ことばのくさむら

言叢社の公式ブログです

「しのぶ会」その2

◆「しのぶ会」のあとに
■「渡辺公三氏をしのぶ」第2部 ■
10月4日の仲野麻紀さんの追悼文につづき、第2部として、会ののちによせていただいた追悼の文を掲載させていただきます。
 
佐藤=ロスべアグ・ナナさん  恩師渡辺公三
 私は渡辺さんの教え子の中の第1号博士でした。立命館大学の先端総合学術研究科で、博士課程の3年生から渡辺さんが指導教員になり、2年間をかけて博士論文を仕上げました。
私は、研究のアイデアを形にするのが苦手な院生でしたが、渡辺さんは根気よく私の話を聞いてくださり、また書いたものを読んでくださり、丁寧にコメントをつけてくださいました。渡辺さんはどちらかというとカチッとした論を書かれる方だったので、私の苦手なことを、渡辺さんから学ぶことで、論文というものの書き方を学んでいったと思います。幸い博士の1号でしたから、他の院生よりも少し余分に時間をかけてくださった気もしています。私の後は、博士の院生さんがたくさんいて、また渡辺さんは大きな役職にもつかれていたので、お忙しそうでした。そういう意味で私は幸運だったのかもしれません。
 渡辺さんから直接言われたことで、今も覚えていることは、(1)「論文中で5行書くのに5冊は書籍を読んでいる必要がある」こと、(2)「一つの研究をやりとげるには10年はかかる」こと、そして(3)「僕は学生を指導するという事は、彼/女らの話を傾聴するということだと思っています」です。(1)と(2)の教えは、現在、私の院生たちがいつも聞かされることになっています。また、(3)については、授業中の院生とのやり取り、または院生が私の部屋を訪ねてきた時に、常に実践をしています。私の実践については、卒業してから渡辺さんをお訪ねした際に、直接お話したことがあり、少し照れながら、嬉しそうに笑っていらしたと記憶しています。
 あまりにも突然に逝ってしまわれて、遠方に住む私には、まだ現実感がありません。私はこれからも渡辺さんに教えていただいたことを、私の院生たちに伝えて行き、またその院生たちが誰かに伝えていってくれたらいいなあと思っています。そんな風に続けていくことで、言葉の中に渡辺さんが生き続けてくれることを願いつつ。
2018年11月13日
SOAS, University of London


