ことばのくさむら

言叢社の公式ブログです

菅野哲 著『〈全村避難〉を生きる  ――生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故』

福島原発事故から10年、何も本質がかわっていない現在の状況に暮らしながら、飯舘村民として考えていることを、著者である菅野 哲(かんの ひろし)さんから伝えていただきました。
飯舘村長は、事故以前から以後まで菅野典雄氏が村長として在任し続けてきましたが、昨年(2020年)10月、ようやく、杉岡誠新村長が誕生(元村職員、浄土真宗善仁寺住職)しました。村民の賠償にほんとうには寄り添うことのなかった前村長のこれまでの政策に対して、新村長の新たな政策指針への期待は大きい。杉岡新村長は、東京工業大学で基礎物理学を専攻するとともに、浄土真宗の住職を務める。科学と民衆宗教の理念の双方を踏まえた政策思考が、これからの村の再生に大きな役割を果たされると思います。
ここに収録するのは、「日本建築学会 地球環境委員会公開研究会 2021年2月20日」において、リモートでおこなわれた会議での菅野哲氏発表のPDF版から切り出したものです。

 

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〈全村避難〉を生きる  ――生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故』の目次と菅野 哲(かんの ひろし)さんの略歴は、言叢社のホームページをご覧下さい。

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旧暦正月 四季平安

旧正月を迎えました。

寒さも少し和らぎ、日差しも徐々に力強くなってきていますね。今年はいつにも増して春の訪れを嬉しく感じますが、皆さんはいかがでしょうか。

新冠病毒感染症については、第三波が収束の兆しを見せつつあり、ワクチン接種もそろそろ準備が整いつつあるようですが、まだまだ気が抜けません。

引き続き各々の人生時間をより有意義に、また御家族や知人のことも慮りつつ、日々を過ごしてまいりましょう。

そしていつも心と手に本を!

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旧正月の青空には中国式春節飾りが似合いますね

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新刊『誰だって誰かのヒーローになれる』感想文のご紹介

☆感想文を寄せていただきました!

 

『誰だって誰かのヒーローになれる』を読んで
                                 
 大学在学時の恩師の紹介により、拝読しました。

 私が興味をひかれた部分以下3点について、感想を述べてみたいと思います。
①夫婦の子育て協力
②親が正しい情報を得ることの重要性
③いのちの選別・障害に対する偏見差別について 

 

①夫婦の子育て協力
 イクメンという言葉がではじめて久しい昨今です。
 この令和の時代になっても、まだまだ育児は女性中心という考え方のもとに育ってきた世代が多い中、広岡さんの八面六臂の家事育児に、単純に感動を覚えました。楽しんで子どもにかかわる姿、本当に素敵だなと思います。
 また、奥様の「まあ、いっか!」という前向きな気持ち、見習っていきたいです。
 どうしても、「なんでできないの?」「いま~してるから、待って!静かに!」
 自分の家事の進度や気持ちが中心になり、反省している毎日です。
 我が家では、夫婦とも半年かけてようやく一通りの動作が板についてきました。
 夫も子育ては大変だけど楽しい、子どもはかわいい、と日々感じ取ってくれているようです。



②正しい情報を得ることの重要性
 昨年6月息子が誕生しました。妊活2年半、その間に婦人科系疾患の手術2回、3度の体外受精そしてコロナ禍を得てようやくのことでした。
 妊活中から妊娠出産前そして現在も、メディア・インターネット・SNS等、様々な情報伝達ツールの使用方法、情報過多の中での誤認識、信用性などの不安を日々感じています。ですが、安定期までの薄氷を踏むような日常生活、日々変化していく自分の体調と体形、周産期に向けての精神状態、出産後の一変した生活、一日の時間の経過の早さ。自分自身が経験して得た知識は、情報ツールを使ったものにはおおよそ得難い確証と信頼を持つことができました。
 本書は、まさに経験からの生きた情報がテンポよく活き活きと書かれており、その点もすごく興味深く読ませていただきました。

 

