ことばのくさむら

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台湾にふれて(5)〜「台湾季語」、外来の植物と動物

台湾は17世紀の1624年から1662年のあいだオランダ東インド会社の統治下にあり、また、その間に北部を一時スペインが掌握したこともあって、オランダ、スペインによる洋式の城塞が立てられ、その遺構が残っていたりします。オランダはプランテーションを経営、福建の人びとの渡航を求めたため、それまでは少なかった漢族の入植がうながされた。明の遺臣・鄭成功がオランダを破り、台湾にはじめて漢族系の政府ができたのだと聞いています。
そのオランダ軍の遺構が台南にはいくつか残っていて、市街の中心部にあるのが赤嵌樓(ツーカンロウ)。プロビデンシア城の跡地で、鄭成功が承天府として政治の拠点としたといい、台南に旅した時に見学しました。樓はたびたび修復されているようですが、南国の風土に洋風と中国風が合わさったような樓閣の風情はなかなかです。
                   

緑あふれる赤嵌樓の南国風情
                  
樓のまわりにはヤシやガジュマルがありましたが、その手前の広い敷地には丈高い鳳凰木(ほうおうぼく)の大樹が枝葉を大きくひろげ、そこにびっしりと花が咲き誇っていました(写真をご覧ください)。ブーゲンビリアのような草花ではありませんが、いかにも南国にふさわしい鮮烈な朱紅花をつける喬木で、台南の印象を深くしたのを覚えています。ところが、季語「鳳凰木」の解説を読むと、鳳凰木の原産はなんとマダガスカル島というではありませんか。解説は次のようにあります。
             

                      

鳳凰木(ほうおうぼく)】鳳凰木(ホンオンボク)・鳳凰花(ホンファンファー(中))
 マメ科の落葉性大喬木で、マダガスカル島原産。枝を張り広げるさまが鳳凰に似ての名であろう。葉は細かい羽状複葉で、夜、閉じて静かに眠る。初夏、碧天のもと、目の覚めるような朱紅色の大輪花を梢いっぱいに飾り、わが世を謳う。戦前、台南市の街路樹が有名で、緑のトンネルの先に棟の反り上がった古い城門が聳え、驟雨や嵐のあとでは花が散って重なり、蜿蜒数里にわたり豪華な絨毯を敷いた。樹上では蝉や小鳥が歌い、トンネルの中では鈴を鳴らしながら牛車が通って行った。鳳凰木は生長が早く、一抱えも二抱えもある大木が並ぶ顧みて美しい台南の町だった。のち不才の市長が出て並木を伐り、隈なく自動車を氾濫させた。鳳凰木の名は『台湾府誌』に見あたらず、日本領時代の移入かと思われる。南部の名花。
    鳳凰木の花トンネルを柩ゆく     …張清瑛
    鳳凰木余生しづかに炎ゆるべし    …黄 葉
    鳳凰木の赤む頃として吟行す     …楊海瑞
    なんでも屋来る日来ぬ日鳳凰木    …陳継森
    ひたむきな若き日ありし鳳凰木    …陳錫恭
    鳳凰花燃え戒厳令の布かれたる    …呉澄生
    婚訊のしきりに南都鳳樹咲き     …蔡素馨
    鳳凰花瞼の里に汝(な)ねの唄    …黄霊芝
                   

               

台南、鳳凰木の花


ご覧のように鳳凰木、鳳凰花はマダガスカル原産でどうやら日本統治時代に街路樹に取り入れられたらしいというのには驚きました。草木花の由来は案外わからないもので、この地の特産などと思っていると外来なのです。しかし、台南の亭々と聳え並んだ街路樹とその鳳凰のような大きな枝葉に包まれたトンネルに、大輪の花が咲いていたというのは、その時代に遡って観てみたい気がします。簡潔な解説なのにそのイメージがくっきりと思い浮かぶのはさすが。残念なことにその街路樹は伐られてしまった。けれども台南のいくつかの場所では鳳凰花を観ることができました。
外来の樹花もまたいつしかその土地の文化になっている。先に、幕末に江戸に来た英国プランターのフォーチュンが驚いたことの一つは、染井村ですでに南米産のサボテンやアロエが栽培されていたことでした。それはまだ中国にはないとも言っており、日本の植木職がいかに早く外来文化の植物に関心を示していたかを語っています。
フォーチュンをはじめとする英国のプランターたちは東洋の樹木や草花を母国に持ち帰ることに注力し、故国にもたらされた東洋の植物と園芸が英国の庭園と園芸の文化に大きなショックを与えました。いま日本の小さな団地などで英国風園芸がもてはやされていると聞きますが、その元になったものの大きな要因のうちに、江戸の園芸文化があったことは忘れがちのように思います。園芸文化は洋の東西をめぐりつつ、やがて時がたつとその地域の風土にあった姿をもってあらわれる。台南の鳳凰花も、すでに台湾園芸のうちにあり、季語にふさわしい言葉ともなったのです。そのことを解説は語ってくれています。
                       
