ことばのくさむら

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台湾にふれて(3)〜「台湾季語」創出の背景

『台湾俳句歳時記』の巻末の文章「台湾歳時記と台湾季語」を読んでみますと、「台北俳句会」という俳人仲間の力があることを踏まえても、その中心にありつづけた黄霊芝氏がほとんど独力で台湾季語を創設したことがうかがえます。これは伝統的な「季語」に慣れた日本の俳人からみれば、うまくは了解しにくい事柄かもしれません。しかし、日本の今日の俳句歳時記が、ではどのようにしてできたのかをよく知っている人がいるのでしょうか。わたしはこれについては全くの無知で、「季語・歳時記の歴史」のような本があったら興味深いとおもったりします。しかし、その歴史をたどれば詩歌の長い伝統を踏まえながら、現在の季語・歳時記ができあがる際には、だれかが大きく寄与したことはまちがいなく、そこでできた枠組みをほとんど無意識に踏まえるようになってしまったのでしょう。
 日本の季語・歳時記を借用して、借用しつつ台湾という風土にふさわしい季語・歳時記を創設するというのは並々ならぬ力を要するはずです。「台湾歳時記と台湾季語」に書いてありますように、南北400kmほどの島国ですが、南と北では気象が逆になっている。「北部での冬の雨季は南部では乾季、西部のぶるぶるの寒波は、その頃の東部では黒潮の影響により多く温冬だ」といった風土で、いかに季語を分類し、設定できるかがまずあります。それに、台湾の言葉のもつ複雑さをどう季語として取り込むかは、すでに決まっている季語を踏襲するのとは異なる困難さを伴います。
言語についてみると、先住民各族の言葉と、最も人口の多い本省人(主に福建系とされ、閩南(ビンナン)語から分岐した台湾語を話す)の言葉があり、これに外省人(戦後、国民党とともに台湾にきた人たち)が公用語とした北京官話が加わります(本省人という言葉は国民党による中華民国の政体が理念的には中国全土を支配している建前をとり、台湾はその一部である台湾省にすぎないとしたことによる概念です。国民党政権がいったん崩壊してからは、この政体観による組織は解体しているので、本省人外省人という分類はその残渣といえるかもしれません)。あるいはまた客家(ハッカ)系の人たちの言葉もあります。さらにそれらが混ざり合った言語文化もあるでしょう。最も大きな人口の人たちは台湾語を話す本省人ですが、同じ台湾語でも台南の言葉はだいぶ違っていて、台南方言という呼び方もあるようです。台湾語の母体となった閩南(ビンナン)語、そりよりも包括的な概念である閩(ビン)語をシナ諸語とする説、中国語の方言とする説、あるいはオーストロネシア語、タイ語族に近いとする説などいろいろあるようで、台湾語と北京官話とはおよそちがったものといえるでしょう。
一つだけエピソードを記しておきますと、『文徴明画集』編集のためはじめて台北を訪問したとき、通訳として本省人がついてくれました。制作者のお供をして中華民国政府新聞局を訪問したことがあります。まだ戒厳令下の時代(戒厳令は1987年まで続いた)です。その時、こちらが日本語で話すと、これを通訳する本省人台湾語で新聞局長に話をします。しかし、新聞局長はその言葉に応えません。新聞局長の側にいる局員のほうに何と言っているのか訳せと目配せします。すると、局員が台湾語を北京官話に通訳し直すのでした。つまり、二重の通訳を経なければ会話が成り立たなかったのですが、この会見のあとで、わたしどもの通訳が言うのには、局長は台湾語がわかっているのに、知らないふりをしていると不満を言っていました。事実はわかりませんが、そのようなことがしばしばあったのでしょう。
このような言語の複雑さがありますが、大多数の人たちが用いる台湾語を中心とするにせよ、こんどは同じ語彙であっても、台湾の諸地域の季節風土、生活感覚がちがえば、語彙がまとっている諸感覚やイメージも異なってきます。そのあたりをどう踏まえて季語をつくるかは容易ではなかったことを、黄氏は「台湾語のルビに私が一命を賭けるほどの情熱を注ぎ、使い分けても、一体幾人がこれを誤植ではないと気づいてくれることだろうか」と書いています。台湾俳句歳時記をほとんど独力で創造するとは、このような困難を引き受けることであり、逆にいえば、独力の創造はたくさんの人々の営みを受け取り、それを一つの表現のなかにまとめあげる仕事となります。
             