③いのちの選別・偏見差別について
 日本では現代にそぐわない古い慣習が多様化しているなと、日々感じています。
障害に対するものだけでなく、出産において私も様々なことを、親世代の方々から、言われてきました。
 「母乳で育てるのが一番よ!」「帝王切開なのね、お産楽だったでしょう?」
 「高齢出産になるのね、赤ちゃんの検査はした?」
 「指が5本ずつちゃんとあるね、よかったね!」
 令和になっても、まだ古い慣習の浸透。いちいち反論してしまえば、母乳でもミルクでも赤ちゃんが成長すればどっちだっていいし、帝王切開は手術なのだから、自然分娩より痛くない! なんてそんなわけがない。赤ちゃんの検査も以前とは違い、超音波検査、新生児マススクリーニング検査など、精度も増し手厚くされている。
 最後の指の件は、近しい人からの言葉だっただけに少しショックでした。
 障害に対する向き合い方も、今の世の中とはかけ離れていると思います。
 広岡さんも書いておられたように、
「わが子(孫)の人生の見通しが立たない不安」
「親としての責任」「子ども(孫)に夢や希望が持てない」恐れ。
 この不安から、日常生活でも生きてゆくのに苦労する、接し方がわからない→偏見、となっているように思います。
 古い慣習が当たり前とされてきた世代に、それが“当然”のように生活を送り、子どもを育て生活を送ってきた方々が、まさに広岡さんも直面した「就学猶予」の勧め、NIPTでのいのちの選別問題の中心にいるのだろうと推測されます。

 私も不安がなかったかと言われれば、うそになります。
 しかし、NIPTを受ける選択肢は、はじめからありませんでした。なぜなら、夫婦で待望の我が子でしたし、どのように生まれてきてもきちんと育てよう、と話し合い、一定の覚悟ができていたからです。
 NIPT、障害への偏見、一人一人考え方は違って当然であるし、他人に考えを押し付ける権利もありません。先に挙げた古い慣習をお持ちの諸先輩方の考えを否定する権利もまた然りです。
 それならば、これから成長していく子ども世代やこれから親になる世代に、“経験者”である今の子育て世代が、経験に基づく情報、刻一刻と進歩する医療、新設や改新された公的な補助の正確な情報を知識として蓄え、伝えていくこと。それが古い慣習を刷新できる一端となればいいなと考えています。

 今、子育て真っただ中の私に、本書は、とても楽しくまた参考になることもたくさん書かれていました。(どの部分が参考になるかは、これから読まれる方のお楽しみ! です)
 いい本に出合えてよかったです。何度でも読み返したい本となりました。
 また、自分と同じように子育て中の方や、これから新しい家庭を考えている方たちに本当にお勧めしたいと思います。

 「期待を手放すことが子育て」この言葉を胸に、これからも広岡様や奥様のように子どもとともに楽しく子育てして、また自分自身も成長していきたいと思います。
 コロナ禍、大変お忙しいとは思いますが、ご家族皆様が健康でありますことをご祈念いたします。

 

   いたずら息子を小脇に抱えながら 大寒過ぎの自宅にて
                           たなせ まりこ

 

 

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『誰だって誰かのヒーローになれる―ダウン症児の子育ち日誌』広岡真生著

 

 年末、著者の父上の肝いりで、有志のかたがたの発起人をえて、著者出生の地、練馬区の公共施設で出版記念会がとりおこなわれました。この時期にふさわしい、簡潔で、けれども心のこもった、1時間の会でした。ここでも主役はあゆさんと、著者である「とうちゃん」。
 まずは、あゆさんが属している、ダンス教室の方たちのダンス。何人かの方の祝辞と、とうちゃんの講演もあり、講演台の真正面に陣取ったあゆさんは、話をまっしぐらに受け止めて、心がいっぱいになっている感じでした。最後にあゆさん1人のダンスと話。涙目の声で、「とうちゃんありがとう」がはっきり聞こえました。
 著者の父上は、政治思想史・評論家(中央大学教授)の広岡守穂さん。じつは、1990年に岩波書店から『男だって子育て』という本をだされていました。「30年後に、まさか、長男真生が子育ての本をかくとは、夢にもおもわなかった」とおっしゃっています。
本著の最終ゲラを読まれた父上から真生さんに、「読み応えがあった」というエールが届いたそうです。
 この父と子が、人間の基本的な家族をテーマにした表現がうけつがれたこと、時代に対してそれぞれの立ち居地から不可避な問題をテーマに書きつがれていることは、とても興味深いことだと思います。

 

 

 

『誰だって誰かのヒーローになれる』出版記念会の様子をちょこっと紹介させていただきます。

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著者の広岡真生さん

 

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花束手にしたあゆむ君

 

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ダンスのなかまたちと記念撮影

そう、みんな誰かのヒーロー&ヒロインなのだ!

