渡辺公三さんを追悼することばたち
昨年12月16日に食道がんで急逝された渡辺公三さん(文化人類学、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授、立命館大学副学長、学校法人立命館副総長、立命館西園寺塾塾長、享年68歳)が生前に構想していた第三論文集『身体・歴史・人類学Ⅲ 批判的人類学のために』をこのほど刊行しました。この刊行を機に、京都でのご家族による密葬、3月3日に催された学校法人立命館による「渡辺公三先生を偲ぶ会」(ホテルグランヴィア京都)につづき、東京でのささやかな集会「渡辺公三さんをしのぶ会」(9月30日(日)、東方学会本館会議室)を催しました。
京都での追悼集会に参加できなかった東京を中心とする同輩の親しい友人、関わりをもった若い友人、30余人が参集され、みなさんが全員想い出を語ってくださいました。台風24号が夜分には来襲とのことで、交通機関がはやばやと運転をやめるという情報が伝わるなかで、いつ果てるともない話しが続き、ある参加者の感想をお伝えすれば、まさしく「明かしえぬ共同体」のようだった、と。
この集会の様子については、さまざまな形で紹介をしたいと思いますが、「言叢社ブログ」では、さらに「渡辺公三さんを追悼することばたち」を、さまざまな方の言葉を紹介していきたいと思います。
その第1回として、サックス奏者・音楽家の仲野麻紀さんによる追悼文を掲載させていただきます。仲野さんの音楽は、大学の副総長・副学長として公的激務に駆け回る公三さんに、心やすらぐひと時を与えてくれたでしょう。それとともに、公三さんの感化を受けて、仲野麻紀さんは『旅する音楽』(せりか書房、2016年)という好著を刊行しています。
撮影:村山和之さん
● 渡辺公三さんへの追悼
知の喜び -Plaisir-
仲野麻紀
西アフリカ、ブルキナファソの楽士が舞台で奏でる音楽に、観客は固唾を飲んで聞き入っている。
はじめて聴く音の抑揚に、ある者は体を揺らし、足でリズムを刻む。
主催者であるわたしは会場の一番後ろから、満員の聴衆の後ろ姿を眺めた。
彼らは笑顔で音楽を聴いていると確信した。
演奏中盤、背広姿の男性が舞台に躊躇なく上がり、ポケットから財布を出し、演奏者の、汗の滴るデコにお札を貼って歩いた。アフリカではこういった場面は日常茶飯事だ。演奏者に、演奏をしているその瞬間に聴く者が演奏に対しての対価を払う。そこに演奏する者とそれを聴く者という関係が生まれ、交換が生まれる。
舞台に上がったその男性とは、アフリカへの眼差しを持ち、人類という無数を対象にした学問、そして、わたしとあなたという関係を、一人称、二人称ではなく、互いが相互に他者となり、その関係の中で人間は存在するということを研究された渡辺公三氏だ。
後者の言い方をまさに学者然とされた言い回しで、
「対幻想ではなく、異った共同幻想を担う個体間の関係」と仰っていた。
と思いきやある時は「雨と夏日の交代は心の動きとそっくり」という詩的な表現を使われていたことを思い出した。ある炎暑の午後、京都にある研究室へ連れて行っていただいた。
そこは何年か前、京都での演奏の際、シリアのフルート奏者と共に楽屋として使わせていただいた部屋だ。
ひしめく書物。好奇心の対象としての本。「知の喜び -Plaisir- なくして人生はない」、とその時仰っていたと記憶する。大学という学びの場、そういった場の公開性を重視され、大学の外である社会に開かれるべき、あるいは還元するべき知の喜び、と解釈できるかもしれない。
フランス時代、フィールドワーク、研究に関係する多くの書物は、確かに氏の知の喜びを刺激するものばかりだろう。しかしその喜びは時にある結末として暴力的にわたしたちの生きる存在というものを、脅かす可能性を孕んでいる。
氏のライフワークであった、〈レヴィ・ストロース〉は、著書『野生の思考』や『神話論理』をとおして、先住民が自分を取りまく世界にいかに繊細な感覚で接し、人間以外の生物種に共感をもっていたかを明らかにした。しかしその仕事が完成したあと、アメリカを中心に「エコロジカル・インディアン」なんて真っ赤な嘘だという研究が公刊されて大きな反響を呼んだという。それがちょうど21世紀になる際(きわ)だった。では現人類学者たちは、こういった論調に対してどのような反応を示しているだろうか。
氏は、人類学という分野の中で様々な研究の成果として、肯定的な共生世界を社会に提示しつつ、しかし、「野生の知」から学んでるはずの人類学者たちの歯切れの悪さを気にされ、そういった人類学の現在とは何なのか、ということをこの近年考えていらっしゃったように思う。