松井 純さん  編集者として渡辺公三さんを話そうと思う
渡辺公三というひとについて何を話したらよいのだろうか。人文書院に勤めていた京都生活の後半、家が同じ北大路通沿いだったから、道端でときどき見かけた。連れていた愛犬(名前はリヴァース!)を拙宅の真下にあった銀行ATMで暑さしのぎさせていたり、休日に家族と散歩(おそらくランチに向かう)していたり、と。また、車に乗せてもらったこともある(BGMは意外にもドゥービーブラザーズ)。こうしたいわば近所づきあいの範囲にもそれはそれで懐かしい思い出はたくさんあるのだが、やはり編集者として話そうと思う。
最初の仕事は、論集『文化解体の想像力』(二〇〇〇年七月)への寄稿(「マルセル・モースにおける現実と超現実――シュルレアリスムへ向けた人類学からのいくつかの断片」)だった。巻末の「編集覚書」から推測するに、執筆依頼はその三年くらい前のはずだから、一九九七年、編集者になってまだ二年にも満たない新米のころだ。その後知るところとなるが、公三さんは遅筆だ。この論文一本にもひどく難儀したうえに、ようやく受け取った原稿は、論文としてはなんとも未完成なもの、副題にあるとおりの断片といってよいメモ的な内容だった。公三さんは悲痛な表情で、忸怩たる思いで「断片」と付けたと言う。釈明をいくらされても経験の浅い身としては戸惑うばかりだ。ただ、ことばとは裏腹に本人は至極ご満悦だった節が大いにある。じっさい、学内で同僚に見せて回り、好評を得るや小躍りしていたとの証言をいくつも聞いた。
この仕事こそが以後二〇年続くことになる公三さんとの関係すべての始まりであった。論文=断片には注がなく、わずかな数の参考文献が掲げられているにすぎない。そのなかに「モース、マルセル 未刊 『民族誌学の手引き』渡辺公三訳」の一行が、モース邦訳の刊本、弘文堂版『社会学と人類学(I・II)』の隣にさりげなく置かれていた。ほかのモース未訳テクストはすべてフランス語書誌クレジットで記されてある。その秘密を教えてくれたのは編者の真島一郎さん、曰く「渡辺公三さんはManuel d’Ethnographieの翻訳を持っているはず、いわば私家版のようなもので、一部のひとだけがその存在を知っている」と。
編集者としてこれを頂戴しないわけにはいかない。ある昼下がり、早速訪ねた先には家人はおらず、公三さんだけ。さしでの対面は初めて。口数少ない面前で、こちらはただしゃちこばるのみ。湯がわきコーヒーを淹れようと立った台所から「あれ、フィルターがないな」との声、つづいて「どうしようか。油漉紙があるからそれでやってみようか」。さすがレヴィ=ストロースのひとだ、ブリコラージュだ、と内心おかしな感動をしていた。ひどくざらついたコーヒーの味とともに忘れられない一景である(ちなみに、公三さんとは酒ではなくたいていはコーヒーだった。レヴィ=ストロース夫妻とコーヒーを飲んだときに砂糖を使ったところ、夫人から民度が低いとたしなめられた、と何度も言っていた。ちなみにちなみ、公三さんとはカレーが多かった。『檀流クッキング』の愛読者であり、家では一週間分を大鍋で作り置きすると言っていた)。
この訪問をまえに、公三さんへのオファーのしかたを考えねばならなかった。まずは公三訳『手引き』の存在を確認すること、『手引き』出版にあたっては、単巻ではなく、『モース著作集』を組み立てその一巻として出したいと申し出ること。なぜモースなのか、その構成はどうなるのか、予想される質問をシミュレートし、ない知恵をしぼって諸々突き詰めていくうちに、知らずと公三論文=断片をなぞりなおしている自分に気づいた。これこそが渡辺公三ジーである。この種の誘導尋問的なやりとりがとても上手なひとだったと思う。ある道すがら、「ミシェル・レリスが好きだと言うけれどどうしてですか」と訊かれ、その場はモースとの短絡で曖昧な返事でごまかしたことがある。帰路に酔った頭ではたと気づいたのは、アルフレッド・メトローのことだった。レヴィ=ストロースと並ぶ、いやそれ以上に大きな、ピエール・クラストルの師。若き公三さんが翻訳した『国家に抗する社会』の「訳者あとがき」はメトローについて日本語で書かれた文章の嚆矢だろう。「私にとって詩人=民族誌学者の典型はアルフレッド・メトローです」とレリスは語っている。レリスはメトローのなかにもう一人の自分を見ていたほどなのだから、公三さんは当然、そこに話が及ぶよう水を向けたにちがいなかったが、即答できずに終わってしまった。まさにお話にもならなかったわけだ。
『手引き』から『モース著作集』へ。この企画は、わたしの転職にともなって平凡社へと移ったが、じつはそう簡単には引き受けてもらえなかった。『著作集』の構成案作成は容易ではない。デュルケムの後継者として亡くなった同僚たちの喪の仕事に精力を費やし、ダヴィデの星をつけられて悲惨な最期を遂げたモースには、生前唯一の著書もなかったわけだから、『年報』に載ったテクストをすべて見渡したうえで、その全体像をつかまねばならない。逡巡する公三さんが最終的に出した条件はただひとつ、真島一郎さんとの協同作業であった。研究会を立ち上げそこで訳文を溜めていく方式でスタートしたものの、全六巻の『モース著作集』は日の目をみていない。研究会は長期にわたって続いたが、その間に、副学長の要職につくなど想像を超える学務の多忙さが公三さんを襲うことになったからであり、ほかのメンバーもそれぞれに事情をかかえることになったからである。めざすべき質的レベルをはじめ、掲げた目標はひじょうに高いものであり、研究会ではむきつけなことばをぶつけあうような厳しい局面が一再ならずあった。道半ばの宙吊りのまま、いまもメンバーの誰もがこの仕事を総括できずにいるだろうが、それが可能となるのは晴れて『著作集』完成の暁でしかない。モース研究会の成果としては、現在のところ『マルセル・モースの世界』(二〇一一年五月)だけがあり、全九章のうち三章分を公三さんが執筆している(「第?部 快活な社会主義人類学者の肖像」中「第1章 民族誌 知の魔法使いとその弟子」「第2章 モース人類学あるいは幸福への意志」、「第?部 起点としてのモース」中「第1章 フィールド レヴィ=ストロースからさかのぼる」)。
このように、公三さんとの仕事は一貫してモースを真ん中において続いてきた。例外は『闘うレヴィ=ストロース』(二〇〇九年一一月)だ。これは、わたしが新書の編集長職に就き、部数のはれる強いテーマをどんどんラインナップしていかねばならない苦境にあるとき、表看板であるレヴィ=ストロースに関しての書き下ろしを、公三さんに泣きついたものであった。『モース著作集』だけでも手に余るところに、無理強いにちかいかたちで頼み込んだのである。そのあたりから、しきりにこれからの残り仕事の設計について口にするようになったと記憶している。眼前の山を登りきると、順次ちがう山が現れるコルシカ島の地勢の喩をかりて、「最後はアメリカ研究をしたい」と。『モース著作集』にくわえ、『闘うレヴィ=ストロース』もまた、結果としては本人を希望する道から遠ざけてしまうことにしかならなかった。ひじょうに申し訳なく思う反面、そこが公三さんらしいところでもあったとあえて言ってみたくもなる。いつでもどこか楽観的なところがないわけでなく、どうもマゾ的気質があったのではとの疑念が大いにあるからだ。公三さんの好きな小話を思い出す。サディストとマゾヒストの会話というもので、「マ:もっといじめてよ――サ:いやだよ」。これだけであるが、たしかに何度か聞いている。学務についても同様だったのだろうか、健全な欲目も確かにあったはずだし、そう思いたい。
『闘うレヴィ=ストロース』のゲラは取っておけばよかったと悔やんでいる。そのくらい歴代ワーストの赤字・差替・入替、編集は最後の最後まで通し読みができなかった。新書は毎月の刊行日が決まっている定期刊行物である。何校かわからない最終形を読んだのが校了前日くらいの突貫だったが、こちらもずぶとくなったもので、今回は断片で終わらせることなく一応の恰好はつけさせてもらった(余談だが、この本の帯文句は詐称とamazonのレヴューなどでは評判が悪い。「入門書」とは偽りだと。編集者は場合によってはそのくらいのことはやるのです)。げんきんなことに、喉元すぎればなんとやら、本が出来上がるととても喜び、名刺代わりとばかりに方々に配っていた。奇しくもレヴィ=ストロースの死までが刊行を応援する結果となり、おそらく公三さんの本のなかで一番売れたのではないだろうか。販促企画である紀伊國屋書店大ホールでの中沢新一さんとの対談も特有のしかたで楽しんでいたようだ。

