ことばのくさむら

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台湾にふれて(4)〜台湾季語「湧開目」

『台湾俳句歳時記』口絵トップ頁「湧開目」

                  
黄霊芝著『台湾俳句歳時記』の「季語」の総数は396。これを「人事」「自然・天文事象」「自然・植物」「自然・動物」の4つに事項分類し、その中を「暖かい頃」「暑い頃」「涼しい頃」「寒い頃」の4つの季節、さらに「人事」については最初に「年末年始」を加えて5つに分類してあります。日本の季節のように「春夏秋冬」といったはっきりした季節分けができにくく、「頃」という季節分けをしたのは、先にも記しましたように南部と北部、東海岸部と西海岸部とでは季節感覚がずいぶん違い、おおまかな分類が適切とした著者の意向によったものです。まずは台湾海峡の海のさまをよく示す「自然・天文」の季語「湧開目(インカイバッ)」をあげてみます。口絵のトップ頁、村田倫也氏の撮影した海の岩礁で釣りをする風景にこの季語の句が載っているので、それを見ながら、「湧開目」の解説を読んでいただけたらとおもいます。
                    

  【湧開目(インカイバッ)】四月六(シイグエラッ)・波(なみ)の開眼(かいがん)
  台南の諺で「四月六(シイグエラッ)、湧開目(インカイバッ)」という(湧は波のこと)。台湾では春の海はのたりのたりとばかりはしない。治まったと思うと荒れはじめ、気温も時に一〇度ほど下がる。それが陰暦の四月六日頃に落ちつき、穏やかとなる。これを「波が開眼した」「悪さをしなくなった」と譬えたのである。仏生会を二日後に控えての発想だったかも知れない。が、とまれ、波は規律を守りはじめ、人々に航海の好機がやってくる。台南はもと貿易港で船問屋が多く、町中が活気を呈する。貿易船、旅をする者、祖籍の地への里帰り…などで賑わう。漁家も小童(こわらわ)、大童。唐山(トンスア)(福建)からの船も日増しに多く、物産が入り、泉州弁が声高に話され、色町に流るるは絃歌。これらを引っくるめて、海は真っ平らであった。この状態は大よそ梅雨入(つい)りまで続く。
   湧開目おくれて_州へ進香団(チンヒオトァン)  …陳錫枢
   四月六黄色い声たつ運河沿ひ          …范姜梢
   四月六科挙の試験へ一闘志           …許秀梧
   湧開目極楽顔に夫婦旅(めおとたび)      …傅彩澄
   水死せし魂帰り来よ湧開目            …陳継森
   舷に歌を遊ばせ湧開目              …高宝雪
   海坂は恋の越路や湧開目            …林秋菊
   唐(から)僧と筆談日和湧開目          …黄霊芝

                        