さて、つぎは同じ外来でも、すこし異様な生き物。「露螺(ロオレエ)」です。日本語でなんとか理解しようとすると「つゆのようなタニシ」とでも解せるでしょうか。しかし、そう解してもなんのことかわからない。久しぶりに陽明山の黄氏宅を訪問したときです。氏の邸は陽明山を登る大通りから脇道にそれ、いったん谷を下る道になり、沢らしいところを渡って、さらにのぼっていく途中にあります。門から入ると下方は鬱蒼とした林、上方は石垣が築かれていて、少し進むと石垣を上るほとんど直登とでもいえそうな小さく狭い石段があり、それを上りつめると、一段上の平らな庭に出ます。そこに洋風のさっぱりとした小ぶりの邸宅が建っています。迎えに門まで来てくれた黄氏に案内されて上段の庭の中ほどにきたとき、20cmもあるかという大きなカタツムリがむっくりと頭をもたげていて、おもわず踏みつけそうになったのです。ええっ、こんな大きなカタツムリが台湾にはいるんですね、というと、いや、戦時中に日本人が食用にアフリカから持ってきたもので、アフリカマイマイです。まずいので誰も食べなくて、それが戦後に山野に大繁殖してしまったのだ、といいます。陽明山にかぎらず、あちこちにいるというのです。たしかにそのように聞いたのですが、季語解説を読むと、もうすこし正確に書かれているようです。
                  

                     

 【露螺(ロオレエ)】アフリカまいまい・非洲蝸牛(ひしゅうかぎゅう)・非洲螺(フイチウレエ)
 大型の陸上巻貝で殻高一〇センチに達する。昭和十年頃、総督府の技師が食用を目的として移入し、当時は高価且つ入手難であった。リンゴ箱に飼養し、わざわざ青菜を買って与えたりした。のち、これを食べて中毒死したとの噂が立ち、誰もが野に放ってしまった。以後、野放図に繁殖し、菜園、叢林を問わず食い荒らし、農業上の一大脅威となった。戦中の食糧難時代には焼いたり煮たりして食べ、戦後は家鴨の餌や肥料とし、今は缶詰がヨーロッパに輸出されている。体内に両性を具え、一季に数百もの卵を生む彼らの繁殖ぶりに智恵人は辟易するが、雨後の庭を悠然と匍行する姿には詩趣がある。一般の巻貝と同じく殻は右に巻き、異例として左巻きが一例採集され、白肉の変種も捕獲されている。肉は硬いが板前さんにより一佳肴。
         原罪を負うて歩けり露螺も      …鄭清治
         露螺や抗日隘勇(あいゆう)屯所跡  …廖運藩
         露螺に不倶戴天の鍬下す       …傅彩澄
         非洲蝸牛草にすがりて眠りけり    …楊海瑞
         非洲蝸牛高速道路に出て迷ふ     …北條千鶴子
         片足に露螺を蹴り清掃夫       …施碧霞
         露螺肥ゆ食糧難の日に遠く      …黄教子
         露螺の見ざる聞かざる奥座敷     …黄霊芝
                     

                       
   
日本のカタツムリばかり見ているわたしたちには、アフリカマイマイは驚くほど大きく、グロテスクというか立派というか、大したものに見えますが、うっかり踏んづけてしまえばすぐいのちを失ってしまうような、ヒトにとっては、か弱い生き物です。黄氏は「食べてみますか」と聞いたように記憶していますが、もちろん、山ナメクヂさえ食べたという氏が食べないはずがありません。「まずいので」と聞きましたが、料理次第かも。それゆえにこそ、ローマ時代以来カタツムリを美味として養殖さえして嗜んできた欧州に缶詰で輸出されているのでしょう。それもなんと、アフリカ産マイマイが日本技師のお陰というか、台湾から輸出されている。不思議な縁が回っているのだとおもいます。
戦時中はどうやら確かに食用にされたのに、戦後は野に捨てられてしまった。ところが大繁殖。その力は健気というか、大した生命力ですが、ヒトに見つかってしまえば、その人の思い次第。不倶戴天の農の敵と鍬で断ち割られて絶命してしまう。清掃夫に足蹴にされる。高速道路におもわず迷い出て、自動車に潰されてしまう。一方、開いていれば家の中まで入ってくるけれど、残念、奥座敷までは知るまいと一句されている。その匍行する姿は、悠然とでもあり、あるいは孤独にゆっくりゆっくりと歩み、庭をやっと通りこして草にすがって寝ていたりするとも謳われる。日本のカタツムリだとよほど観察しないとその生態について語れないけれど、なにしろ大きくて目立つから、原罪のように大きな殻をつけて、亀よりもゆっくりと匍行する姿は、人生を生きるヒトの姿にも似てくるのです。
うるさがられ、農の敵と排除され、それでもどこか孤独で悠然としている不思議な生き物であることが、詠まれた句からうかがえるでしょう。この外来カタツムリは、もはや一掃してしまおうと思ってもできなくなってしまった一個の生物文化であり、台湾人はそこに排除と優しみとの背反する関係の感情をもっている。それが季語「露螺(ロオレエ)」のなんともいえぬところではないでしょうか。一つの外来文化がその土地でどんな命運を負うかは、そこに暮らす人々の対処のありようによって決まるのかもしれません。「ロオレン、ロオレン、ロオレエ」と、今もアフリカマイマイは台湾の野をゆっくりゆっくりと歩んでいます。(S)


台南の喫茶店でみた水盆
                

如何にも台湾らしい椰子の木
                     

赤嵌樓周辺の南洋杉
                


台南駅:台南駅は日本統治時代の1900年に建設された「台南驛」と呼ばれる洋風建築物が前身となっている。現在の台南駅は、老巧化した「台南驛」を1932年から4年をかけて改築し、1936年に完成したもの。
                     

台南気象局の裏庭に残る日本時代の家屋、大きな料亭旅館であったということ。
                     
                   
              

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