これまで三〇〇冊近くの本を作ってきたが、数えてみると、編集の仕事を始めてから来春で四半世紀が経とうとしている。その数の分だけ、いや形にならなかったものはそれ以上あるのだから、はるか何倍もの著訳者の方々とつきあってきたことになる。無数の著者にまじって、通常の仕事の範囲をこえた間柄になる書き手が、わずかだがいる。わたしにとって公三さんは間違いなくそのひとりだ。

さまざまな追悼辞のなかに、公三さんの他人とのつきあい方に触れたものがあった。「ていねい」であると(関一敏さんのことばかな)。また、複数の方々からは「はにかみ屋」が出た。まったく同感。要はひととの距離の取り方について言っているのだろうが、個人的にそれは、公三さんの翻訳仕事好きと関連するかもしれないと推っている。コミュニケーション流行りの世であるが(コミュ力?)、すべてはすべからく翻訳であるということもできる。なにも異文化間、異言語間だけが翻訳ではない。自分をとりまくあらゆるものとの関係は翻訳の領域だ。それを知っており、それを愉しめ、それに長けたひと。研究者になるまえに通訳者として身を立てようと考えていたといくども聞かされたことがあるが、その通訳者とはこういう意味だったのだろう。公三さんのフィールド話はついぞ聞いたことがないが想像はつく。クバの織物への接し方。

その関連でいうと、哲学者エティエンヌ・バリバール来日講演後の、彼を囲んでの小宴でのやりとりは忘れられない。アルチュセール列の政治思想を専門とする人たちが多く、酒も入りみな早口にキンキンするほどの大声でがなりたてるなか、ちょうどテーブルをはさんでバリバールの対角線の先、いちばん離れた席に公三さんはいた。ぼそぼそとしたフランス語で話すのだが、バリバールの耳に一番届いていたのはこの声だった。自嘲気味に「ぼくのフランス語は閨房フランス語です。アカデミックなものではありません」と言っていた公三さん、その韜晦も含め彼の残した翻訳の仕事についてあらためて考えてみなければと強く思う。