 

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本書の詳しい内容紹介は、言叢社のホームページをご覧ください。

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図書出版-言叢社ホームページ

 

新井靖雄さんの写真集『雪の屋久島』のご紹介です

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●新井靖雄さんのこと

 新井さんは、秩父市の消防署で働きながら、山岳写真を主に撮っていた人で、今は秩父山岳連盟の副会長(会長は清水武司氏)、停年後の仕事として、夏場は山小屋の管理人をつとめています。
 もちろん秩父の山の写真がいちばんのライワークですが、消防の仕事を退職後、屋久島に旅して山の雪に出会い、いたく心を奪われた。以後、たびたび屋久島行をおこない、これまで紹介されてこなかった屋久島の雪の風景を核とした『厳冬の屋久島』(仮題)の写真集を出したいという希望をいだいた。そこで師であった清水武甲先生の写真集を多く手がけてきた言叢社の島さんに刊行をしてもらいたい、という希望で、武甲先生の子息である清水武司さんと一緒に、小社を訪ねてこられました。

●本写真集への過程
 撮影した2300余点から著者が200点前後のモノクロ作品を選んだ。その後、現在の印刷表現にも精通する写真家・写真批評家の島尾伸三氏が編集にくわわり、その独得の感性でさらに70枚にしぼりこみ、モノクロ・ダブルトーン印刷でいく、と決定。印刷を光村印刷にお願いした。
 命がけでいどんだ著者の厳冬の屋久島の自然、、その裸形の実存につきあたっているような風景の世界があらわになっていると思います。そしてまたこの裸形の実存から、著者がまっすぐに向きあった世界=人生さえもが浮かびあがってきます。

  

 

●本文著者の文

 

屋久島の思い出
 私の先生は山岳写真家の清水武甲先生です。先生の教えは「コツコツ撮り続ける事」「努力する程、素晴らしい作品が出来る」との言葉でした。私はこの言葉をいつも胸に収めながら撮り続けて来ました。……
 カメラを持つ時は いつも心の中で先生に感謝しております。

 最初に屋久島を訪れて、淀川小屋に泊まって夜空を見上げ「星」を見た時、思わず叫んでしまった。大きくてきれいでキラキラしていたのです。これまで私が見てきた星の5倍位大きく、これが屋久島の星なのだと感動してしまいました。是非とも屋久島を撮影してみたいと強い思いになりました。
 その2年後の12月、余りの衝撃に腰をぬかしてしまいました。屋久島には雪が降るとは思ってもいませんでしたので、白いものが目の前に飛んで来て、手の上でとける雪を見て頭がクラクラする様でした。
 次の日夜明けと共に島全体が霧のかかった白い世界だったので、その美しさに感動して涙を流してしまいました。よし「雪」をテーマに撮ろうと更に決意しました。

 ……屋久島での撮影は2週間の予定で、行きに2日 帰りに2日、残り10日間はを屋久島でテントか小屋泊りでした。装備はカメラ機材、食料等で夏でも冬でも背負う荷物の重さは変わらず約80㎏位の重量で、これを1人で背負い上げられるように、背負子2個に上手に分け、1個を背負った瞬間、腰にズシンと重さを感じます。これを1個ずつ担いで2度に分けて往復しながら中継点まで運びました。各登山口を朝6時に出発、各テント場と小屋に着くのが20時から21時頃着きます。

 屋久島に通いつめて15年、冬は13年間は冬で、12月から2月までの間に撮影に入りました。13年間の前半は時々雪には恵まれたが、後半は温暖化の影響で雪が降る率が少なくなり、空シャッターが多かった。「これでもか」と言いながらも「賭け」の雪への挑戦でした。…