さて、このような営みの支えとなった黄氏の知的営みについてすこしだけ知っているところを記しておきます。黄氏は言語でいえばフランス語の素養があり、漢字についていえば、その起源をなす甲骨文・金文についての論文もあり、一方で日本の近代文学につての教養をもち、日本語で小説・詩・短歌・俳句を書きつづけてきたことは先に記しました。日本語の文法と語法についてはなまなかではない知識と自在な使い方をもっていることは、『台湾俳句歳時記』がよく示しています。一度も訪れたことのない日本の文化に驚くほどの知識をもっていますが、同時に、中国文化の祖源にある商代の文物にはじまり、各王朝の文物についても深い教養をもっています。では、台湾の文化についてはどうかといいますと、これもなまなかではないようです。
                 
台湾の民俗研究についてすこしだけ触れますと、戦前の台北帝国大学医学部解剖学教室には金関丈夫教授がおり、台北師範学校本科には国分直一教授がいました。金関丈夫は形質人類学の専攻ですが、その教養の範囲は広く民俗、考古から文芸にまでいたる関心から随筆をものし、1941年にはみずから主宰して『民俗台湾』を創刊しました。国分直一は金関研究室につどう『民俗台湾』のグループで中心的なまとめ役を果たしていたようです。二人は戦後の国民党政権下でともに残り、金関は台湾大学教授、国分は師範学校教官から台湾大学副教授に任官しましたが、1949年の蒋介石政権の入台を前に日本に引き揚げました。国分は台北師範学校教授になる前は、台南高等女学校に勤務しており、これは黄氏の故郷になります。
国分は戦後、鹿児島県指宿高等学校教諭を経て東京教育大学文学部教授に向かえられ、退任後は熊本大学文学部教授を経て、1974年に下関にある梅光女学院大学教授となりますが、老齢を迎えたこの頃からが最も旺盛な仕事の達成期となりました。その契機の一つとして、同地にあった新日本教育図書の藤田修司氏と出会い、同年11月、国分直一主宰による民族考古の文化雑誌『えとのす』が刊行されるようになったことがあげられるでしょう。『えとのす』は1986年まで14年間、32号にわたって刊行されましたが、この文化雑誌でとくにはじめの頃は台湾文化関係の記事が多く、そのほとんどは台湾から編集委員として加わった黄霊芝氏がなんらかのかたちで関わったものだったのです。ここに、国分直一と黄氏との結びつきがあったことを紹介しておきたいとおもいます。
『黄霊芝作品集』4・7・12・13をみますと、『えとのす』に掲載された黄氏の記事が以下のようにみえます。このうち、〈鑑裁〉とあるのは、黄氏の説明では、原著者と原訳者と私との共著もしくは私による改作ないし編著したもの、です。
              

  • 「圭・古代王朝の真ん中で」「佩玉と玉佩」「固園別館所蔵古玉器鑑賞・佩玉類其一」「中国古玉器に見られる幾つかの現象およびその断代例」(作品集7)
  • 「中国の神話と伝説」「〈鑑裁〉堯舜禅譲」「〈鑑裁〉三皇五帝の伝説」「探討日本之漢字簡化(中韓日文化関係研討会論文)」「〈鑑裁〉饕餮紋の謎」「〈鑑裁〉中国の民族」(作品集12)
  • 「台湾の演劇」「〈日本語訳〉永鎮の開漳聖王」「〈鑑裁〉台南の大天后宮」「〈鑑裁〉台南の三山国王廟」「〈鑑裁〉林本源邸園」(作品集13)