公三さんは年表的に思考するひとでもあった。作った本の奥付やらメモやらでその真似事をしながら二〇年間の交わりの一端を思い返してみた。あるのは、感謝と謝罪、そして約束――遺影の前で誓った『モース著作集』の刊行。

付記  しのぶ会当日は司会役に徹していたため発言を控えていましたが、言叢社の五十嵐さんからこのブログのために何か書くようにとの仰せがあっての小文です。ところが提出後、ブログにアップする直前、偶然書店でレヴィ=ストロースの新刊『仮面の道』(ちくま学芸文庫)を贖いました。かつて山口昌男さんと渡辺守章さんの共訳で一九七七年に新潮社から出たものは持っていますが、今度の新刊の帯には増補完全版と謳われています。その謂は、一九七五年に〈創造の小径〉叢書のひとつとして刊行された原書旧版が、一九七九年に増補され二部構成に改訂されており、それを指してのことです。そしてなんと、訳者に渡辺公三の名が新たに加わっているではありませんか。そう増補分の第二部は公三さんの訳なのです。詳しい経緯は当該書の文庫版後書きをお読みいただくのが一番ですが、原著四〇年を経て増補版を上梓できたことは公三さんのお蔭であり、死の直前までその仕事を続けられていたことがわかります。

 
 平凡社渡辺公三さん著作
 
 平凡社の、公三さんがかかわった本
 
 増補完全版 「仮面の道」ちくま学芸文庫

 

 
レヴィ=ストロース、受け継がれる仕事
栗山雅子さん:このたび、私も一言ブログに、とお誘い頂きましたことありがたく、思い出すことをほんの少しだけ書かせていただきます。
  レヴィ=ストロスの企画は、みすず書房創立者であった小尾俊人が始めたもので、京都の大橋保夫先生や外語大におられた川田順造先生などのご協力を得て進められました。ですから、私が引き受けたころは、「社の企画」を比較的若い編集者がバトンタッチしていく、という感じがありました。『やきもち焼きの土器つくり』は渡辺先生に小社で翻訳をお願いした最初の企画でしたから、私も全力投球し、いまだに記憶に残っている一冊です。渡辺先生がちょうど京都に移られたころと前後すると思います。祇園近辺を先生にくっついて、ずいぶん歩きまわり、そこでレヴィ=ストロースのお話をしたのを懐かしく思い出します。
  渡辺先生の言叢社さまとのお仕事や、平凡社の松井さまとのお仕事は、いつも「すごいなあ」と、ほとんど羨望の気持ちで拝見していました。「モースをもっときちんと紹介しなければいけない」「一個人の同定は犯罪者の写真やパスポートに注目しなければ」などというお話を、フムフムと伺っているうちに、いつの間にか、そのものズバリのご著書が出てびっくりしたものです。松井さんのお話を今回読ませていただいて、その大変さ(?!)を想像しました。想像はできますが、私の大変さなどは、皆様に比べれば、大したことはなかったのだと思い至りました(本当です!)
 そして私が定年になったとき、次の世代の石神に、レヴィ=ストロースはごく自然にバトンタッチしたのでした。確か、『大山猫の物語』を仕込んで、しばらく経った頃でした。渡辺先生との仕事上のお付き合いもそこで終わりましたが、仕事以外のお付き合いは、ずいぶん長く続いた気がします。
  鎌仲ひとみさん監督のドキュメンタリー『六ヶ所村ラプソディー』を観る会にお誘いくださったのは、私の記憶が正しければ(少し自信がないのですが)渡辺先生だったと思います。素敵な奥様とまだ小さかったお嬢様にお会いしたのは、その時だったのではないでしょうか。
  金澤さんが書いておられる、新宿ゴールデン街劇場の「Ky コンサート」は私も行きました! 懐かしいです。その後も、仲野麻紀さんやKy のデュオのコンサートに何回かお誘い頂いたり、CDを頂戴したりしましたが、そのたびに付けてくださるお手紙が、「あいかわらずあきらめが悪く」とか、「またしつこくお誘いしますが」という風に始まっていて、渡辺さんという方はこうして、いろんな方たちとのネットワークを小まめにつくっておられるのだなあ、と感心したものでした。
  ひとつだけ、心残りがあります。私はずっと、渡辺先生のフィールドワークの具体的なお話を伺いたいと思っていたのです。それがついに果たせなかった、これは本当に残念です。
                                                 (みすず書房・編集者)
 
