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『民衆本狐ライナールトと検閲』に寄せて

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2021年第二弾は、立命館大学文学部教授 檜枝陽一郎(ひえだ よういちろう)さんによる自著に関するエッセイです。

  

 

『民衆本狐ライナールトと検閲』に寄せて
            

                        檜枝 陽一郎

 

 狐は餌がなく餓えた時は、死んだふりをして鳥をおびき寄せ、捕らえて食べてしまう。それゆえ狐は中世ヨーロッパでは一大偽善者で策略に満ちていると考えられていた。そんな狡猾な狐のライナールトを主人公にした動物叙事詩『ライナールト物語』がベルギーのフランドルで成立したのは一五世紀前半のことであった。ただし現存する写本は一五世紀後半のもので、オランダ・ゴーダの印刷業者ヘラールト・レーウがこの作品を散文化して『狐ライナールト物語』と題して一四七九年に刊行している。散文版は、韻文『ライナールト物語』の内容をほぼ踏襲しているとはいえ、二つの際立った特徴をもっている。一つは、韻文から散文への移行であり、いま一つは本の体裁が変化したことである。
 印刷本では、不特定多数の読者を想定したうえで本作りをする必要があったので、テキストに使用する言語にも配慮が加えられた。読者はそれまで読む習慣のなかった人々で、テキストは彼らが理解できるものでなければならなかった。それゆえ、日常的に話されている言葉に近い言語、すなわち散文にテキストが変更された。また写本の場合、依頼主がどんな本を注文したかを自分で理解しているので、口上としての序が最初に置かれているものの、目次はない。印刷本では目次が新たに設けられ、それは、最初の数ページを見れば本の内容が把握できるようにした工夫であった。また目次に連動して章立てがなされ、各章にそれぞれ見出しが付されたのも、それぞれの章に何が書いてあるかを読者に早く知ってもらうためであった。
 以前、これら二作品を翻訳したうえで解説し、『狐の叙事詩』というタイトルでやはり言叢社から出版したことがあった(二〇一三年度日本翻訳文化賞受賞)。今回の『民衆本狐ライナールトと検閲』は、第一篇に民衆本『狐ライナールト』(一五六四年)および第二篇『狐ライナールトあるいは動物の審判』(一七〇〇年前後)を所収して解題を付したもので、『狐の叙事詩』の続編としての位置づけになる。