だからこそ、論文集三巻のタイトルは「批判的人類学のために」となったのだろう。
自己の存在を真っ向から肯定するための、他者に対する否定的な考えに対し、人類学という学問を生業とする人々の仕事とは何なのか。
過去の延長線上にある今という時間。事実を真正面から受け取り、共生することとはどういうことなのか。
存在を肯定できる世界。それは他者の生にどれだけ向き合うことができるか、ということだろう。この様な表現もされていた。
「ひとりひとりの誰にも、仏像の光背の無数の仏のように、その人が生まれるために
存在した人々が控えてる。」この世の循環の中に、今を生きるわたしたちの生があるということ。
今わたしたちが生きている現実とは、様々なものごとの循環の中に存在する過程である、と感じたい。
ところで、詩的な表現といえば、
「月明かし人々の背に涙かな」という一句を作られていた。
氏の病状以前、おそらくご友人が亡くなられた際の句だったと思う。
月ひとつ、個の存在、社会にある人々に注ぐ灯。対照的な語彙にこめられた意味とは。今年にはいってすぐ、本著の編集者のひとりIさんとお話しした際、
「満月の下を大いにくよくよ歩く」ということを仰っていた。
亡き人の声を文章からひとつひとつ聞き取りながら、著者に伴走する編集作業のさなかの言葉だったようにおぼえている。お月さんがめっぽう綺麗になる秋、出来上がった論文集を開き、公三さんの知の一端を読むことを、よろこびとしたい。
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※渡辺公三さんと音楽
麻紀さんと出会う以前から、公三さんは音楽との深い縁をもってきました。国立音楽大学助教授(1986-94年)だったことから、弟子として「国家に抗する社会」バンドを結成した港大尋氏、公三さんから博士論文の外部審査をしてもらった国立音楽大学の川崎瑞穂氏(現・神戸大学)など音楽研究者・演奏家との関わりをもってきました。また、レヴィ=ストロースの『神話論理』の論述と構成が音楽の論理とかかわりをもたせて編まれていることにも、深い「えにし」のようなものを受け取ってきたかもしれません。この関心のありようは、たとえば、言叢社で刊行したフランツ・ボアズ著、大村敬一訳『プリミティヴアート』の音楽論に対する公三さんの書評の中にもうかがえます(次に引用しておきます)。
●フランツ・ボアズ著、大村敬一訳『プリミティヴアート』(言叢社、2011年)にたいする亡き渡辺公三さんの書評(図書新聞)の一部。
「結論に先立つ第七章「プリミティヴな言語芸術と音楽とダンス」は第六章までの視覚的な造形の主題に対して、声と身体による時間芸術の造形をとりあげる。言葉、声すなわち詩と歌、そして身体表現としてのダンスは、踊ることのできる身体を獲得し、分節化した声の言語を獲得した人間にとって、もっとも普遍的でプリミティヴなアートなのだ。もし評者が、声と身体を「もの」と呼べば、強引の誹りをまぬかれないだろうが、これらは人が、人を魅了する力を宿す形をあたえることのできる、もっとも身近な生きた素材であることは確かである。ボアズの視点において、身体がいかに重要な位置をしめているかは、詳細な索引のなかで「身体部位」(ここには人間だけでなく動物のそれもふくまれる)の突出した比率が間接的に証言している。いっぽう言葉のアートは、ボアズがたびたび強調するように、その言葉を母語としない者にとっては、もっとも理解のむずかしい精妙なアートでもある。
視覚的芸術を優先した進化論的芸術論に対抗して、眼よりは手を重んじた籠編みの技や土器作り、彫刻など、身体が素材に働きかける手技から生まれる造形を起点に、視覚的なリズムやシンメトリーの美の検討をへたボアズの「プリミティヴアート」の探求は、こうしてアートのもっとも原初的で普遍的な源泉としての声と身体にたちもどることで閉じられている。そしてそれは、技の主体と対象がもっとも親密に交錯する、外部の観察者にとってもっとも接近しがたい源泉でもある。北西海岸インディアン、チヌークのダンスに魅了されたことがきっかけで人類学の世界に入り込んだというボアズは、こうして常に初心に回帰しつつアメリカ現代人類学の父となったとも考えられる。」
- 作者: フランツボアズ,Franz Boas,大村敬一
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