ことばのくさむら

言叢社の公式ブログです

『愛という勇気』(3)

●10年ぶりに再刊した一冊の本
  
愛という勇気 -自己間関係理論による精神療法の原理と実践-』 
THE COURAGE TO LOVE(S・ギリガン著/崎尾英子訳)への招待(3)
   

   

   
●関係を支える場:この関係を支える場は遍在する一方、定まった形をとらない。一人一人の人間は自分なりのやり方でこの場に到達し、関わる方法も時の流れとともに変化する。したがって治療において関係を支える場についての理解がなされるときには、それはかならずクライエントが理解できる方法でなされる必要がある。この場の持つ価値は、それが持つ生命力にある。……治療においてはたえずこの場を感知する能力を育てる努力がなされねばならず、それについて語られる言葉の数々は、生成しつつある生命存在に触れる力においてこそ、価値を持つ詩的な言葉として眺められなくてはならない。
クライエントがこの関係を支える「場」について持っている理解は、子ども時代の経験でいえば「無垢」と呼ばれる。……政治への関わりからこの場をしれば「正義」という用語が当てはめられる。催眠の経験からこの場の感覚を知った人間は、それを「無意識」と呼ぶかもしれない。スポーツの鍛練を通してこの場を知った人間は「ゾーン」と呼ぶ。結婚や友情を通じてこの場を知ったものは「愛」と呼ぶ。宗教的体験を通して知ったものは「神」と呼ぶであろうし、浜辺や山での散策を通して知ったものは「自然」と呼ぶかもしれない。
重要なのは、われわれは誰でも自分を超越した力強い存在を経験したことがあるという点である。自己間関係理論から見れば、われわれがこれらの経験(祈り、仲間からの支持、トランス、舞踊、呼吸、散歩、ふれあいなどの)をするときに、問題は消失する。至福感が訪れ、「問題は私自身である」とみなされている自己が溶解していく。この状態では何が起こっているのだろう。これらの状態でわれわれはかならず自己の感覚が拡大、拡張するのを感じ、同時にわれわれを隔てる境界が薄らぐにつれてより強い自己信頼が生じる。〈p.54〉
  

   
●「根源的で柔軟な部位」:(「根源的な罪」と対比させて)。それはわれわれ一人一人の中核をなしている。この柔軟な部位に暴力が加えられたり、その存在が無視されたりすれば、痛みが生じる。痛みによって圧倒されるのを回避するために、われわれは自分の中心と距離をとったところに住む(自分なりの物語をともなう)仮面を紡ぎ出すのである。われわれの多くにとって、自分が誰であるのかという感覚(アイデンティティ)は、この根源的で柔軟な部位を否定した上に築かれている。この否認に由来する精神の焦燥感や歪曲は苦悩を生み、それがさらに焦燥態と歪曲を強化し、われわれは自己の中心からますます遠ざかる。時には数十年も、数世代もかけてようやく自己への復帰がなされる。〈p.60〉
●自己の中心からの解離:本来は解決方法として生じたものである。解離は身体で経験される自分の痛みを鈍化させるばかりでなく、切り離された認知で経験される自分を成長させることになる。しかし人が己の能力を開発するにつれて、身体で経験される自分から疎外された状況に止まることは負担となる。それはこの時点ではよりよい方法が入手できるからである。このよりよい方法とは、認知で経験される自分の持つ後見の能力と、身体で経験される自分の持つ「フレッセン[生命を吹き出す]・エネルギー」とを結び合わせ
る関係を支える自分に関わってくる。これこそが症状がその人間のために試みていることなのである。根源的な中心への「復帰への呼び声」であり、統合された関係を支える自分へと移行する好機を提供しようとしているのだ。そこで要求されるのは、「力による原理」の放棄と、暴力を用いることなく(内なる、また外なる)他者と関係を持ち、それを後見しようとする前向きの姿勢である。不幸なことに、通常われわれは放棄(あるいは「自分を投げ出す」)すれば、悲惨な事態が起こるに違いないと信じるようにしつけられている。そのため、人は自己存在の内部を流れるフレッセン・エネルギーの流れに抗いつづけるのだ。〈p.60〉
    

   
     
  


   

愛という勇気―自己間関係理論による精神療法の原理と実践

愛という勇気―自己間関係理論による精神療法の原理と実践

      
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