 

一人の青年と出会う
 あれは12月上旬 花山歩道広場にテントを張って、一休みしていた時の事だった。ザクザクと雪の上を歩く音がしたので7日目にして登山者が来たのかなと顔を出してみて驚いた。スニーカーと薄いジャンパー、ショルダーバック姿で登って来たのだ。ライトも持たず、これから先の行き先も分からずただ下を向いたままだった。
 テントに入れコーヒーを差し出すと、美味しそうに飲み始めました。これは空腹にちがいないともう一杯作りパンもあげた。見れば両足はぐっしょり濡れ寒く冷えているので、予備の靴下とダウンを貸したが、これでいくらか暖かくなるからと言いながらも心配でした。時間的に これからの下山は無理。ここに泊まるのが安心だと、大型ザック2個の中身を全部出し、それを下に敷いてシュラフカバーで寝る事にした。中身はツエルトを張った中に入れたので安心。
 非常食があるの、食事を作りながら話をしても返事もなく、ようやく満腹感を味わうと 笑みが出て来てきたので、もう大丈夫とホッとした。「今日の登山は 無茶すぎるよ」と注意した。宮之浦港へ着きレンタバイクを借り、登山口と書いてあったので来てしまったのだと言う。何も知らず登って来てしまい「ごめんなさい」の一言。「何か訳があるんだね」と言うと、一気にあふれ出る胸の内を語り出した。「僕は生まれて初めてこんなに親切にして頂いて嬉しい」と泣きながら言うので「誰でも困った時は同じだから」と、そうっと背中をさすって上げたら「親にもさすってもらった事が無かった。この事は一生忘れる事はありません」と。
 そして「僕の話を聞いて下さい。4月に建築会社に入り月1回の休み。3ヶ月間見習いとして働き、8月から現場責任者を任され、何も分からずただ立っているだけでした。
 おじさんと同じ位の年の人達に「仕事がのろい!バカ!役に立たない男だ」とか、さんざん言われていて、土日も無く3ヶ月間に3日休んだだけです。
 現場で倒れて 救急搬送され1週間の入院、診断の結果「ウツ病」でした。1ヶ月間静養する事と言われた。たまたま駅にあった屋久島のポスターを見て、来てしまったと言う。
…… 「泣き事も言わずに耐えたな。本当に凄い男だよ、もう大丈夫、おじさんが太鼓判を押すよ」「おじさん、僕は今までで初めて誉められたよ、嬉しい。」と大泣きしてしまった。私は彼の背中を両手でさすりながら「やる気があれば何でも出来るよ」と伝えると、大きくうなずき 固い握手をし、知らぬ間に眠ってしまった。
 翌朝の青年の「笑顔」が最高のみやげだ。雪が凍ってバリバリと踏む足音の彼を「岳人の歌」を唄って見送った。頑張れやー。

 

見事なシャクナゲ
………標高1300m付近から群生し 前年の9月初めに花芽が出はじめて、12月頃につぼみも大きく3~4㎝位になり、葉は寒い程うらを中にし筒状に丸まります。
 花の季節は5月20日頃より6月10日位です。………2週間もすると一斉に花ビラは落ち 辺り一面大きくきれいな花に覆われます。
 その斜面を見ていると、花ビラが笑顔で迎えてくれている様で、うれしくなります。
 忘れられない美しさでした。

 