 
謙虚
 
 レヴィ=ストロース神話論理』の第三巻『食卓作法の起源』で思い出すいくつかの場面のことを書きたい。
 『食卓作法の起源』は、当初から渡辺先生ご分担の巻だった。年齢もほとんど違わない四人の翻訳チームはほんとうに雰囲気がよかった。打ち合わせの席では余談で、渡辺先生は大学院時代フランスに留学されていたあいだ、アルバイトで企業の商談の通訳もしたことがあるなどと、いま思い返してもおもしろい経験をしたというふうに楽しそうにお話しになっていた。それから、研究者としてものを書かれるようになってまもない頃、翻訳の訳文について出版社の担当編集者の方にたいそう鍛えられたとも。だからいまの自分があるというおっしゃり方だったと記憶する。
 打ち合わせは事前に互いの訳稿を読み合って来られての相談だったが、渡辺先生から、意味のまとまりごとに文を切ってわかりやすく訳すよりも、フランス語原文が一文の場合にはなるべく連続した一文で訳出してみてほしいと提案があった。そのほうがレヴィ=ストロースの思考の動きを追いやすいと渡辺先生はお考えだった。共訳の先生方のあいだに一瞬ためらいの空気が流れたように思う。が、その方針でやってみましょうとみなさんがおっしゃった。どなたもいうまでもなく渡辺先生のレヴィ=ストロース理解を信頼していらしたから。けれども、論理的な構文の助けを借りるわけにいかない日本語で、長文を長文のまま表現するのは、翻訳のセンスがなくてはできない。渡辺公三訳は最もレヴィ=ストロースの文章の音楽性をよく伝えていると思う、という評を聞いたことがあるが、訳語の次元でも渡辺先生は、たとえば神話の登場人物のひとりle passeur susceptibleを「傷つきやすい渡し守」とされた。それまで「怒りっぽい~」「感じやすい~」と訳された例もあって、じっさい渡し守は苛立ったりするのだが、それを「傷つきやすい」とは、それこそ渡辺先生の感受性の豊かさ、細かなところまでよく見えたうえでのまなざしの温かさをあらわしていないだろうか。
 シリーズ『神話論理』の刊行開始にあたって、ガイドブックもつくった。その渡辺公三・木村秀雄編『レヴィ=ストロース神話論理』の森へ』で、渡辺先生は97歳目前のレヴィ=ストロースにインタヴューを申し込んでパリに赴き実現して下さった。最晩年のこの貴重なインタヴューで、ときどき、問いに関連するレヴィ=ストロースの著作の一節を渡辺先生が面前で朗読されるくだりが出てくる。ご高齢に重々配慮されての工夫だった。しかし、校正時に渡辺先生は、これがわたしの力の限界ですとしきりにおっしゃっていた。読むとたしかに、レヴィ=ストロースはなかなかストレートにそうですねとは答えていない。渡辺先生はエリボンとの対話『遠近の回想』を高く評価しておられたので、きっとあのようにいろいろなことを深く聴き取りたかったと心残りでいらしたのだろう。このことといい、院生時代や駆け出しの頃についてうかがった話といい、わたしの接することのできた渡辺先生はこのように謙虚でいらした。
 渡辺先生には結局、『食卓作法の起源』ののち最終巻『裸の人』の翻訳陣にもお加わりいただき、全巻をしめくくる訳者あとがきも執筆していただいた。あとわずかというときレヴィ=ストロース他界の報がとどいた。まにあわなかったと痛恨の表情の渡辺先生が眼裏にうかぶ。
 『神話論理』四部作・邦訳全五冊の刊行じたい、渡辺先生なしにはありえなかった。かつて故・大橋保夫先生の下で始まった出版企画が長年とどこおり、レールから敷き直しての再始動をみすず書房は渡辺先生にご相談した。錆びついた車輪がようやく回りはじめる時点で最大の力が要ったはずで、その後に社内で何代目かになる編集担当を引き継いだわたしは、渡辺先生の手腕をじゅうぶん語ることができない。また、わたしは渡辺先生の一面しか存じ上げないから、こうして断片的なことばかりしか書けない。ひとえに編集者として力量が足りなかったからだ。だから片想いなのだけれど、渡辺公三先生を心から敬愛する。

石神純子みすず書房

 

f:id:ubuya:20190207222518j:plain
みすず書房の、公三さんがかかわった本