                     
 作品集7と12は中国の歴史文化についての教養と独自な研究、作品集13は台湾の文化についての論文や翻訳、鑑裁ですが、黄氏による台湾文化についての論文は、いま、手元では確認できませんが、これ以外にもかなりあるはずです。
 これ以外に作品集4と10には次のような論文が掲載されていて注目されます。
               

  • 「台湾蝴蝶蘭の諸問題」「嘉徳麗雅培養史」「蝴蝶蘭的交配趨勢」「関於外銷蘭花私見與構想」(作品集4)
  • 「文献に見える鯉」「端午の節句と鯉のぼり」「要らぬお節介(門外漢の錦鯉論)」「魚随想」(作品集10)


 民国60年(1971年)1月に刊行された『黄霊芝作品集』1の奥付にある著者紹介を引用しますと、
             
     台湾美術協会会員(中華民国
     「笠」同人(新詩・中華民国
     「台北歌壇」会員(短歌・中華民国
     台湾蘭芸協会委員・副総幹事(園芸学会・中華民国
     峯山美術賞その他数種の美術賞を受く(中華民国
     第一回呉濁流文学賞受賞(中華民国
              
とあります。このうち、一番目と五番目は彫刻家としての黄氏の仕事を映すもの。四番目にあるのが蘭栽培と研究および園芸協会活動を語るもので、作品集4は協会雑誌に掲載されたものです。黄氏は単に研究者だっただけでなく、蘭栽培でも一家をなしていたのです。日本の蘭業者から当時最高級の蘭種をいちはやく入手し(骨董小説「台湾玉賈伝」にそのことが書いてあります)、戦後台湾での蘭観賞文化の土台を開いてきた一人でもあったようです。蘭栽培はなかなかお金がかかるでしょうが、黄氏はなにも贅沢してこの仕事をしていたのではない。結核にかかった戦争直後の青年時に、日本に渡って治療をしようとおもったけれど、当時は渡航がゆるされず、自力で病いを克服しようと決意して、まだ開発されていなかった台北市郊外の陽明山に土地を購入して、豚飼育からはじまる生存のためのさまざまな営みをはじめた。山で取れる食用植物だけでなく、「カタツムリ」から「山ナメクヂ」(台湾季語にあります)まで食べてみたといいます。そんな生活をするなかで、気がついたら結核は治癒していた。陽明山が別荘地として開発され地価があがったことで、その一部を売却することでそれなりの暮らしができるようになったけれど、その間の観賞趣味も兼ねた蘭栽培も、暮らすための闘いの一つだったようです。何事にも徹底しているのが黄氏の生き方で、やるなら最高の蘭を栽培し、観賞文化の研究でも先駆的な仕事をしてしまったということとおもいます。
 作品集10の鯉・錦鯉研究も推察ですが、同じようなものだったのではないか。掲載された雑誌名をみますと、月刊『鱗光』誌掲載、昭和57〜59年とあります。つまり、1982〜84年の記事。ところで『鱗光』は新日本教育図書のドル箱月刊誌。『えとのす』が刊行できたのも、おそらく『鱗光』というバックがあってこそなのでしょう。『えとのす』が1986年に刊行を終えたのち、黄氏は新日本教育図書の配慮をえて、同誌に鯉・錦鯉の連載執筆をおこなったのだとおもいます。これも黄氏のことですから、おそらくは自分で錦鯉の飼育をやり、研究となりわいとの両方に関わったのかもしれません。
            
 (なお、以上の記述は手元にある黄氏の作品集および記憶などから記したものですが、黄氏の人柄および作品に大きな関心を寄せた岡崎郁子氏が前記の小説選集を刊行後に、『黄霊芝物語―ある日文台湾作家の軌跡』(研文出版、2004年2月)を刊行しており、寄贈を受けていたのをおもいだしました。そこにはここに述べたことよりはるかに詳しい黄氏の個人史および作品史が記されていますから、黄氏についてもっと知りたい方はぜひご覧ください。)
              