1冊の写真集からの出会い
 前略……平成20年9月9日、山梨県の鶏冠谷本谷に単独撮影に行き、吊橋から東沢を経て鶏冠谷本谷に入った。滝ツボ、ルンゼ・ゴルジュ・高巻等をしながら登り、当日の撮影ポイントの「大滝」に着いた。撮影が終わったらすぐに帰る予定でした。……約30分下り、高さ15m位の滝の上部に着き、ザイルは持っていたのですが、スズタケの根本を持ちながら下り始めた時の事だった。
 「アー」と思った瞬間、足から落下し回転しているのが分かった。そして頭から岩に激突したその1~2秒間に「生きるんだー」と叫んでいた。ヘルメットが動き、頭頂部にグアーと刺さった感じまでは覚えているが、後は分からない。
 意識不明がどの位続いていたのか分からないが、目の前に「薄青い物」が見えて「うっすら緑色ぽい物」が見えてきて、「アレー」と気がついて来た。両手を上げたら動き、手を握ってみたり、更に右足を動かしたら動き、左足も動き両足が動くんだと。
 「ああ、生きているんだ」と叫んだ。「本当に生きているんだ」。生きているうれしさと、現状の恐怖と痛さとこれが地獄と天国かと強く感じてしまった。
 しばらくして立ち上がろうにも激痛が走り、とても無理なので背負ったザックによりかかり少し休んだ。静かに体を動かし湯を1口、ブドウを3個口に入れたら、格別においしい味だった。このままでは死んでしまうので、四つん這いで後ろを見たら滝つぼだった。少しずれて落ちていれば「水死」だったかも知れない。痛みをこらえながら渡渉を繰り返し、懸垂降下を数回もくり返し、5時間かけてやっとの思いで東沢出合に着き、更に1時間かかり西沢渓谷駐車場にたどり着いた。途中出会う人達が、妙な顔をして私を見たりする。いつもの様にお風呂に立ち寄ったら、受付の人が「わーわー」叫び「早く鏡を見ろ」と言う。歌舞伎役者の形相で、顔中血のりで恐ろしいまでになっていたのである。
 
 そんな事があったある日のこと、友人夫妻から連絡があり、[夫妻がたまたま著者の前著写真集をさしあげた]人と逢うことになった。その男性は写真集を見て、感激したので早く逢って話をしたかったが、半年間入院をしていたので遅れてしまったとのことでした。
 「実は私はC型肝炎の肝臓がんで、医者から余命6ヶ月と宣告されたのだ」と、小さな声で言うではないか。驚いてしまった。
 治療のため抗がん剤の注射をすると 40℃くらいの高熱が一週間も続き、何も出来ず大変辛く、費用も沢山かかり 非常に大変だとの話を聞きました。……たまたま私が沢の撮影に行って滑落して助かった話をしたら、大変興味深げに、もう一度その話を聞きたいと言う。次の日喫茶店でいろいろ話をしたが、滝へ転落しながら叫んだ「生きるんだー」の言葉が深く印象に残った、との事でした。
 余命宣告されて心が折れ弱くなっていたのでしょう。テーブルに出された手に、私も手を添え握り合ったまま、言葉が見つかりません。……店内は静まり返り妙な雰囲気でした。
 実は今、私はある所の写真集を出版しようと通っている所があるが、必ず実行するので待っていて欲しい。あなたは病気を治す事に全てをつくすと、2人で約束した。
 目が輝き、笑みがこぼれ、固い握手となった。素晴らしい出会いとなり、病気に負けてたまるもんか、生きるんだと強く決心したそうです。帰りの運転は、知らない内に2時間で家に着いたと喜びの電話があった。…その後は月3回位連絡し合っていた。
 それから2年が過ぎ、いつもお世話になっている屋久島の民宿の主人が、屋久杉で木工品を作っているのを見て、切れ端を頂きペンダントを2個作った。

 

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 直径5㎝位で「俺は生きるだ」「病に負けない明るい希望」と刻み、お互いの「お守り」として袋に入れ肌身離さず持っている事にした。今、屋久島を撮影していると初めて伝えた。
 それから3年が経ち、数値が下がって来たので、医者が驚いていると伝えて来た。……こんな事があるのかと、2人共喜んでしまった。……そして5年後 抗がん剤注射は半年に1回となり、好きな写真撮りに出歩ける様になり、年が変わる毎にC型肝炎の数値が下がり 外出の機会が多くなり楽しい気分だと伝えて来た。登山中、突然携帯電話が鳴り「数値が20以下になったので医師から大丈夫だから」と云われたと、力強い声が聞こえて来た。よく8年間ここまで頑張ったなーと、感銘を受けた。本当にお目出とう。
 自分の病気は自分で治すんだと、強い気持ちが大事であり、支える仲間がいる事は大きな力になると、教わった。あれから5年後だが、私も写真集としてまとめる事が出来ました。

