中で、私経済による生産と消費、互助の規模の想像を超える大きさ、大切さを提示したかったのだという読みです(ちなみに、戦時下では共同耕作化の運動がおこなわれていました。たとえば、『中央公論昭和18年新年号の巻頭特輯グラビア「生れかわる日本農村」を見ますと、文は戦後の共産党作家・高倉テル、写真は土門拳で、青森県戸来村をはじめとする全国六つの村を取材し、男女がにこやかに畑を集団耕作する姿などを撮影しています。土門拳がこのような仕事に携わっていたことはあまり知られていないのでは。しかし、筌で魚を捕ったりする私経済はこうした集団耕作といった組織化からさえはずれた領域にあったとおもいます。なお、この新年号には「世界史的立場と日本」という高名な座談会も掲載されています)。
読みの二つは、国民経済にしめる私経済の規模といった視線からだけでなく、個々の庶民の営みにとってのこのような活動の大切さです。当時、渋沢敬三は日銀副総裁、やがて総裁に就任して戦時下および戦争直後の金融の舵取りに腐心することになります(民具研究者としての渋沢敬三だけでなく、戦時下の日銀総裁としてどのような仕事をしたかについての研究をした本があればぜひ知りたいものです)が、いっぽうでこのような庶民の営みとしての経済に深い関心を抱いていた。そのような読みを受け取ったのでした。
この二重の読みは、ヒトの営みに占める市場経済規模の限界化、市場の上に築きあげられた金融の膨化(過剰金融化)が大きな課題となってきた今日、ふりかえってみるに値する、とても大切なことのようにおもいます。貨幣、金融資産の視点からみるかぎり、私経済の営みはばかばかしいもの、あるいはいずれはこのような私経済さえも取り込むべきものとされるのでしょうが、われわれの暮らしの営みは市場経済やその上に展開する金融の膨化よりもはるかに大きい、これをいつでも相対化できる力をもっている、それだけの豊かな活動の力を人類は育ててきたのだというべきではないか。そんな思いを日ごろ強く感じるようになってきました。
              
そして、台湾季語「蛙釣る」を読みつつ、ついこのことに触れたいと考えたのは、黄氏の解説が、台湾庶民の悠揚とした暮らしのすがたをじつにユーモアたっぷりに描いてくれていたからです。引用してみます。
                      

                     
 【蛙(かえる)釣る】釣水鶏(ティオツイケイ)・釣四脚魚(ティオシイカアヒイ)
  竹竿の先に糸を垂らし、蚯蚓を結ぶ。水辺で、叢に隠れてそれを振ると、蛙が飛びついてくる。引き上げると、驚いた蛙は逃げようとするが、おっとどっこい、下には網が待っていて掬われてしまう。こうして一日に幾らでも釣れる。蛙は動くものしか食べないから、夜間、懐中電燈の明かりの中で餌を振れば、もっと効果的である。池辺や田畦にいる蛙を水鶏(ツイケエ)または四脚魚(シイカアヒイ)と称し、夏の台湾料理に欠かせない。包丁を後頭部に入れ、上顎以上の部分を刎ね捨て、腹を割き、臓腑を抜く。二つにぶっ切り、栗、椎茸、筍、それに生薑、蒜、醤油、酒などを加え、火にかける。芬々として佳肴の名に恥じない。北部では一般に皮を食べないが南部ではむしろ珍重する。蛙釣りは夏の子供たちの遊びでもあり、老人向きの呑気職業でもある。
    蛙釣り曰くありげな顔の疵      …葉七五三江
    どの畦をどう曲ったやら蛙釣り    …游細幼
    ふるさとの斜陽背にして蛙釣る    …王酔生
    殿様蛙釣れてばかりの薄実入り    …北條千鶴子
    離職して一日の無聊蛙釣る      …黄教子
    副業といへど楽しき釣水鶏      …張継昭
    蛙釣るほかに用なき疎開先      …訒瑞貞
    宿浴衣着て酔狂の蛙釣り       …黄霊芝
                 

                        

蛙と戯れつつ蛙釣りし、また、これを手づから料理する。料理の工夫次第で、こたえられないほどうまい。遊びと食と、さらには風景とが一体となったヒトのすがたがじつに簡潔に、的確に描かれ、詠われています。黄氏はもちろん手ずから蛙料理を作っているのであり、なればこそ蛙解剖料理の手立てをみごとに描いているのです。これ以上に言葉を加える必要はないでしょう。台湾農村ではこんな営みが今でも残っているのかしら。ぜひ残っていてほしい。いや、食文化に情熱をそそぐ台湾人であれば、今もしっかりと私経済と遊びの営みが残されているのだと信じたい。
アグネス・チャンさんが香港から東京にはじめてきて、ハトが公園にたくさんいるのを見た。「まるまると太って、まあおいしそう」と思った、というようなことをエッセイの中で書いていた。日本の人はこんなおいしいものをなぜ食べないのだろうか、香港では鳩料理がみんなに親しまれているのに、とも書いていたと記憶します。なるほど、食というのは習俗であって、ハトを見て「おいしそう」という習俗の人と、そうでない習俗の人もいる。「ハトがうまいなら、カラスでも」と思ったりしますが、これを実行に移す人は今のところほとんどない。ある人が実験してみて、それなりに喰えるといったとか。
蛙の中華料理は日本でも食べられます。「水鶏」の名のごとく、確かに鶏肉のような弾力がありますが、日本ではなかなかうまい蛙料理を喰った覚えがありません。日本の習俗でも、むかしは蛙を喰ったことがあるのか、ないのか、調べてみたいと思ったりしています。(S)
                       
                         

台湾俳句歳時記

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祭魚洞雑録;祭魚洞襍考 (渋沢敬三著作集)

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