 民衆本『狐ライナールト』は、アントヴェルペン(英語アントワープ)の印刷業者であったペーター・ファン・ケールベルヘンが出版したものである。本文は大幅に短縮され、前作である『狐ライナールト物語』の五二%弱の分量に過ぎない。物語の舞台もベルギーのアントヴェルペンを中心に設定されている。当時有数の国際商業都市であったアントヴェルペンの住民、それも若者が主要な読者であったのは間違いない。民衆本は『狐ライナールト』に限らず、ベルギーやオランダにおいて一六世紀前半に爆発的に流行した。印刷業者たちはこぞって中世文学にあった題材を再び取り上げ、民衆本に仕立てていった。ところが、こうした民衆本を激しく批判する学識者の一派も存在した。エラスムスを代表とするいわゆる人文主義者たちである。ギリシア・ローマ時代の文学を重視した人文主義者にとって、民衆本は何の教養もない御伽話に他ならない。人文主義者たちの民衆本に対する批判のせいで、結果的にその読者層がより下級の階層すなわち一般大衆である手工業者や農民に移っていった。文学としての重要な役割を終えつつあったと言ってよい。しかし、もはや印刷されなくなったという訳では決してなく、逆にアントヴェルペンとヘントは、一六世紀から一九世紀まで民衆本出版の一大拠点となっていった。
 一六世紀は宗教対立の時代でもある。ルターによる宗教改革に対抗するために、カトリック側は一五二○年以降、反宗教改革の一環として検閲ならびに禁書を本格的に導入し、その後厳格さを増しながら、度重なる検閲および禁書が実施され、そのために逮捕され処刑される印刷業者も少なくなかった。韻文『ライナールト物語』やそれに続いた散文『狐ライナールト物語』はカトリックの聖職者への批判に満ちていたので、これらに続いた民衆本『狐ライナールト』にもカトリック側から批判を受ける要素が多くあった。一五六四年に刊行された本であるので、カトリック側に配慮したテキストの変更も見られるものの、その序には「第一に、聖職者の階級を穴熊に喩えています。そして密かに彼らの貪欲さと邪淫が攻撃されています。」といった文言が修正されず残ったままである。そもそも動物をキリスト教徒のように登場させること自体、カトリック側への辛辣な当てこすりに他ならない。
 逆に言えば、この物語はプロテスタント側にとってカトリック側を攻撃するための格好の材料となる。フランス人ロベール・グランジョンが考案した新しい書体であるシヴィリテ書体を用いて本が印刷されているという事実からそれは明白である。いわゆるスクリプト・タイプ(script type)と称される草書体活字で、当時は子供用の書き方の練習に使用され、プロテスタント側が子供たちに自らの教義を浸透させるために用いた書体であった。
 ただ、ケールベルヘンはシヴィリテ書体を所有しておらず、この書体を早くから購入していた同じアントヴェルペンの印刷業者クリストッフェル・プランティンに依頼して活字を組んでもらっている。そのプランティンは、民衆本『狐ライナールト』が出版されてから二年後の一五六六年に、今度は自分の印刷所から蘭語仏語対照の『狐ライナールト』を出版した。その序には、フランス語を学ぶ生徒用の教科書として出版したことが明記されている。プランティンはこの作品の独占印刷権および独占販売権、すなわち特認(オランダ語privilege)を取得したものの、アルバ公による検閲に引っ掛かり、蘭語仏語対照『狐ライナールト』は一五七〇年に禁書目録に登録され、焼却処分とされた。一方、印刷業者のケールベルヘンは家宅捜査の後に逮捕され、一五七〇年に保釈後数日してから死去した。民衆本『狐ライナールト』を出版してから四年後のことであった。同業者のなかには獄中で死んだ者もいた。民衆本『狐ライナールト』以外にも、一六世紀後半から一七世紀前半にかけて多くの民衆本が発禁処分となった。ところが、一九世紀まで民衆本の人気が続いたことを考えると、そもそも発禁処分はあまり効果がなかったようである。それゆえ、あまり効果がないのであれば、禁書よりも不穏当箇所を削除した書籍を出版した方が、良いのではという意見も出てくる。次善の策というわけである。その結果、一七世紀に入って不穏当箇所を修正した民衆本が盛んに出版されようになった。そうした目的で一六一九年にアントヴェルペン市の書籍検閲官に任命されたのが、司教座聖堂参事会員であり、同時に司教座聖堂付属学校校長であったマキシミリアヌス・ファン・エイナッテンであった。神学士エイナッテンは悪魔払いの専門家でもあったので、検閲および不穏当箇所の修正には適任であったと言えよう。
 エイナッテンが不穏当箇所を削除ないし修正した後に成立したのが『狐ライナールトあるいは動物の審判』(以下『動物の審判』と略す)である。これを民衆本『狐ライナールト』と比較してみると、エイナッテンの意図は主として宗教色の脱色にあったのは疑いない。エイナッテンは早くも本文の冒頭から修正を迫られている。民衆本『狐ライナールト』が「聖霊降臨祭のころの出来事であった。」と始まるからである。聖霊降臨祭という通常は五月下旬に開催されるキリスト教の大祭をエイナッテンは非常に巧みに「動物たちがことばを話していた時代、五月のころの出来事であった」に変更している。この変更によって一気に、物語の舞台が人間社会の現実から遠ざかり、いつの時代かもわからない架空の動物社会に移動したとの印象を受ける。それは、できる限りキリスト教的要素を物語から除くというエイナッテンの目的に合致してもいた。
 さらに、巡礼の旅や巡礼杖、巡礼袋といったおよそ巡礼に関わることはすべて削除された。『動物の審判』では、罪を犯したライナールトが赴くのは巡礼の旅ではなく、悔悛の旅に変更されている。宗教色の削除は個々の単語にまで及び、たとえば民衆本『狐ライナールト』に見られる懺悔あるいは修道院、修道士、祝福、恩寵、助任司祭、聴罪司祭、時課、破門、地獄といった単語はことごとく削除されて出現しない。エイナッテンの非常に几帳面な仕事ぶりが窺える。
 このように、一六世紀から一七世紀にかけて実施された教会および世俗の当局による検閲によって、本来は由来を一つにする物語が、内容の変更を迫られ、オランダとベルギーそれぞれで二つの異なる物語の型が生まれた。多くの民衆本が現代まで残らなかったなかで、狐をめぐる物語が中世以来、各時代の社会背景や新技術に適応しつつ、その姿を変えながら現代まで生き続けているのは、まことに興味深い。

  

 

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こちらも「図書新聞」2020年9月26日号に書評が掲載されましたので、紹介いたします。

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