ちなみにカラー口絵トップ頁に入れた黄氏の句は、「ひらひらと光は調べ湧開目」となっています。季語分類は「暑い頃」。
「湧開目」という漢字の熟語はふつうの日本人には何の意味かわからない。わからないけれども、そのままの漢字の意味で解すれば「湧き出したり」「開いたり」して、それに「目」がついて、いのちが開いてゆくような何かを表しているのでは、と思ったりするかもしれません。しかし、解説を読むと「湧」は「波」のこと、では「波が開く」とはどういうことか。モーセがエジプト脱出をする際に海波が二つに割れてそこに道ができたという場面が映画でも描かれているのを思い起こしたりしましたが、まあ、そこまでは。でも、それまで荒れていた波が開くと、船が通ることのできる道が開ける。そういう含意かもしれないと思ってみると、確かにそうであるらしく、波がおだやかになった海の様子を語る言葉らしい。しかしそれだけでなく、解説をよく読むと、「開く」「目」というのは「波が開眼する」、開眼して穏やかになるという仏教的意味あいがふくまれているらしいことがわかります。ただ、それにしても、「開く」というのは島国から対岸の土地への道、あるいは対岸の土地から通ってくる道が開かれるという意味が強く重なっているのでしょう。その証拠に解説では、貿易港であった台南の情緒を伝え、この季語によった句も祖先の地への海路、先祖供養の旅だったり、恋人のところに通ったり出会ったりする海路だったり、あるいは港々に通い妻ありだったりして、そのようなさまざまな人情をふくむ海の様子を語る言葉だということがわかります。穏やかな海の季節を語る言葉だけれども、そこに海路を通う人情の印象も含まれている言葉というのは、日本語ではあるかしらとおもうと、近いものはそうないかもしれません。あったら教えていただければとおもいます。
ちょっとうまく重なるとは言えないかもしれませんが、別の比較をしてみます。『去来抄』だったとおもいますが、「逝く春を近江の人と惜しみけり」という師・芭蕉の句について、「近江」を他の国名に置き換えてみるとつまらない。やはり「近江」がぴったりなのはなぜなのか、という問答が記されていたのを思いだします。たとえば、「逝く春を駿河の人と惜しみけり」ではつまらない。この問答について教えてくれたのは、作家の今は亡き若杉慧氏でした。そのときはなるほどふしぎだなと思い、また、はっきりした回答がそこになかったので、ずっと気にかかっていました。
ある時(もう30年も前、近江の観音札所を湖東、湖北、湖西、湖南と重ねて取材し、そこからさらに近江の風土・歴史・文化を調べていた頃のことです)、折口信夫の「近江歌」についての論を読みさして、ああ、そうかと気づきました。折口は古代に「近江歌」というものがあった。そこでの「近江」という言葉は「逢ふ身」という言葉と重ねられ、相互に転換しあうような喩性をもっていたと示唆していたとおもいます。今は原文を確認する余裕がありませんが、そういう意味合いにとれました。すると、「近江」という言葉には「逢ふ身」が重ねられている。芭蕉の時代にそのことがわかっていたかはわかりませんが、「おうみ」という語感のうちに沈殿するように「逢ふ身」という言葉の余韻が実感を与えてきたのではないか。それゆえ、「逝く春」を惜しむのは「逢う身」の人であってはじめて、この句にはなんとはしらねど切々としたものが伴うと感ずるのではないか。この理解が専門家からみて妥当なものかどうかはしりませんが、わたしはずっとそう思ってきたのでした。
「近江」という地名と「逢ふ身」との重なりの喩性、これと「湧開目」の海の穏やかなさまと海路を通う人たちの想いが重なる言葉の喩とでは、言語的にすこしちがう構造ではあるけれど、言葉がもつふしぎな魅力という点では似通うところがあるかもしれません。
さて「湧開目」という熟語の漢字からする意味はこれでほぼわかりますが、台湾語で発音すると、「インカイバッ」という。これは日本語にはあまり見られない発音ですが、
 湧開目=インカイバ
とつなげてみると、海路を通う人のイメージと海のイメージの重ねが、重い情緒を引かず、何かさっぱりとしてきます。そこで、村田倫也氏の写真をみますと、どこまでも穏やかに広がる海の青さが眼にしるく、くっきりと浮かびあがってきます。さらに7番目の林秋菊の句「海坂は恋の越路や湧開目」を改めて声を出して詠んでみます。なるほど「恋の越路」が「インカイバッ」なんだと妙に納得したのでした。もしかしたら、「湧開目=インカイバッ」は日本の俳句・短歌文芸でも使ったら新鮮な詩句が生まれるかもしれない。
『台湾俳句歳時記』を親しい、歌人の今野寿美さんに進呈しましたところ、「とても言葉が新鮮で惹きつけられる」と、すぐさまお返事を頂戴しました。その後、歌の交流で台湾を訪問されたと聞きますから、台湾の風土をとりこんだ、さぞかしみごとな短歌作品ができたのではと思ったりしています。
台湾は海峡を隔ててすぐに福建の地につながっています。この海峡は2万年以前には陸地で、考古学者は「東海ランド(トゥンハイランド)」という広大な低地が広がっていたという説を立てています。その範囲には琉球列島までが含まれていました。そして、南にはフィリピンからボルネオ、ジャワ島までをふくむ「スンダランド」、さらにニューギニアとオーストラリアが一つだった「サフル大陸」が広がり、それらを渡る旧石器人の交通があったといわれます。日本列島に南から到達した人々のはじめの頃には、スンダランドからトゥンハイランドまでの人々がいたことが推測されてもいます。
いまは台湾海峡に十分な平和と自由が訪れたとはいえず、黄氏が語る台南の貿易港としての姿は、かつての海峡の姿を籠めて語られたのでは、と思います。島国である台湾も日本も、海を閉じれば閉じられますが、同時に開かれれば多様な文化と人々がそこに流れこみ、出会い、新しい生活文化がそこから育まれます。台湾季語の歳時記もまたそのような文化の交通から生まれた大切な所産となるでしょう。黄氏は日本語俳句に次いで、中文(中国語文)による短詩(俳句)でも、ここで創設した台湾季語による創作を称揚し、1998年には『台湾俳句集(中文)』の第1集を刊行しています(黄氏は国際俳句交流協会台湾姉妹会長でもある)。つづく(S)
 
  

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