もちろん黄氏の魚に関する知識は鯉・錦鯉にかぎったものではありません。黄氏の応接室には大きな水槽があり、熱帯魚が泳ぎ、大きな巻貝が棲息していますし、周囲には貝殻・貝化石、さらには鉱物コレクションまであったと記憶しています。もちろん、暮らしに結びついた魚にも詳しく手料理していました。市場に行くとわかりますが、四方海に囲まれた台湾の食生活ではたくさんの魚がならび、その料理もさまざまにあります。海の魚だけでなく、たとえば「田うなぎ(鱔魚)」を手ずから料理して親しい客人にもてなすのが黄氏のならわしの一つらしく、うかがうたびに田うなぎ料理を食べさせてくれました。その「田うなぎ」についての「季語」とその解説文は、次のようなものです。
             

               
【鱔魚麵(センヒイミイ)】炒鱔魚(ツァーセンヒイ)・田うなぎ喰ふ
 鱔魚(センヒイ)を日本では田鰻(たうなぎ)とよぶ。ウナギ科の鰻とは別でタウナギ科。足がなく、ぬるりとして摑みがたい点は同じだが、いわゆる鱔魚色を呈し、黄茶褐の渋い斑を纏う。日本では沖縄を除き食べない。中国では古来善き魚とされ、天目茶碗の名釉「鱔皮釉(ぜんひゆう)」に名が登場する。鰻と違い、細かい骨がないので病人や虚弱児、または薬喰の料に良。当帰(とうき)ほかの薬味を添え、盛り場では割いて開き、大きく切って胡麻油、生薑、蒜…を和え、大鉄鍋、強火で、それに烈酒を注ぐ。すると火焔が噴き…このような炒め方で、または麵食とする。値はさして張らないが何となく豪奢。酒気も十分。鱔魚は田や水圳に棲み、能者はよく穴場を知り、渡世の資にこと欠かない。夏魚であるが需要が多いのは冬で、それまで生かしておくだけで財をなす由。
    エプロンに殺生の血よ鱔魚麵   …江凌雪
    挾みてはするりと抜ける鱔魚麵  …李秀恵
    鱔魚麵好みし父を憶ひつ居    …荘雪華
    相愛の箸のもつれや鱔魚麵    …北條千鶴子
    沖縄の教授を交へ鱔魚麵     …江苑蓮
    台南に盛り場のあり鱔魚麵    …徐静英
    盛り場はいつも満員鱔魚麵    …高阿香
    鱔魚麵奢ってちんぴら党結成   …黄霊芝

                            
(註:原文は正字ですが、ここでは適切に按配。括弧内はルビ。ほんとうは解説部分の字詰めが28字12行で、頭と末尾が一字アキとなるように、著者が腐心しています)
              
鱔魚の生物学的特徴と、鱔魚にまつわる生活文化が過不足なく的確に記述され、季語と解説と句とがふしぎにからんで楽しいものとなっています。『台湾俳句歳時記』の魅力はなんといっても、季語創設と簡潔で卓抜な解説にあり、句もまたさまざまな選びとりや並べ方でとても楽しませてくれます。
日本の『俳句大歳時記』といったものは、美しいカラー写真とともに、植物の季語は植物学者、動物の季語は動物学者が関与し、それに歴史文化的な視点やら、俳人の記す領分があって、これらの総合でできあがっています。
しかし、黄氏の台湾歳時記は、植物、動物、民俗、人事などの全てにわたって、黄氏が独力でこれらにあい渉る記述を、それも自在な日本語で表現しているのです。それを支える知の背景は、ここに記しましたように自分で確かめてえられた全ての分野にわたる知的研鑽から生まれたもので、これを自在な日本語の表現になしえているところに、その独創があるといえるでしょう。しかもそれは、麗しき島(フォルモサ)「台湾」という生活宇宙が華開いた文芸世界をわたしたちに指し示してくれたものなのです。次に、台湾季語の具体をさらにいくつか見てみたいとおもいます。(S)
         
                 

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えとのす―民族・民俗・考古・人類 (30)