 

屋久島の風
 雨からミゾレに急変すると、永田岳西側断崖絶壁の下、海から吹き上げる風は風速20m以上ともいわれる状態になる。永田岳と鹿之沢小屋間の稜線上と宮之浦岳西側と平石とビャクシン岳付近は宮之浦谷からの吹き上げで、稜線上は強風で四つん這いで歩く状態である。富士山の風は四方八方から吹き荒れるが、屋久島の風は海からの一方向から吹き上げる強風である。その強風が美しい珍現象を見せてくれます。強風と雪と霧が当たる岩肌、樹木の幹や枝、草、細い物等に付着するのが“エビのシッポ”で、この現象は風の吹いて来る逆方向に、エビのシッポによく似た形に氷状に薄く付きます。1㎝位から20㎝位に伸びて行きます。
 13年間も永田岳に通い続けた中で、今回、出会えた珍現象は驚きの光景そのものでした。たまたま大寒の日で“大寒たまご”と命名しました。
 これだけ通った中で、最も感動した、実に素晴らしい美しい雪景色でした。
 又、強風で恐怖の一夜を経験したのは、屋久島へ通い始めた頃、投石岩屋にテントを張った時でした。格好の雨よけになると思いフライをかけ、大きな荷物を中と外に置いた。
 真夜中になって、雨と強風でゴーゴーと大きく不気味な音が聞こえたと思ったら、バリーバリーという大音と共にテントがしなり動き出した。恐ろしい状況だった。
 朝方テントを出てみたら、フライは破れ、それが強風にあおられていた音だった。
 テント脇に置いた装備の一部が吹き飛ばされて無くなっているので 探し歩いていて初めて分かった。洞窟には風の抜ける穴があった。正にトンネル状の中と同じだったのです。
そして近くに風の来ない格好のテント場が見つかった。それ以後はこの場所をベースキャンプ地とし使用する事となった。

屋久島の永田岳山頂付近、西側は断崖絶壁となっていて、「エビのシッポ」がびっしり石に着いた様子を撮りたくて 頂上まで登ったが、だめで下りて来た。山に入ってから3日目 水場が近い風の当たらない鞍部にテントを張った。夜中に全身の身震いと強烈なだるさが続き……低体温症になったなってしまう。また、「体重90㎏救助活動」をしたり。]

 

千尋の滝
 鯛之川にある千尋の滝は落差30m、川幅およそ100m水の流れ落ちる幅はおよそ40mで、いつも大水量で一気に流れ落ちる様は見事です。
 屋久島は雨が多くて有名ですが、大雨の後の滝の姿は息を呑む激しさで、まるで「龍の滝のぼり」に見えました。
 ドウドウと流れ落ちる水が霧状になり、それを海から吹き上げる強風が渦状に巻き上げ、谷から吹きおろす風とがぶつかり合って、まるで天に昇る龍が 体をくねらせ躍動している様です。流れ落ちる水面より上空に舞い上がっており素晴らしいものでした。
 滅多に見られない物語でした。その一枚の写真がありますが、下から撮っているのはこれが最後でしょう。なぜならまもなくしてそこは、進入禁止になってしまいました。

 

永田岳 これが最後の挑戦
 屋久島の冬の撮影山行は13年間続けて来ました。
 その永田岳の「V字峡の岩壁」全体に“エビノシッポ”が密着している姿と、海と永田集落が見えているという、そこだけの写真を撮りたい一心で通いつめて来ました。
 今まで何回登り降りした事か。途中で何度撤退した事か。雨、雪、みぞれ、あられ、風と戦いながら「これでもか、これでもまだか」と言い続けて足を運びました。
 平成31年1月28日。「魔の永田岳V字峡岩壁、今回が最後の挑戦」。雪は毎年降るわけではなく久し振りに小雪がちらつく新高塚小屋を真夜中の1時に出発した。ヘッドライトを頼りに平石に着く。
 もう森林限界となり雪は20cm位、辺りは雪明りと霧に包まれスノーシューで登って行った。焼野T字路付近のシャクナゲの葉が凍って丸くなっている。
 8時に永田岳鞍部に着く。最低限の荷としてカメラ、ツエルト、非常食、ザイル、ハーネス その他それ以外のテント類はビニール袋に包んでそこに置いた。
 永田岳に最後の 2時間の登りとなる。途中突然 目の前から霧が流れその中に山々が写し出され大スクリーンとなったが写真は撮らず、先を急いだ。でも素晴らしいチャンスを頂いたと、うれしくなって来た。
 永田岳に10時に着く。
 「V字峡岩壁」を覗くと、“エビノシッポ”が密着しているではないか! 見事であった。
 「待ち続けた姿が目前に現れ」思わず手を合わせた。この岩壁の底部に下りて撮る事になるが、岩の表面はボロボロでボルトも使えず、ハーケンを打つリスも無く、特製の木クサビを大きく口を開けている岩と岩との間に打ち込み固定した。次にクサビにザイルを固定して降下準備完了。体にはハーネス、ヘルメット、ザックにカメラを入れ全て完了。
 正座をして御神酒で清め静かに今までの思い出を空に向けて語り、最後の挑戦が無事である事を祈って「よしヤルゾー」と叫んだ。
 ザイルを両手でしっかりを握りしめ、20m懸垂降下開始。
 「夢中でシャッターを切った。やったぞ撮れた。」胸が一杯になった。
 「誰にも撮れない写真がとれたゾー」。
 今度は登らなければならない。左手のザイルにユマールをセット、右手にピッケル。ピックを雪に突き刺し、足のアイゼンも同じように雪に突き刺しながら静かに登る。少しずつ少しずつ上がって来た。
 登れた! ドッと喜びがあふれた。13年間通い続けて、やっとの思いで撮れた「1枚の写真」 平成31年1月28日、完結だ!
 11時半に下山開始。通い続けた「魔の永田岳」に心からお礼を言った。事故も無く無事18時に新高塚小屋に着いた。

 次の日下山、民宿へ着いた。「ただいま、今帰りました」。民宿の御夫婦が迎えてくれた。夕食に「鯛料理」で祝って下さいました。最高にうれしかった。長い間すっかりお世話になりありがとうございました。もう 72才になっていた。「ここの1枚」が写真集の表紙となる。

  

 

読者から写真集の感想が届きましたので、こちらで紹介させていただきます。

 

いのちの源とコンタクトできるような驚異の魔法の本 『雪の屋久島』

                           横澤晶織

 

『雪の屋久島』をやっと通して全ページ見ることができました。今日は心身が整っていたので、受けて立つ力がありました。じーんと胸が震えてしまう写真です。ページから屋久島がこちらへ流れてこんできます。今日は春みたいで、窓を開け放って本を開きますと同時に屋久島と自分がつながったような、自分が屋久島に溶けこんでいるような。なんとも不思議な心地。
第二章では息が詰まっているのにも気づかず、清水さんの文章とページの白さで、ほっとなり、あ、山の凄さに息詰まってたとわかりました。あらたな気持ちで第三章へ進み、新井さんのエッセイで温かいお人柄に涙が流れ、解放感を味わい、いったん本を閉じました。
エッセイのつづきはぞーっとするようなことが次々で、よくぞご無事で!!と驚くことがいっぱい。命を懸けてあの風景を写してこられたんですね。ああ、凄いなあ。ああ、ありがたいなあ。

19ページ。二頭の象が静かに佇んでいるような。
48・49ページ。神々しい月が仏さまのように見えて。

いのちの源とコンタクトできるような驚異の魔法の本ではないでしょうか。

 

 

 写真集の内容は、言叢社のホームページをご覧ください。

↓こちらの「既刊」をクリックしますと、ホームページへのリンクになっています。

既 刊

 

朝日新聞のホームページでも紹介されました!

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新刊案内『誰だって誰かのヒーローになれる』

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詳しい内容は、言叢社のホームページをご覧ください。

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既 刊

 

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 「誰だって誰かのヒーローになれる」って、ホントだよ!

 

 

図書出版-言叢社ホームページ

 

村瀬雅俊・村瀬智子著『未来共創の哲学』書評のご紹介

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図書新聞」に掲載された書評を紹介いたします。

 

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 既 刊

 

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